yoga school kailas

キャラ・ケンポ・チェチョク・トンドゥプの生涯(終)

 彼はとても素朴で、謙虚で、おおらかでした。そして教えの知識は豊富で、知性は鋭く深く、そして彼の心は穏やかで優しいものでした。彼は薬の知識はほとんど持っていませんでしたが、代金を求めることなく人びとに薬を与え続けました。なぜなら、この薬の配布は、医者だったケンポ・コンメによって始められたものだったからです。病人が医者からの診断を持ってくると、彼は生徒に彼らに薬を与えさせました。

 彼はドドゥプチェン僧院以外の多くの場所でも教えました。彼はセル谷のヤルルン・ぺマコ、ド谷のワンロル・ゴンパ、ジカ谷のキャラ・ゴンパ、ギャロンのジョロ・ゴン、ドガル・ゴン、そしてアロ・ゴンパ、レコンのテルトン・ガル、ゴデ・ゴン、レコンのゴン・ラカ、トコ地域のコンセル・カド・ゴンパで教えました。彼はレコンのテルトン・ガルとギャロンのジョロ・ゴンにドゥプダス(瞑想学校)を設立しました。

 プラへーヴァジュラ(ガラブ・ドルジェ)著の“三つの極めて重要な言葉”の意味を説明しながら、ケンポはリンポチェ、つまりトゥプテン・ティンレー・パルサンに、このように書きました。

 「原初的に純粋で、詳述されることのない、自発的に生まれた輝ける智慧は、
透明性、空性、理解と開放性からの解放、ダルマカーヤの様相という形で、
 生来的な本性のさまざまな幻のサイクル、つまり理解する者と理解された[二元的な]思考として存在します。
 どうか、自然な状態それ自体、つまり空性と[あなたの心の]生来的な覚醒とのありのままの[結合]を認識してください。

 もしあなたが基準点のない生来的な覚醒の新鮮さと開放性の状態の中で、
 修正や詳述することなくとどまることによって、
 概念的な心の認識をすべて直接的に切り離すなら、
 たとえあなたが探し求めなくても、自己覚醒のダルマカーヤの顔を見るでしょう。
  
 輪廻とニルヴァーナの苦と楽、つまり心の描写が
 どのような様相で生起しようとも、それらの性質は初めから解放されています。
 [あらゆる思考を]理解することから解放された一切に遍在する領域として自発的に溶解させるとき、
 安らぎと平安な心の中で休息することは喜ばしいことです。

 もし無修正かつ開放性の智慧である生来的で本質的な覚醒が
 詳述から解放された大いなる至福と空性[の結合]としてありのままに生起したなら、
 そのとき、不活発と活発、つまり瞑想の障害は自然に除かれ、
 障害を除去したり、経験を深めるといった他のどんな手段にも頼る必要はないでしょう。
  
 現われるどんな[形]も、不生のダルマカーヤ、つまり空性と覚醒の[結合]なのです。
 鳴り響くどんな音も、破壊できない轟音[ナーダ]です。
 生起するどんな思考も、理解から解放された普遍的な[一切に遍在する]本性です。
 どうかダルマカーヤ、つまり覚醒と空性の不変[の状態]の統治下にとどまってください。」

 1957年のある日、ケンポはわたしにこう言いました。

 「わたしの命は、ヤギの尻尾のように老いさき短いので、自分の安全については気にしていない。しかし、わたしはあなたの命を守りたいのです。わたしはリンポチェ[トゥプテン・ティンレー・パルサン]にわれわれを彼に同伴させてもらえるようお願いし、そして彼は同意してくださいました。よってわれわれは出発すべきだが、これは兄弟のロリ以外の誰にも話すことはできない。」

 もし人びとがリンポチェが出発すると知ったなら、彼らは彼を行かせないか、他の多くの人びとも出発したがり、権威者たちがわれわれを簡単に止めたことでしょう。

 リンポチェはわれわれに十三人の者が彼と同伴し、そして三つのグループに分かれるべきだと言いました。ケンポとわたしは最初のグループに入り出発し、彼は第二のグループで出発することになりました。

