12縁起と幻影の世界
さて、十二縁起の法については、今までも何度か書いてきましたが、またいつもとは別の角度から、十二縁起の法を軸に、「幻影の世界」と「幻影を超えること」について、少しまとめてみました。
ちょっと今回は難しく感じるかもしれませんが、よく読むとそんなに難しくはないので、チャレンジして読んでみてください(笑)
☆無明
誤解を恐れずに書けば、無明とは、「忘れている」ということだ。
何を忘れているのか? それは、真実を忘れている。
そのため、以下に書くような十二縁起のプロセスを、自分だと錯覚してしまう。
以下に書くように、われわれはただのデータに対して、「自己」という錯覚を抱いてしまう。
すべてはただのデータの流れであって、もともと「自己」というものはない。
でも実は、そのデータの奥にあるものがある。
修行をしていると、だんだんそれに気づいてくる。
しかし普通は、忘れている。
☆行
行とは、簡単にいえば、カルマの流れ。
常にただ流れ続けている。
われわれの身口意の働きによって、これらはさまざまな生成変化、生起と滅尽を繰り返す。
☆識
識とは、単に意識といってもいいし、識別作用といってもいいのだが、
この段階ではまだ、実は自我意識は確定していない。
それはただの識別であり、ただの意識なのだ。
行をもととして、ある偏向を持った意識、識別が生じる。
でもまだそこに「私」という感覚があるわけではない。
ただの識なんだ。
☆名色
行・識の一部を、自我化する。
ただ流れているカルマ、ただあるだけの識に、「私」という感覚を持ってしまう。
それが名色=五蘊。
つまり身体・感覚・想念・行・識。
五蘊に自我を持つというのではなく、
行・識に対して自我意識を持つことによって、五蘊となる。
つまりこれは、「私」という意識のよりどころなのだ。
☆六処
行・識の一部を、「私」として固定化してしまった。
しかし行・識の流れは、うにゃうにゃと、さまざまな展開をする。
それらは、「私」と固定化した幻影の範疇には含まれないものもあるので、
その含まれないものは後に、「周りの世界」という発現の仕方をする。
その発現の内在的可能性、それが六処だ。
もちろん、この「周りの世界」というものも、
「外的自我」に他ならない。
仏教ではこれを「法我」という。
☆触
行・識の流れのうち、「自己」と認識した部分と、「周りの世界」として発現の内在的可能性を持っていた部分が、交わってしまう。
☆受
「私」が「周りの世界」を経験しているという錯覚。
本当は、「私」も「周りの世界」も変わりはない。一つのデータの流れに過ぎない。
以前、「私」と認識していなかった部分の行や識の流れが、五蘊以外のものとして、自分の世界に生じてきただけ。
それはただのカルマの流れに過ぎないのだが、すでに一部分に「私」という自我意識を持ってしまっているために、カルマによって、この錯覚の経験において、「苦」や「楽」を感じる。
☆愛
行・識の流れと、自我意識の作用により、受の経験に対して、「好き・嫌い・どちらでもない」の評価を下す。
☆取
それらの経験へのとらわれ。
☆有
受・愛・取によって、流れ行く夢のようなカルマの幻影を固定化し、確固たる世界観を確定する。つまり自分が作った世界に閉じ込められる。
ところで、これらのプロセスは、時間的プロセスではない。
☆生
☆老・死
生まれるから終わりがある。
世界が有として固定されてしまったので、その限定された世界の中で、始まりと終わりが生まれる。
本来、行・識の流れ、カルマの流れには、始まりも終わりもないのだが。
◎死後のプロセス
さて、死というのは、固定化された有からいったん解き放たれるチャンスである。
死後、12縁起に従って、世界の固定化が再び始まるが、そのときに善良で幸福なカルマの世界に固定化されれば、幸福な世界に転生できる。
そのためには、徹底的に心を浄化し、功徳を積んでおく必要がある。
◎夢にたとえて
このプロセスは、夜、睡眠時に見る夢のプロセスにたとえるとわかりやすい。
われわれは睡眠時のはじめ、「私は実は○○という名で、今、寝ているのだ」という自意識を失っている。つまり忘れているのだ。これが無明。
このとき、普段ああだこうだと考えている表層的な意識や、確固たる自我意識などは消えている。しかし依然として、行、すなわちカルマの流れは続いている。
そのカルマの流れから、識が生じる。しかしここにはまだ、何の自我意識もない。夢でいうなら、ただなんとなく、心に情報が浮かんできているような状態だ。
そのなんとなく浮かんだイメージや情報のある部分に、「私」という認識を持つようになる。これが名色だ。
つまりもともとは、夢の始まりは、「私」という感じはない。ただなんとなく、全体のイメージが流れているだけなのだ。その中の一部に「私」という自我意識を持つことによって、当然、その「私」以外のイメージは、「周りの世界」「他者」ということになる。これが「名色・六処・触」のプロセスだ。
