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「ミラレーパの生涯」第二回(1)

2010年11月24日

解説「ミラレーパの生涯」第二回

【本文】

 戻ってきたミラレーパを見て、マルパは内心喜びましたが、また冷たい態度で接しました。ミラレーパは再び絶望に陥りますが、ミラレーパを哀れに思っていたダクメーマが、ミラレーパに秘策を授けます。それはマルパの手紙を捏造して、マルパの弟子であるゴクパのもとに送り込み、ゴクパから教えを授けてもらうという案でした。ダクメーマは、マルパがなぜミラレーパに試練を与えているかという深い意味が理解できなかったので、人間的な哀れみから、ミラレーパに助け舟を出してしまったのです。

 はい。まず前回までのところを復習するとね、ミラレーパは法を求めてマルパのもとに弟子入りをするわけだけど、マルパは教えを与えることなく、ひたすら強制労働というかな、肉体労働をさせ、それだけではなくて、わざとね、弟子のグループの中から閉め出したりとか、みんなの前でバカにしたりして、まあ徹底的に心身ともにミラレーパをボロボロにね、追い込むわけですね。で、その中でもミラレーパは、前生からの縁、まああるいは強靭な精神力によって、文句も言わずにね、マルパについていくわけだけど。
 で、前にも言ったように、このマルパの奥さんのダクメーマね、このダクメーマっていう人は、もちろんマルパの奥さんになるくらいだから、偉大なね、達成をある程度してる女性の修行者であるわけだけど、まだマルパほどの智慧はなかったので、マルパがやってる実は深い意味のある弟子いじめみたいなものを理解できずにね、女性的な人間的な哀れみによって、ミラレーパにね、まあたびたび助け舟を出してたわけですね。つまりあまりにマルパにいじめられて、もうボロボロになってるミラレーパに対してね、おいしい食事をつくってあげたりとか、優しい言葉をかけてあげたりしていたわけですね。
 なんていうかな、ダクメーマ自体のことをいうならば、ダクメーマはここで、今も言ったように、ある意味無智によって、つまりマルパの真の意思を理解できずに無智によってミラレーパに情をかけてたわけだけど、ただまあ全体の流れっていうかな、全体性からいうと、実はこのダクメーマも必要だったわけですね。つまり、いくらミラレーパとはいえね、やっぱりマルパの厳しい試練だけでは、多分あるところで心が折れてたかもしれない。まあだからある意味ダクメーマが無智によって優しくしてたその行為自体がね、全体の流れからいうと、神や仏陀のね、なんていうかな、手助けだったともいえるかもしれない。
 これは前にも言ったけどね、実際に皆さんが本気で真剣にですよ、修行をするならば、いつも言うように、例えば皆さんの師がそれをやるか、あるいはそうでないかは別にして、自動的にこういうことは起こります。自動的にこういうことが起こるってどういうことかっていうと、まあ皆さんのそれぞれのカルマやけがれを破壊するために――もう一回言いますが、皆さんが真剣に修行してれば――あともう一つ言うとね、そうですね、発願ですね、発願。発願っていうのは、それは言葉にするかどうかは別にして、心の中で強くね、わたしはほんとに高い達成を得たいとか、あるいはほんとの意味で菩薩になりたいとか。そのためにはどんな苦難もね、乗り越えますと、このような決心がみんなにできてくると、「ああ、そうか」っていう感じで、仏陀や神の試練が始まります。で、その試練っていうのは、もちろんそれぞれのカルマによって違うわけだけども、まあなんていうかな、他人にとってはどうでもいいこともある。ね。他人にとってはどうでもいいことっていうのは、例えばTさんになんか試練がきたとしてね、Tさんが一人が苦しいんだね。で、その話を例えば誰かが聞いても、例えばRさんとかにね、「いや、最近こんなことで苦しいです」って言っても、Rさんは、「えっ? それがどうしたんだろう?」って思うとかね。ほかの人が聞いても別にそうでもない場合がある。つまりTさんだけに例えば反応する苦しみだったりするんだね。まあもちろんミラレーパの場合のように、誰が聞いても苦しいっていう場合もあるけれども(笑)。とにかくその人に合った苦難がバーッてくるんですね。しかしこのまさにダクメーマのように、必ずね、ちょっと、救いの手っていうか、ちょっと優しい飴みたいなのもくるんです。ね。必ずね(笑)。絶対苦悩だけじゃないんだね。