 ロリを除くわれわれの内輪の人びとに対して、ケンポとわたしはこう言わなければなりませんでした。

「ケンポとわたしは占いに従って、聖地ドンタ山へ行き、他の者に知らせずに一ヶ月の隠遁修行を行なうことになりました。ロリはわれわれをかばって、われわれが隠遁修行をしているふりをするでしょう。そしてわれわれは準備が整ったら何人かの友人とともに行くつもりです。」

 そのような手配は状況によってはよくあることだったので、彼らはわれわれにそれ以上質問しませんでした。そして彼らは何頭かの馬を用意し、ドンタ山へのわれわれの見せ掛けの旅を秘密にするのに手を貸してくれました。

 ある夜、われわれが出発するちょうど二日前、ケンポは僧院に住んでいたリンポチェ・リクジン・テンペ・ギャルツェンに会いに行きました。ケンポがリンポチェのもとを去ろうとすると、リンポチェはその場にいた他のすべての者に中で待っているように頼み、彼は家から出てきて、暗い中でケンポに別れのあいさつを言いました。そのあとケンポは歩き去りましたが、リンポチェは再び彼の後を追って、もう一度別れのあいさつを言いました。それからケンポが再び立ち去ると、リンポチェは彼の後を追って、三度目の別れのあいさつをしました。そしてそれから彼は僧院に戻っていきました。あとでケンポはわたしにこう言いました。

「わたしはわれわれの出発をほのめかしもしませんでした。しかし、リンポチェはお互いが会うのはこれで最後になると確実に感じていました。彼はとても感情的になり、別れのときが辛いように見えました。それはわたしが今生は戻ってこないかもしれないということを意味していました。」
 

 火の猿の年(1957年)の十一番目の月の三十日目の真夜中に、みんなが眠っていて、共同体全体が暗闇に覆われているとき、われわれは速やかに僧院を出発しました。最後に僧院がわれわれの目に入ったチュンニャク峠で、暗闇のなか、ケンポとわれわれは偉大なるラマたちの座である僧院と、光明の眠りに入っているか、またはその全智の智慧の目でちょうどわれわれを見ているリクジン・テンペ・ギャルツェンに礼拝しました。ロリはあとに残り、まるでケンポとわたしが家で隠遁修行をしているかのようにドラムを鳴らしてわれわれの逃亡を隠していました。

 
 出発する少し前に、キャラ・ケンポの弟子のラマ・シンキョンが、われわれの出発を知らずに、わたしに予言を書きました。

 「火の卵が割れるころ、あなたは中央チベットに着くでしょう。」

 その通りに、われわれは火の鳥の年(1957年)の一番目の月の六日目にラサに着きました。ケンポは旅の途中で生じた足の怪我のために病気になりました。われわれはラサで数日間過ごし、ケンポはロカ・アムチという名のチベット人の医者から治療を受けました。われわれはチベットで最も神聖な像ジョウォを見、供物を捧げました。ケンポにとってこれは二度目のラサ訪問で、初めて巡礼したのは彼が七歳のときで、両親と一緒でした。

 ラサに数日滞在した後、リンポチェが立てた計画に従って、われわれは有名な巡礼地ダク・ヤンゾンに行き、リンポチェを待ちました。ケンポの健康状態は悪化し、彼はこう言いました。

「わたしは若いころから、グル・リンポチェによって祝福された場所で暮らし、瞑想したいといつも思ってきました。もうわたしには瞑想する時間はありませんが、この場所で最後の時間を過ごせてとても幸せです。」

 火の鳥の年(1957年)の二番目の月の二日目の夕暮れ、チューイン・リンポチェ・ゾの最初の三章を読んだあと、彼は突然亡くなり、究極の平安へと溶け込んでいきました。翌日、彼はまだ瞑想の姿勢のままでした。そして何も知らない現地の素朴なラマが入って来て、瞑想の没入状態から彼を目覚めさせる儀式を行ないました。

 彼の著作には、リクジン・ドゥーパの注釈、パルチェン・ドゥーパに関する短い注釈、ヴァジュラキーラに関する短い注釈、心を打つ三つの言葉に関する短い教え、ダクニ・チャンチュプ・ミチェに関する注釈があります。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする