yoga school kailas

至高者の祝福(14)

第二章 第9話 プラクリティと真我

 至高者は続けました。

「太陽は水に映ったとしても、決して水の属性の影響を受けることはないでしょう。
 同様に真我も、物質的な肉体に宿っていても、属性を持つことなく、変化を免れており、肉体の苦痛には全く影響されないのです。
 しかし真我がプラクリティのグナに結びつくと、彼は自分が行為者だと思い始め、自己本位の思いに惑わされていくのです。
 『自分が行為者だ』というこの思いゆえに、真我は、行為に伴った悪によって、心の平和を失っていくのです。その結果、真我はプラクリティと結合して、この世に誕生するにいたり、善趣や悪趣の輪廻を繰り返すことになるのです。
 人は夢の中では、明らかな原因がなくとも悲しんだりするでしょう。同じように、人が感覚の対象の中で生きるなら、それらは実際は存在しないにも関わらず、輪廻の悲しみは終わることがないのです。
 それゆえ人は、感覚の対象を絶えず追い求める自分の心を、バクティと離欲の実践によって、自己の支配下に置くべきなのです。

 ヤマ(禁戒)やニヤマ(勧戒)などを土台としたヨーガを熱心に行ない、
 心の集中を実践して、
 真摯な信仰心を私に抱き、
 すべての衆生に平等心を持ち、
 誰にも敵意や愛着を持たず、
 自己をよく制し、
 無駄話をせず、
 神への奉仕として自己の義務を果たし、
 さらに自然に手に入ったものだけで満足し、
 定められた少量の食事をとり、
 常に神を念想し、
 心は平静かつ平安で、 
 すべての者に親切に接し、
 慈悲深く、
 冷静沈着で、
 またプラクリティと真我の実体をよく認識して、
 『私』と『私のもの』という妄想を放棄し、
 もはや神以外には何一つ見ない。

 ――以上のように努力する者は、その純粋な智性によって、あたかも水に映った太陽ではなく太陽そのものを見るように、真我を認識するにいたるでしょう。
 そしてまた彼は、すべての根源であり、唯一者であり、何の属性も持たない、偽りの自我のかなたに唯一の実在として輝く、ブラフマンをも悟ることができるでしょう。」

 デーヴァフーティは言いました。

「ああ、神のごとき聖仙よ。
 非行為者である真我を行為に束縛する、プラクリティのグナが存在し続ける限り、どうして真我に自由があるでしょうか?
 仮に一時的に束縛から逃れえたとしても、グナがある限り、また同じように束縛されるのではありませんか?」

 至高者は答えられました。

「与えられた義務を無私の思いで果たし、自分の心を浄化して、また常に私へのバクティを育て、さらに真理を悟りうるジュニャーナ・ヨーガと強い離欲を実践し、また聖なる誓いや戒の遵守を伴った瞑想を行なう。そのように熱心に修行し続けることで、真我と強く結びつくプラクリティは、徐々に真我から離れていくでしょう。
 そして自らの栄光に光り輝き、独存に至った真我は、今まで楽しんできた彼女(プラクリティ)を、もはや悪の源泉として捨ててしまい、何の危害も与えられなくなるでしょう。
 人は睡眠時に悪夢に苦しんだとしても、目覚めるなら何の影響も受けないでしょう。同じように、心を常に私に結びつけ、真実を悟って、真我に喜びを見出した者に、プラクリティは何の危害も加えることはできないのです。
 神を念想して修行し、何生もの間、真我に心を集中し続けるなら、彼は地獄から天にいたるまでのすべての輪廻の世界に、嫌悪感を持つようになるでしょう。
 私の慈悲によって真我を悟った、強い心を持つ私の信仰者は、すべての疑念を真我の叡智によって解消し、彼はその人生で、自身の本質である、解脱という最高の祝福を手に入れて、その後も私のもとにとどまり続け、二度と輪廻に落とされはしないでしょう。
 人がヨーガによって完成するにいたり、さらにヨーガで獲得できる神通力にも心をとらわれないなら、彼は私の不死の境地に、必ず到達できるのです。」

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