「瞑想による除去」
◎瞑想による除去
【本文】
『ディヤーナへーヤースタドヴリッタヤハ
静慮は、すでに働きとして現われたものを除去することができる。』
静慮っていうのはディヤーナ。これは瞑想といってもいいわけだけど、つまり深い瞑想に入ることによって、自分が気づかない、さっき言った潜在的なものでなくて、今自分にあらわれてるいろんな執着とかいろんな煩悩みたいなものは、ある程度瞑想によって取り除くことはできますよ、というところですね、これは。
◎業遺存
【本文】
『クレーシャムーラハ カルマーシャヨー ドリシュタードリシュタジャンマヴェーダニーヤハ
煩悩を根因として業遺存が生じ、それらは現世においてあるいは他生において経験される可能性を持っている。』
これはもう、まさにカルマの話ですね。つまりわれわれが煩悩っていうのが生じて、煩悩によっていろんなことを経験したり、あるいは経験しないまでもいろんなこと考えたりする。それがわれわれのカルマの深い要素として蓄積されるんだね、われわれの中にね。これを「業遺存」といっている。
これは仏教的な言葉を使うと、「薫習」とかいうのにすごく近いね。薫習とか習気っていうわけだけど。つまりもう、われわれの中に根付いてる、例えばよくいわれている、布をお香の上にずーっと置いておくと、お香を取っても布にお香の臭いが染み付いてしまうように、われわれのカルマのいろんな日々の行ないとか、日々のいろんな考えによって、潜在的ないろんなカルマの傾向みたいなのがわれわれの心の中に根付くわけですね。
そしてそれは「現世においてあるいは他生において経験される可能性を持っている。」
可能性を持っているっていうのは、経験されないかもしれないっていうわけじゃなくて、いつかは必ず経験します。つまりその内側に眠ってるそのカルマの習性みたいなものが現象化して、われわれはこの世でいろんな苦楽を味わうわけですね。