 もう一回言うけども、真剣に修行をしてた場合、そして発願してた場合です。第一に真剣に修行もせず、発願もない、つまり覚悟が足りない場合は来ません。ね。だからその場合、修行してて苦しかったとしても、それは単なるカルマが悪いだけかもしれない。ね(笑)。あるいは単なる、なんていうかな、心が弱いだけかもしれない。だからその辺は混同しないでくださいね。単なる過去の悪業によって、あるいは心の弱さによって人生が苦しい場合もある。これは別に試練でもなんでもない。それはただの自分のまだ、なんていうかな、徳が足りない、あるいは修行にしっかりと心が向いていないがゆえかもしれない。そうじゃなくて、ここで言ってるのは、本気で皆さんが修行を志す、あるいは覚悟を決めたときに、そういう試練がやってくるんだね。
 で、もう一つのポイントは、ここで例えば試練がやってきたときに逃げていたら、ね、つまり最初から逃げ腰であったり、あるいはすぐにもう、なんていうかな、修行を停滞させてしまうとか、あるいはそういった苦悩に対してどんどん煩悩を逆に出したりしてしまう、例えば怒りを出すとか、あるいはまあなんか執着して逃げてしまうとかする場合は、このような例えば、助け舟も来ません。助け舟もこないっていうのは、つまり自分で逃げてるわけだから、自分で逃げてる人に助け舟はいらないよね(笑)。自分が勝手に煩悩とか、自分が考える世界に逃げてるだけだから、当然神や仏陀は助けない。じゃなくて、ここで助け舟がくるときって、もう一回言いますが、真剣に修行をし、そこで生じた祝福による試練に対して真剣に立ち向かったとき。ね。
 で、ここでね、ちょっと不安が生じると思うんだね。あまりにも乗り越えがたい苦難、これがやってきたときに、こんなのわたしは乗り越えられるんだろうかと、これがずっと続くんだろうかと、ね、こういうことを思ってる人、この中にもいるかもしれない。わたしも何度もあったけど、本当にそういう苦難がきたときって、まるでね、永遠に続くような気がするんだね(笑)。あまりのその苦しさに。それはもしかして永遠に続くんじゃないかっていう気持ちがする(笑)。もしくは、前にもちょっと言ったけど、なんかその精神的なね、苦しみによって、わたしは死んでしまうんじゃないかっていうふうに思う場合もある。それだけの苦しみが来るんだけど、でも決してそうはならない。必ずなんか、飴が来るんだね。うん。ある程度頑張ると、ああ、よしよしっていう感じで来るんだね(笑)。ああ、まあよく頑張ったなと(笑)。で、ちょっと休息させられて、でもまたバーッて苦難に放り込まれるっていう感じだね。
 だから、もう一回言うけども、このダクメーマの場合も、ダクメーマ自身は無智でやってるんだけど、全体のその神の意思っていうかな、仏陀の意思としては、当然なるべくしてなった出来事だったんだね。
 でね、それはこのあとのことについても同じなんです。ちょっと先のことを言ってしまいますが、ここでね、ダクメーマがミラレーパをね、まあミラレーパの兄弟子であるゴクパのもとに送り込むわけですね。それはなぜかというと、ミラレーパはもう本当に純粋に心から教えを求めて来てたわけですね。まあつまり別に現世的な思いがあったわけではなくて、本当に純粋にね、わたしは真理を知りたいと、悟りを得たいと、どうかそれを与えてくださいってグル・マルパのもとに来てるんだけど、で、それはね、ダクメーマから見るとどの弟子よりも――つまりダクメーマっていうのはグルの奥さんだから、まあグルの弟子っていうのは自分の息子のような愛すべき弟子たちなんですね。で、その中で最も健気であって、最も純粋であって、最も奉仕の精神があり、そして最も法を求める心が強かったのがミラレーパだったんだね。つまりもうダクメーマにとってはほんとにもう愛すべき、なんていうかな、息子のようなグルの弟子だったわけですね。で、その、そんなにも心からなんの文句も言わずに、ひたすらグルの試練に耐え続けるミラレーパが不憫でしょうがなかったと。ね。よって、「ああ、なんとかこの子が求めている教えを与えてあげたい」っていう情が出てしまったんだね。それによって――マルパは教えを与えずにひたすらまだ試練を続けようとしてたんだけど、そのダクメーマの間違った哀れみによって、教えが与えられるように手紙を捏造して、ゴクパっていうね、兄弟子のもとに送ったんですね。
 で、これはちょっとあとのことを先に言ってしまいますが、結果的にはこのダクメーマの過ちによって、ミラレーパは、この段階における解脱に失敗するんです。どういうことかっていうと、もしもうちょっと、あとちょっとミラレーパがこのマルパの試練に耐えていたら、それだけでミラレーパは解脱したといわれています。つまり一切修行なし。ね(笑)。徹底的にマルパにいじめられて、それでも純粋な信を持ってついていって、これがひたすら繰り返されて、もうちょっと耐え切ったら、その瞬間に完全な解脱を果たしたっていわれてる。しかしダクメーマが最後の最後で間違っちゃって、マルパのもとから離してゴクパのもとに送ってしまったがゆえに、それは起こらず、ね、そのかわり、ミラレーパはそのあと長い長い瞑想修行をやらなきゃいけなかったと。
