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「三身への変容」

◎三身への変容

【本文】
 密教の教えを修めたヨーギーは、生きているうちに死のプロセスを何度も瞑想で修習し経験する。
 そのときに、普通の人が死んで死の光に飛び込むプロセスにおいて法身(ダルマカーヤ)を経験し、バルドの身体を形成するプロセスにおいて報身(サンボーガカーヤ)を形成し、そして新たな世界に生まれ変わり新たな肉体を形成するプロセスにおいて変化身(ニルマーナカーヤ)を形成することを修習する。
 これによってヨーギーは、普通の死とバルドと再生を、仏陀の法身・報身・変化身に変容するのである。

 この辺からちょっと難しくなってくるね。はい、まず、「密教の教えを修めたヨーギーは、生きているうちに死のプロセスを何度も瞑想で修習し経験する」。ここでいってるこの言葉っていうのは、二つのレベルの意味があります。
 二つのレベルの意味っていうのは、まず高度な話としては、本当に経験します。本当にっていうのはつまり、生理的に、つまりここでいう密教の教えっていうのはクンダリニー・ヨーガとか、あるいはここでいういわゆるナーローの六ヨーガの熱のヨーガ、チャンダーリーのヨーガっていうやつですね。これは何度も何度も出てきてるから覚えてると思いますが、徹底的な生理学的な変容を行なうんですね。例えば中央気道にエネルギーをグーッと入れるとか、あるいは心臓に意識と心を集めるとかいろんなことによって、ちょっと現代的な言葉を使うならば、擬似的な死の状態を作り出すんだね。西洋医学的な意味ではこの肉体はに別に死んではいないんだけど、もうちょっと深いレベルにおいて、つまりエネルギーとかあるいは意識の流れという意味において、物理的に本当に死と同じ状態を一時的に作り出すんです。それによって意識は死の経験をするんだね。肉体は死んでないんだけど、意識上において死の経験をする。これがバルドのヨーガです。
 はい。で、そしてその中において、簡単に言うとですよ、死のプロセスっていうのは――はい、まず、最も心の奥の世界――この光の中にまず没入します。普通の死の場合ね。没入して、はい、その後、さっき言ったバルドの身体、つまり幽霊みたいな霊的な身体になります。その霊的な身体でいろんな幻影を経験した後、どこかの世界に生まれ変わります。これが簡単に言うと、普通の、死んで生まれ変わるプロセス。
 これを、熟達したヨーガ行者は、さっき言ったみたいに、まず人工的に死の状態を作り出し、作り出すから当然死と同じように、まず心の最も奥深くの光の中にバーッて溶け込んでいきます。普通はただこれだけなんだけど、これをいわゆる法身といわれる、つまり仏陀の悟りの究極の状態に変容するんだね。ただの死後の光ではなくて、この光を仏陀の光にしてしまう。で、ここでさらに二段階あると思うんだけど、本当に悟ってる人は本当にそれを悟りの状態に持っていく。でもまだそこまでいってない人は擬似的に、「ああ、これは悟りの法身なんだ」っていうイメージをする。
 はい、次に、次のプロセスで霊的な存在になります。死後の世界の霊的な状態になるっていうプロセスがきたときに、それを意識的に報身に変える。報身っていうのは例えばグヒャサマージャとか、カーラチャクラとか、いろいろああいう神々に変身する瞑想があるね。ああいう瞑想をしっかりと生きてる間にやっておいて、生きてる間っていうか普段からやっておいて、で、この死後の経験をしたときに、自分のそのバルドにおけるウニャウニャした霊的な存在をグーッとその神々の体に変えてしまうんだね。こうして報身のボディを作り出す。これもだから二段階あります。本当に報身を作ってしまうか、もしくはそこまでいけないんだけどイメージでそういうイメージをするか。
 はい、そして最後に、次の世界に生まれ変わりますよっていうプロセスがある。そのときに変化身、つまり霊的な仏陀の体となってどこかの世界に救済者として生まれるっていうイメージを行なうんだね。これが高度なバルドのヨーガの修行なんです。
 もう一回言いますよ。高度なバルドのヨーガの修行っていうのは、実際に物理的な方法によって、自分の中に擬似的な死の状態を作り出す。その死のプロセスにおいて、まず死の光に飛び込むときに法身と呼ばれる仏陀の悟りの境地に溶け込み、そして普通の人が幽霊みたいな状態になるときに、幽霊じゃなくて神の身体を作り出し、そして普通の人が生まれ変わるプロセスを経験するときに、菩薩として、変化身として救済のためにいろんな世界に生まれ変わるようなイメージを繰り返す。これがバルドの修行ですね。

(K)すいません。最初の光っていうのは光のヨーガの光ですか。それともクリアライトとかの光のことですか。

 まあ、クリアライトといっていいね。うん。だから光のヨーガの光の最後の方の光だね。それは普通の人はみんな経験する。しかしそこから普通はまたすぐに戻っちゃうんだけど、それを完全に悟りの光として固定するんだね。
 今言ったのは高度な場合ね。つまり普通はここまでもできない。つまり普通はこの死後の経験自体がまずできない。つまりその場合は、まずはイメージでやるわけだね。これはだからイメージを使った瞑想になります。つまり本当はそういう状態になってないんだけど、自分が死んでバルドに入ったイメージをして、そしてまずその法身の状態、そして報身のね、神の身体に変わって、そして人々のために変化身として生まれ変わるっていうプロセスを繰り返すと。このどちらかだね。もちろん理想的には本当にバルドの経験をするのが一番いい。

