見ること
チベットの風狂者へールカがまとめた、チベット仏教の聖者マルパの伝記のサブタイトルは、「見ることはすべてを達成する」だが、確かに真実の悟りというものは「見ること」によって達成される。
われわれはこの世界を見ているようで何も見ていない。実は今この瞬間もあなたは眼をつぶっており、ただ過去世から作り上げてきた習慣的な思考の反復を行なっているにすぎない。
そのようなすべての固定観念が、あなたの瞼を縛りつけている。それらをとりはずし、眼を開けなければ、本当のことはわからない。
しかしあなたが実際に目をあけることに成功したとしても、最初のうちは、「見る」ことには大きな恐怖が伴うだろう。それはあなたの想像をはるかに超えている、というよりも、想像の範囲外の世界である。あなたの中には恐怖と混乱が生まれる。なぜならそれは全くの未知なるものだからだ。心の中での類型化が不可能な体験だからだ。
もしその人に「準備」ができていれば、その恐怖を乗り越え、実はその未知なるものが、実はただ一つの既知なるものであったことに気づく。そこですべてが明らかになる。
しかしもしまだ準備ができていないうちに、間違って目を開いてしまうと、彼はその恐怖と混乱と絶望により、最悪の結果を生む危険性もある。
最悪の結果とは、以前よりもよりひどい観念的世界に縛り付けられるということだ。
足場のない未知なる領域に踏み込んでしまったとき、人は必死で足場を探す。そこは比較的自由な心の空間なので、足場を探せば、無数の足場がある。そこには、今まであなたがなじんできた足場よりもさらに悪い足場もたくさんある。それらの悪い足場に逃げ道を求めてしまったら悲惨である。その後ずっとその人は、その低い意識の世界で生きなければならないから。その人は修行などしないほうがよかったということになる。
だから眼を開こうとする前に、周到な準備が必要だ。それはつまり、より高い観念で自己を縛りつけるということ。別の言い方をすれば、神聖なる足場を強固なものにし、そこを自分の避難所とするということだ。
仏陀や神や師への帰依。教えの学習と精密な実践。これらの観念で、自分自身をがちがちに縛り付ける。神や仏陀や教えのしもべとなる。
それにできるだけ時間をかける。仮にそれだけで一生終わってしまってもかまわない。
そして十分に準備が整ったならば、最後に足場を外す。神や仏陀という観念の糸さえも解いて、眼を開けてみる。
もし完全に準備ができていれば、それほどの恐怖はなく、「見ること」を達成するだろう。
もし中くらいの準備ができていれば、若干の恐怖が生じ、「見ること」を失敗する可能性もあるが、それでもまた神聖な観念の世界に戻ることができるだろう。
だからひたすら、神聖な観念に自分を縛りつける。神聖な観念の世界を自分の中に作る。
そして最後は、眼を開けて、見るのだ。
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