 もう一回言いますよ、そこでもし耐え切ってたら、そのあとミラレーパは瞑想修行をやる必要なかったんです。もうその段階で完全、つまりなんの修行もなく完全な解脱を果たした大聖者として知られてたはずだったんだけど、そうはならなかった。これはある意味、ここもね、この点だけを見ると、なんてダクメーマは無智なんだと、ね。つまり女性的な哀れみによって、ミラレーパが瞬間的に解脱してたはずなのに、ね、それを邪魔してしまったって見るかもしれないけど、でも全体の流れを見ると、これもまたそうではないのかもしれないって見えてくる。
 どういうことかっていうと、ミラレーパっていう人は、ちょっとこれももう全体の話になっちゃうんだけど、結局何をやった人なのかっていうと、ひたすらね――つまりマルパのもとでその試練が終わったあと、ひたすら洞窟から洞窟、山から山へと放浪をしながら瞑想修行を続けたんだね。もう一回言うけども、ね、あの時点で耐え切ってたら瞑想修行なんてするは必要がなかった。しかしそうじゃなくて、ダクメーマがおせっかいしたがゆえに解脱できず、そのあと解脱のために長い間、山から山を放浪して瞑想をする生活に入んなきゃいけなかった。しかしその最後のね、放浪の瞑想修行に送り出すときにマルパが、ね、それをまあ指示するわけですね。おまえは一生をかけてね、山から山へと瞑想し歩けと。それはのちの世の人々にとって大いなるね、模範となるだろうと。で、そのグルの指示を、ね、受けて――まあつまりマルパもそうだけど、ある程度そういうチベットの聖者っていうのは、まあある時期までね、徹底的に修行をして、で、ある時期から例えば弟子をとって、人によっては結婚もしたりして、あるいは人によってはお寺に住んだりしてね、まあ教団を作っていって、なんていうかな、そういうかたちで救済活動をしていくわけですね。で、ミラレーパはでもそういうことは全くしなかった。もう徹底的に瞑想に明け暮れたんですね。でもこれは一見、それってなんていうかな、小乗的っていうか、救済とか、あんまり大乗的なね、衆生済度とか考えてないのかっていうと、そんなことはない。ミラレーパの話っていうのはそういう救済とか大乗とかね、衆生済度とかいう話ばかりだし、あるいはマルパがミラレーパに与えた指示もね、衆生のために瞑想をしろと、ね。あるいはね、身・口・意において、ね、つまり言葉と体と心において、衆生のためになること以外は一切行なってはいけないっていう指示を行なっている。つまり完全に大乗の人なんだね。しかし、まあ皆さん分かると思うけど、大乗の菩薩の道っていうのは、簡単、単純なもんじゃないってうか、いろんな道があるんですね。で、ミラレーパの場合っていうのは、まさにその瞑想によって衆生に奉仕する道だったんですね。
 これはなんていうか、いくつかの意味があると思うんだけど、まずね、浅い意味としては――浅い意味ですよ、まず浅い意味としては、模範を示すってことですね。つまりもうわれわれの中に――この中にミラレーパが好きな人いっぱいいるだろうけど、チベット人もミラレーパはすごく大好きなんだね。で、現代ではもちろんチベットだけじゃなくて、欧米にもね、ミラレーパの話って広まっているから、欧米の仏教徒たちの中でもあこがれの的になっている。つまり、おとぎ話じゃなくて、もう本当に、生きた、本当に実在した人として、ああいうね、真っ裸でなんの執着も持たずね、自由無碍に放浪しながらひたすら瞑想だけをしたと。ひたすら仏陀への道を完全に現世を捨断して歩き続けたその人生っていうのはね、われわれにとっての大いなる励みであるし、あるいは模範となるんですね。あるいはもちろんミラレーパが残したいろんな詩もそうだけど、あのような、あの極端なっていうか、徹底した現世放棄の姿勢っていうのは、のちのね、われわれがそこまでできなかったとしても、でも励みになるんだね。そういうのが一つの浅い意味ですね。
 で、もう一つは深い意味に関しては、これはまあ、あまり説明できないというか、想像するしかない世界なんだけど――そうだな、例えばヨーガ系でいうと、『あるヨギの自叙伝』とかに出てくるババジね、マハーアヴァター・ババジっていわれる人とかね、ああいう人とかもそうだけども、まあやっぱりああいうタイプの人っているんだね。ああいうタイプの人っていうのは……あるいはナーローパも晩年はそうですね。晩年のナーローパも、なんていうかな、まあある意味、あんまり人の前に現われて教えを説くとか、そういう感じじゃないんだね。人知れず山で修行してたりするんだね。しかし、それそのものが大いなる――例えば多くの人のインスピレーションになってたりとか、あるいは多くの人が目覚めるきっかけになってたりする。だからこの辺はちょっと伝えづらいんだけど――例えばですよ、例えばそうだな、まあ例えばRさんが日々遊んでてね――まあ昔の話ですね。昔、日々わーって踊ったりして遊んでて(笑)、