(K)先生、バクティ・ヨーガをやってる人もそういうふうにした方がいいんですか。そういう修行とかその、おまかせ的な感じじゃなくていいんですか。

 いや、それはだからいつも言うように、今生は、わたしの考えでは、やっぱりいろいろやっておいた方がいいと思うね。まあ、いろいろやっておいた方がいいっていっても、別に、例えば百個くらい修行項目があるとしてね、一日を百に分けて全部やるっていう必要はない。そのうちね、何をやるかっていうのは、例えばわたしが指示をしたりとか、あるいは自分で興味を持ったものをやったらいいと思うけども。まあ今生においては、いろんなパターンの修行を経験したらいいと思います。で、その上でその人に合ったね、例えば死後の世界においても、理想はもちろんバクティ・ヨーガみたいに「はい、おまかせしますよ」っていうのが理想だよね、当然ね。バクティ・ヨーガにおいては。でもそんな段階じゃないうちに死んだとしたら、これは大変だと。でも例えばこういった密教のバルドのヨーガとかをもしやってたとしたら、ある程度自分でそれをコントロールできるかもしれない。
 だからいつも、何度も繰り返すけども、生きてるうちも同じなわけだけどね。生きてるうちも、今生ではいろいろやっといた方がいい。例えば生きてるうちにバクティ・ヨーガ一本でいけるかっていったら、なかなか難しいと思います。あの、本当はいけるんですよ。本当はバクティ・ヨーガだけでいけるんです。しかし現代は、心もエネルギーもけがしまくっちゃってるから、つまり、えせバクティになりがちなんだね。えせバクティになったらもう最悪です。
 えせバクティっていうのは――これはね、ヴィヴェーカーナンダも繰り返し言ってるわけだけど、ヴィヴェーカーナンダが言うには――バクティ・ヨーガには大前提として放棄が絶対必要だと。放棄ね。つまり自分のいろんなものを捨てて、あらゆる欲求、執着を捨てて、それによって、ラーマクリシュナも言うように、全欲求、すべての心やエネルギーを神に向けてるわけだね。でもそうじゃなくて、表面上「ああ、神よ」とか言って、実際はいろんなものに心が向いてる。これはえせバクティ。この人がまるで聖なる道を歩んでいるような雰囲気で五十年、六十年と生きても、何の進歩もない。ね。
 じゃあどうすればいいんですか? いや、捨てればいいと。捨てるっていったって捨てられませんよと。そこで他の修行が必要になってくるんだね。じゃあ物理的にナーディを浄化しましょうかと。あるいは、しっかりと教えを学んでそれを論理的に分析して、それを取り去ることができる人がいるかもしれない。あるいはそうじゃなくて、クンダリニー・ヨーガ的に一気に高い世界を経験してしまうとかね。いろんな要素が必要になってくるんだね。今生においてはね。
 じゃあ、その中で何をベースっていうか支柱とするかっていうと、やっぱりそれはバクティ・ヨーガが一番いいと思う。バクティ・ヨーガがまず根本にあって、で、それにいろいろこうついてくるっていう感じが本当は一番いいね。
 別のやり方ももちろんできるんですよ。何か他のヨーガが支柱にあって、それにバクティやその他がついてくるっていうのも、それはそれでできるわけだけど、バクティを中心に置くのが一番いいと。
 別にだから今日の話も、例えば今バルドの修行のやり方を言ったけども、これは別にみんなにやれとは言わない。でももしかするとやれというときもあるかもしれない。それはだから今の段階ではまだ知識として入れておいたらいいね。ああ、そういう修行もあるんだと。で、もしみなさんがそういう縁があったら、やることもあるかもしれない。
 実際ここでやってる修行自体は――修行っていうのはクラスでやってる修行とかね――自体は、このナーローの六ヨーガ的な修行が実際は多いです。つまりちょっと基本的な話になっちゃうけど、バルドのヨーガって――バルドのヨーガだけじゃないんだけど、バルドのヨーガ、あるいはその他のこの六ヨーガっていうのは、結局は熱のヨーガなんです。つまりクンダリニー・ヨーガなんですね、結局は。クンダリニー・ヨーガのちょっとこう派生してるものに過ぎないんだね。
 じゃあバルドのヨーガは、バルドを経験するんですね。じゃあどうやればいいんですかと。それは中央管にエネルギーを入れるしかないと。中央管にエネルギーを入れるにはどうするんですか? それはクンダリニー・ヨーガをやるしかないですねと(笑)。結局はこれクンダリニー・ヨーガなんです。で、このバルドの修行も、クンダリニー・ヨーガを進めていくうちにそのバルドの経験がだんだんできるようになってきますよと。できるようになってきたら、それを変容する訓練をすればいいですねっていうことなんだね。
 だからもしそのバクティ――今のK君の質問とつなげると――もしバクティ・ヨーガをすごく中心に置く場合はね、ちょっと変容っていうか、若干アレンジした内容でもいいかもしれない。例えば、はい、死にました。死後の光に飛び込みます。仏教的にいうとそれは仏陀の悟り、法身の世界に飛び込んでください――じゃなくて、「ああ、今こそクリシュナのもとに飛び込もう」と。あるいは「至高者の絶対なる境地に飛び込もう」と。あるいは、ねえ、ラーマクリシュナの弟子たちみたいに、自分の師、師を神そのものと見てる人は、「ああ、ラーマクリシュナの中に飛び込もう」と。「自分の師のもとに飛び込もう」でもいい。つまりその完全なる存在、バクティの対象に対してまず飛び込んでいきますと。パーッと。これが第一段階。はい、そして次に神の僕として、つまり霊的な世界、アストラルとかにおける神の僕として自分を形成すると。そして神の道具として、純粋な道具として、変化身として、いろんな世界に救済のために降りていくイメージをすると。こういうふうにやってもいいかもしれない。

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