この夢の世界は全部自分の中で展開されるイメージに過ぎないのに、その一部分を自己と考え、他の部分を「周りの世界」「他者」と考え、そこでその周りの世界や他者を相手に、さまざまな経験が始まる。この経験において、「苦」や「楽」が感じる。
その人の身には、現実世界では何も起きていない。寝ているだけなのだ。しかし夢の中では、たとえばおいしい食べ物を食べて、おいしい味覚を味わっている。あるいは誰かに切られて、強烈な痛みを味わう。
修行が進んでくると、夢が鮮明になってくるので、本当に現実世界と変わらないような五感の経験を、夢においてすることができる。
しかしすべてはイメージの経験に過ぎない。イメージの経験に過ぎないのに五感の苦楽がはっきりと生じるということは、結局、あらゆる感覚的経験は「概念的経験」に過ぎないのだ。カルマによって苦を感じたり楽を感じたりしているだけであって、何か実体のある苦や楽があるわけではない。
そしてその「苦」や「楽」に実体があると思い込み、とらわれることによって、その世界は固定化される。つまり最初は夢というのは、うにゃうにゃとした、よくわからないイメージの連続なのだが、そのイメージが、整然とした「世界」として、ある一定の世界観を持って固定化されるのだ。それはそこでの概念的感覚経験に対する、執着や嫌悪によって、世界を実体化してしまうのだ。
ところで、夢の中では、いかに世界を実体化して見ようとも、その世界に本当に引きずり込まれ、転生してしまうということはない。なぜなら、今ここの「生」のほうが、より強い、確固たる「有」だからだ。
だからあくまでも夢というのは擬似的なたとえ話としてつかわれるのだが、このプロセス自体は、12縁起のプロセスでわれわれがカルマの幻影を実体視し、輪廻に転生してくるプロセスと、全く同じなのだ。
◎智慧と浄化
結局、なすべきことは何かというと、「幻影の浄化」と、「幻影であると悟ること」である。
後者を「悟り」「明」というが、これは実際に悟られなければならない。擬似的な悟りでは駄目だ。
また、菩薩の場合、悟りを得ても、この幻影の世に身をおかなければならない。また菩薩でなくても、実際に悟りを目指している間は幻影の世界にとらわれているので、この幻影の世界の浄化というものがどうしても必要になってくる。
「帰依」の修行は、幻影を悟り、真実に目覚めるのに大変有効だ。
「すべてを師や至高者への供物と考えること」は、この幻影の世界の浄化に大変有効だ。
なぜならわれわれは、けがれた過去の経験という幻影を土台として、新たな感覚的幻影に、評価を与えるから。
そんな過去の経験など関係なく、すべてを「師や至高者への供物」と評価するなら、そこで新たな行・識の動き(カルマ)がインプットされ、行・識は浄化され、この世界も浄化される。
「慈悲」もまた、この世界の浄化に大変有効だ。
「慈悲」の教えを学び、慈悲によって世界を見ようという訓練をすることによって、行・識は浄化され、この世界も浄化される。
これらの手助けとしては、個人的には、「バガヴァッド・ギーター」「入菩提行論」などが良いと非常に思います。
「智慧」の修行が進んでくると、この世が実体がないという感じが強くなってきて、よりどころのなさを感じ、何というか、どのように生きていいかわからなくなることがある。
だから教えをしっかりと学び、教えどおりに生きるのだ。
あるいは聖者の伝記を読んだり、師の生活を見て、それらを真似するといい。
修行に対する姿勢とかだけではなくて、たとえば食べ物の好みや、言葉遣い等も含めて、その聖者や師の、いろいろなところの真似をする。
すべては幻影だから、実際は何をどうしようがどうでもいいのだが、生き方を間違うと、苦しみの世界に落ちる。完全に悟っていないと、やはり悪趣は苦しい。
聖者の幻影を真似ることによって、聖者に近づくことができる。
まとめると、大事なことは、
1.すべてを幻影だと悟り、真実を悟ること。
2.幻影の世界を浄化すること。
悟りのために有効なのは、
1.サマーディの修行
2.帰依の修行
3.それを支えるもろもろの土台の修行
幻影の浄化に有効なのは、
1.徳を積み、悪を避けること。(布施・戒・忍辱・懺悔など)
2.すべてを至高者への供物と見ること。
3.慈悲の修行。
4.聖者や師の生き方を思い、まねること。
◎菩薩になる意味
さて、すべてが幻影だとしたら、私もまた他者の世界の幻影の一部分を演じている。
私が意識的に菩薩行をなすことによって、縁ある衆生に、良い影響を与えることができる。
自らが、他者にとっての、「幻影を浄化してくれる幻影」「悟りに導いてくれる幻影」になることができるのだ。
しかしそのためには、本気で自己のカルマを越え、菩薩道を歩かなければ駄目だ。
本気で菩薩道を歩くなら、必ず他者の幻影に、良い影響を与えることができる。
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