(一同笑)

 で、その踊っている最中にふと空しくなって、「正しい道を歩きたいな」と、パッて思いが出てきたリする。実はそれ、ババジの仕業かもしれないね(笑)。

(一同笑)

 いや、でもそうなんです(笑)、本当に。今のはまあ例え話だけど、例えばババジとかがヒマーラヤで瞑想してて、縁のある魂、あるいは準備ができた魂に、そのような祝福を送ったりもするわけですね。で、それはまあミラレーパもそういうことをやってたかもしれない。
 あるいはなんていうか、そこまで意識的じゃなかった可能性もある。意識的じゃないっていうのは、ミラレーパ自体は――これもだから皆さん理解できるかどうかは別にして、一応言葉で言うとね、ミラレーパ自体は別に、「さあ、あそこの縁のある者に祝福を与えよう」とは考えていないと。じゃあミラレーパは何を考えてるかっていうと、ただひたすら仏陀への帰依、そしてグル・マルパへの帰依、そして衆生への慈悲、これだけを考えてひたすら瞑想すると。まあつまりこれはいつも言うバクティヨーガ的な言葉で言うと、「いかにわたしは神の道具になれるか」をただ考え瞑想すると。そうすると、本当にそれがある境地に達したとき、その人はほんとの神の道具になるんだね。で、このほんとの神の道具になるっていうのは、その人のカルマとか使命によるわけだけど、もしその人が、ある意味分かりやすい、例えば教団の指導者としての道が使命だとしたならば、自然に弟子が集まってきて、で、自然にそういう教えを説くようなシチュエーションが整うんだね。で、じゃなくてミラレーパの場合は、瞑想によって衆生に祝福を与えることが使命だったから、この場合は自然にミラレーパはグルの意思として瞑想に励み、で、それがミラレーパが意図してたかどうかは別にして、自然に縁のある衆生や準備ができた衆生へのまあ祝福として注がれるっていうかな、そういうのもあると思うね。
 だからすごくこの辺っていうのは表面的にはとらえられないところなんで、まああまり表面的にとらえるべきじゃないね。ミラレーパは山で瞑想ばっかりしてたから、人を救わなかったってことには決してならない。
 はい。じゃ、そういうことを前提としてちょっと考えるならばですよ、ね、これがもしミラレーパの使命だったとしたならば――つまりもう一回言うと、ひたすら瞑想に励み、ね、そしてそれによってのちの世のね、修行者たちに見本を示すとともに励みを与えると。一つはね。で、もう一つは究極の境地において神の道具として瞑想を行なうことによって、まあミラレーパの意志がどうだったかは別にして、縁のある魂に祝福を瞑想によって与えると。この役割をミラレーパはね、その生で担ったのかもしれない。
 まあもう一つ挙げるとするならば、さっき言った瞑想によってね、例えば浮かんできた悟りの歌ですね。これをその会いに来た弟子たちに歌うと。で、それがもうまさにこのね、数百年たった今も、われわれの目の前にそのミラレーパの詩として残っていて、で、それがわれわれの意識を引き上げてくれたり、あるいはまあ気付かないところでね、われわれのエネルギーを上げてくれたりする。あるいは覚醒の手伝いをしてくれたりする。これなんかもそうだね。
