バシャーンと
至高者や真理のダルマと縁のある魂は、心の奥に、次のような素晴らしい種子を持っている。
神や師への愛
真理をつかみたいという求道心
衆生を救いたいという菩提心
しかしたとえこれらの素晴らしい要素を持っていたとしても、たいていはその他の多くの煩悩も同時に心に存在するため、混とんとするというか、聖邪入り混じったかたちになる。
口では素晴らしいことを言うが、実際心は世俗的な不満や欲求でいっぱいになっていたり。
また、それらの素晴らしい理想を生きているうちに達成したいという強い欲求も、世俗的欲求と同居することによって弱まり、怠惰になり、本質が見えなくなる。
そこでショックが必要になる。
それはいろいろなかたちをとる。きっかけはいろいろある。大きな失敗や、煩悩的望みが打ち壊されること、プライドを壊されること、他者からの攻撃、人と比べての落ち込み、人間関係やいろいろなことがうまくいかなくなること、その他様々な打ちひしがれることやショックが心に生じたとき、ちょうどそれは、清濁入り混じった泥水に、石が投げ込まれたかのようだ。
それにより、バシャーンと、泥水が飛び散っていく。このとき、本当に聖なる意識が心の芯にあるならば、そしてそれを忘れずに少しずつでもそれを育てる努力をしているならば、そのときエゴが打ち壊されて飛び散っていく苦悩・ショックは感じるが、その苦悩・ショックの中で、より純粋化されたバクティ、求道心、菩提心が姿を現す。
そしてそれらの理想が入り混じった形で、強い渇仰の心が生じる。
それはそれまでの甘い意識ではなく、これらの理想が絵空事ではなくなる。自分は絶対にそれらを達成しなければならない。そうでなければまったく生きている意味もないし、この不安定で苦悩に満ちた世界から救われることはないという強い思いが生じる。
そうして彼の心は引き締められ、より強い真理への渇仰が生じ、心は真理への思いで満たされ、死に物狂いで努力するようになる。
よって修行者・救済者にとって、この人生で感じる様々なショック、苦悩、落胆等は、神の愛であり、大いなる恩寵なのである。
もろもろの現象の善し悪しは、なかなか判断しづらい。実際には、世俗のマーヤーから目覚めさせ、本来の聖なる意識を目覚めさせてくれるものはすべて大いなる善であり、歓迎すべきものであり、それらを求め、喜ばなければならないのである。