実践的ヴェーダーンタ
弟子の言葉を聞くと、スワミジ(ヴィヴェーカーナンダ)はしばらく動きを止めたまま、ガンガーを見つめていた。そして喜びに満ちた顔で、その弟子にこう言って語りかけた。
「お前たちの中の誰が、いつ、内に目覚めるライオンを得られるのかなど、誰が分かるだろうか?
お前たちの中のたった一人の中にでも、母なる神が炎を目覚めさせれば、そこにはそのような幾百もの食物を供給する場所ができるのだ。
智慧、力、信仰――これらすべては、すべての生き物の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。我々はそれらの顕現のさまざまな度合いを見て、ある者を偉大であると言い、またある者を取るに足らない者と言っているに過ぎないのだ。すべての生き物の心の中には、いわば、ついたてが立っており、完全なる顕現が視界から隠されている。それが取り除かれた瞬間、すべてのものが解決される。お前の欲しいもの、望むもの、すべてが実現する。」
スワミジは続けられた。
「主が望まれるならば、我々はこのマト(僧院)を、調和の偉大なるセンターにしようではないか。我らが主はまさに、すべての理想の調和の権化である。我々がここに調和の精神を存続させるならば、彼は地上に確立されるだろう。ブラーフミンからチャンダーラ(不可触民)に至るまでの、すべての宗教、すべての宗派の人々がここに来て、それぞれの理想が顕現しているのを見い出せるよう、我々は取り払わねばならない。
先日、私がマトの敷地にシュリー・ラーマクリシュナを安置したとき、私は、彼の理想がこの場所から放たれ、全宇宙の知覚できるもの、できないものをすべて溢れさせたように感じたのだ。
私個人としては、ベストを尽くしているし、これからもそうし続けていくだろう。お前たちも皆、シュリー・ラーマクリシュナの自由の理想を人々に説きなさい――ただヴェーダーンタを読むことに何の意味があるのか。我々は実生活で、純粋なヴェーダーンティズムの真理を示さなければならない。
シャンカラは山や森の中にこのヴェーダーンタ哲学を残された――私はそれをこれらの場所から持ち出し、日常の世間と社会の前でばら撒くためにやって来たのだ。ヴェーダーンタの獅子の唸りを家々に、牧草地に、林に、山に、平原に、轟かせねばならない。お前たち、私の手伝いをし、仕事に取り掛かりたまえ。」
弟子「師よ、私はどちらかといえば、その境地を行為の中で具現させるよりも、瞑想によって悟る方に興味を引かれます。」
スワミジ「それは単なる、酒で酔っ払ったような酩酊状態に過ぎない。ただその境地にぼうぜんととどまったって何になる? アドヴァイタ(不二一元)の悟りから湧き上がってくるものに身をまかせて、あるときは豪快に踊り狂い、またあるときは、外界の意識を失って瞑想に没頭すればよいのだ。ご馳走を独り占めして何が楽しい? 他者と分け合うべきだろう。仮にお前が、ヴェーダーンタの悟りによって個人的な解脱を得たとしても、世間にはそれが何の役に立つだろうか?
お前は肉体を去る前に、全宇宙を解脱させなければならないのだ。そうしてのみ、お前は永遠なる真理に確立されるだろう。何を、その至福と比較できるだろうか? お前は無限の至福に――大空のように限りない無限の至福に確立されるのだ。世界のあらゆる魂、物質の中の至る所に自分の存在を感じて、お前は空いた口が塞がらなくなるだろう! 生きとし生けるもの、そして無生物をすべて自分自身だと感じるようになるのだ。そのときお前は、自分に接するのと同じように、すべてのものに愛をもって接するようにならざるをえなくなる。これがまさに、実践的ヴェーダーンタである。
理解したか?
ブラフマンは一なるものであると同時に、相対世界での我々には多なるものとして現われる。名称と形がこの相対性の原因である。例えば、陶器から名前と形を取ったら何になるだろうか?――土である。それがその本質なのだ。同様に、妄想を通じて、お前は陶器、衣服、僧院などを見、考えている。現象世界は、叡智を阻害し、真実在はないという無智に依存している。人が、妻、子供、肉体、心というような多様性を見るのは、名称と形を用いて無智によって創られたこの世界においてだけなのである。この無智が取り払われるや否や、永遠なる実在のブラフマンの悟りが生じる。」
弟子「その無智はどこから生じるのですか?」
スワミジ「どこから生じるのかは、あとで教えてやる。縄を蛇と見間違えて走って逃げたとして、その縄は実際に蛇に変わっていたというのか? そのようにお前を怖がらせたのは、お前の無智ではないのか?
