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校長ことマヘンドラナート・グプタの略歴(7)

 タクル・シュリー・ラーマクリシュナのマハーサマーディの後、タクルの息子たち(弟子たちのこと)は、バラナゴルに一軒の家を用意し、マト(僧院、修行所)とした。特にスレシュ・ミトラ(スレンドラ)、バララーム・ボース、M等が、最初のころには僧院のために金銭的な援助をしていた。マヘンドラナートはこの時分、二つの学校で教えていたが、その一つの学校からの収入を、僧院の費用のために寄付していた。1890年から93年にかけて、ナレンドラナートは修行のために放浪僧になっていた。彼の親しい他の兄弟弟子のある者たちは、自らの苦行のためにヒマーラヤや北の地方に修行に出かけた。このとき、マヘンドラナートは自分の日記の内容に没頭して、昼夜、タクル・シュリー・ラーマクリシュナを思いながら、師の聖なる未亡人シュリー・シュリー・マー(サーラダーデーヴィー)の生活を助けて過ごしていた。何か判断に迷うようなことがあるとすぐに、シュリー・シュリー・マーに相談するのが常であった。
 その当時、マヘンドラナートは、シュリー・シュリー・マーを、ときどき自分の家に招いて饗応した。彼女もマヘンドラナートの家に、半月くらい、ときにはひと月以上も滞在された。シュリー・シュリー・マーにタクルの夢のお告げがあり、マヘンドラナートの家に自ら行かれて、聖水を入れる水がめなどを用意して礼拝の準備をしてくださった。聖なる礼拝堂で、シュリー・シュリー・マーは多くのプージャー、ジャパ、瞑想をおこなわれたのである。
(この礼拝堂は、大学通り、ターンタニヤ地区にあり、すぐ近くにはヴィディヤーサーガル・カレッジがある。礼拝堂には師が使われた履物、数珠、またシュリー・シュリー・マーが持っておられたシンドゥール(既婚女性が髪の分け目につける赤い粉)を入れる容器、それに足形、師とシュリー・シュリー・マーの頭髪や手と足の爪などがまつられている。朝、昼、夕の決まった時間に礼拝供養が行われている。この場所で、シュリー・シュリー・マーは多くのプージャー、瞑想、ジャパをなさったのである。スワミジ(ヴィヴェーカーナンダ)や出家および内輪の在家の信者や弟子たちもここで礼拝をおこなった。Mの部屋にはタクルが着用された上着、コップ、モレスキンの肩掛け、師が信者に見せるようにとくださったチャイタニヤの絵などが飾られてある。まさにこの部屋で「コタムリト」は書かれたのだ。Mのこの家は、今ではベルル僧院、ウドボーダン、バララーム・ボースの家などと同時に、巡礼の聖地となっている。内外からの巡礼者が、日増しにこの地を訪れているのである。)

 マヘンドラナートは、シュリー・シュリー・マーへの奉仕のために、1889年より毎月規則的にシュリー・シュリー・マーに献金していた。シュリー・シュリー・マーも、何か入り用なものがあると、マヘンドラナートに知らせていた。ジャガッダートリー(世界の母)供養祭のための土地を購入するとき、マヘンドラナートに土地を買う金を送るように指示し、それを許可した。手紙を受け取ると、ただちに320ルピーを送った。シュリー・シュリー・マーの生地ジャイランバティが水不足に見舞われたときには、井戸を掘る費用として金を送るようにシュリー・シュリー・マーが指示すると、彼は100ルピーの金を送った。僧院の僧侶たちが修行するためにヒマーラヤや遠いところに旅行するときは、彼らにお金を送っていた。

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