 あの、今日、今話してる話っていうのはすごく、なんていうかな、言葉にすると簡単なことなんだけど、実際は結構深遠なことを言ってて――つまりね、祝福の力っていうのは、祝福の波動っていうのは、そういう意味でいろんなかたちをとるんだね。まああるいは慈悲の波動っていうのはいろんなかたちをとるんです。例えばですよ、ミラレーパというその存在が今から千年前ぐらいにこの地球上に実際に存在したわけだけども、そのミラレーパの衆生への慈悲の思い、あるいは神の道具として、仏陀の道具としての純粋なその心の力、この波動っていうのは――いいですか、例えば、もう一回言うけども、今われわれがですよ、『ミラレーパの十万歌』とかを読んで、ね、「あっ!」と心がちょっと覚醒したとするよ。感動したとするよ。あるいはちょっと修行をやる気になったとするよ。それはミラレーパのその千年前にした瞑想の波動がここまでもう届いているってことなんです。それはその表面的な、例えばミラレーパが残した歌をね、誰かがまとめて出版して今も出版されてるっていうような、そんな表面的な話じゃないんだね(笑)。それはもうすべてつじつま合わせであって、じゃなくて起きていること、現象の裏側を見ると、まさにそういうことなんだね。それもまあ一つあるでしょうね。
 そのような使命をミラレーパは持ってたとするならばですよ――はい、じゃあ話を戻しましょう。それを達成できたのは、まさにダクメーマが修行の邪魔をしたおかげだったと。ね(笑)。

(一同笑)

 ね(笑)。ということは、このダクメーマの情による邪魔も、仏陀の大いなる救済計画の一つだったとも言えるんだね。全体を見るともうそうとしか言えないっていうか。全体を見るとまさになんていうか、完璧な、ミラレーパの生涯のシステマティックな流れがあるんだね。だからそういう目で見ると、非常にこのミラレーパとかいろんな聖者の人生って面白いし、まああるいはわれわれ自身もそうだね。われわれ自身の人生も、そういう目で見ると、とても、なんていうかな、面白い。ね。
 もちろんいつも言うように、われわれは瞬間瞬間日々正しく生きようという決意をしなきゃいけない。当然ね。で、正しい選択をしようとしなきゃいけないわけだけど、でも振り返ると当然いろんな間違いを犯してたりとか(笑)、あるいはいろんな邪魔が入ったりとかいろいろするわけですね。でもそれもある意味では一概には悪いとはいえないのかもしれない。ね。
 もちろん何度も言うけど、自分がちゃんと前を向いてないと駄目ですよ。自分が例えば逃げてたりとか、あるいはやるべきことをやんないでいてね、それも神の計画だとか言ってね(笑)、それはただの(笑)、ただの言い訳みたいなもんになっちゃうから。自分がちゃんとね、真剣にやってて、でも間違っちゃったとかね。それはまあ実際は必要だったのかもしれない。
 はい。だいぶ話が膨らんじゃいましたが、ミラレーパの兄弟子であるゴクパに、ダクメーマがね、情によって、まあ教えを与えるように、嘘の手紙を捏造してね、送り込んだっていうところですね。

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