弟子「まったく、無智でございます。」
スワミジ「よろしい。ならば、よく考えてみろ。縄が縄と分かれば、過去の自分の無智さ加減に笑いが込み上げてくると思わないか。そうしたら、名称と形は単なる妄想として見えてはこないだろうか?」
弟子「見えてきます。」
スワミジ「そうなったら、名称と形は幻影に変わる。このようにして、永遠なる実在のブラフマンだけが唯一の実在であるということが証明される。このように無智によって不明瞭になったときにだけ、お前は、これは私の妻、これは私の子供、これは私のもの、これは私のものではないなどという考えが浮かび、すべてを照らす真我の存在を自覚することができなくなるのだ。グルの指示、そしてこの名称と形の世界ではなく、その根本としてある本質を見るという信念によってのみ、お前は創造神から草むらに至るまでの全宇宙と自分が一体であることを悟るだろう――そうしてのみ、お前は『ハートの結び目が切れ、すべての疑念が消散する』という境地を得るであろう。」
弟子「師よ、この無智の起源と停止について知りたいです。」
スワミジ「もう理解しているだろう? 後に存在しなくなるものは、単なる現象に過ぎないのだ。真にブラフマンを悟った者はこう言うだろう――『一体、どこに無智があるというのだ?』 彼はただ縄を縄として見る。決して、蛇と見間違うことはない。そしてそれを蛇と見なしている者たちの警告を見て笑うのだ。
それゆえに、無智というものには絶対的な真実はない。無智を”真実”とも、”非真実”とも呼ぶことはできないのだ。――『真実でもなく、非真実でもなく、それらを混合させたものでもない。』
このように、偽りであると証明された事物に関しては、それに対する問いもその答えも、何も意味をなさないものとなる。
さらに、そのような事物に関する問いは、不合理なものなのである。どう不合理なのか説明してあげよう。この問いや解答というものは、名称と形、あるいは時と空間の見地からできているものではないのか? そして問いや解答によって、お前は時と空間を超越したブラフマンを説明することができるのか? それゆえに、シャーストラやマントラなどは単なる相対的なものであって、絶対的な真実ではない。無智というものには、それ自体を無智と呼ぶための本質はない。ならば、どうやってそれを理解できるというのか? ブラフマンが現れれば、そこにはもはや、問いが入る部屋は存在しなくなる。シュリー・ラーマクリシュナの『靴屋』の話を聞いたことがないか? 無智を認識すれば、その瞬間にそれは消え去る。」
弟子「しかし師よ、どこからこの無智は生じるのですか?」
スワミジ「全く存在しないものが、どうやって生じるというのだ? それは、生じるという可能性を認めるために、初めに存在していなければならないのだ。」
弟子「ならば、魂と事物から成るこの世界はどうやって始まったのでしょうか?」
スワミジ「唯一の存在――つまりブラフマンしか存在しない。お前は、幻影である名称と形のベールを通じて、さまざまな名称と形の中に『それ』を見ているに過ぎない。」
弟子「しかし、この幻影の名称と形とはなぜ存在するのですか? どこから生じるのですか?」
スワミジ「シャーストラはこの深く根付いた観念、あるいは無智を、連続した一種の終わりのないものとして描写している。しかし、それには終わりがあるのだ。ブラフマンが現前している間は、苦しみはなく、ほんのわずかな変化もない。幻影の蛇が縄に戻ったようなものだ。従って、ヴェーダーンタの結論は、全宇宙はブラフマンに重ね合わせられていた――手品師のマジックのように現れていた――ということになる。無智が原因でブラフマンが真の本性から逸脱することは、ほんのわずかさえもないのだ。わかったか?」
弟子「まだ一つ理解できないことがあります。」
スワミジ「何だ?」
弟子「あなたは、創造、維持、破壊はブラフマンに重ね合わされており、絶対的に存在しているものではないと仰いましたが、そんなわけがないではありませんか。まだ経験していないものを妄想することなど、絶対に不可能です。蛇を見たことがない人が、縄を蛇と見間違うことなどあり得ません。この宇宙を経験していない人が、どうしてブラフマンを宇宙と錯誤することができましょうか? それゆえに、宇宙が宇宙の幻影を引き起こしてきたし、また、これから引き起こしていくに違いありません。しかし、これは二元論になってしまいます。」
スワミジ「悟った人は、まず最初に、彼の眼には宇宙とその事象は一切見えないと言って、お前の異論に反論するだろう。彼はブラフマン、ブラフマンだけを見ているのである。彼は蛇ではなく、縄を見ている。もしお前が、いずれにせよこの宇宙、あるいは蛇を見ていると主張するならば、彼はお前のその不完全な視覚を治療するために、縄という真の本性をお前にはっきりと悟らせようとするだろう。彼の指示とお前の思索によって、お前が縄の真実、つまりブラフマンを悟ることができたとき、蛇あるいはこの宇宙という迷妄の発想は消え去るのだ。そのとき、お前はこの創造、維持、破壊という迷妄の考えを、ブラフマンに重ね合わされたものと呼ぶ以外、何と呼ぶことができるだろうか?
この創造、維持、破壊という現われは、無始の過去から連綿と存在し続けてきた。それはそのままにしておくがよい。こんな問いを解決しても、何の利益も得られないだろう。ブラフマンが手の中の果物のようにありありと悟られない限り、この問いがはっきりと解決されることはありえないのだ。ブラフマンが悟られれば、このような疑問が湧くこともないし、それに解答を与える必要もなくなる。ブラフマンのリアリティを味わうということは、素晴らしい味覚を味わっている口の不自由な者が、その感覚を表現できないのと似ている。」
弟子「ならば、それについて必死に思索することは、何の役に立つのですか?」
スワミジ「思索は、頭で要点を理解するのに必要なのだ。しかし、真実は論理を超えている。――『この確信は、思索によって得られるものではない。』」
このように会話を交わしているうちに、スワミジは弟子たちとマトに到着した。するとスワミジは、マトのサンニャーシンとブラフマチャーリンたちに、上記のブラフマンの議論についての要点を説明された。そして階段を上りながら、弟子たちにこう仰った。
――この真我は、弱い者によって獲得されることはない。
(「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より)