「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第一回(1)
2012.7.14 バクティヨーガ・サーダナー 第一回
はい、これはここにもちょっと書いてありますが、スワーミー・シヴァーナンダ――まあ、今日最初に読んだ『サーダナーの指針の花輪』もそうですけども、このシヴァーナンダっていう人がまとめたものですね。
このシヴァーナンダっていう方は、もう一回言うと、今、有名になってるね、シヴァナンダ・ヨガってありますね。あれのおおもとの人なんですけど、まあ実際には、あれはシヴァーナンダの弟子がつくったものですけども――今、普通にシヴァナンダ・ヨガとかいって教室とかあるのは、まあアーサナ中心の普通の、よくあるヨーガ教室みたいな感じになっていますけど――実際にはこのおおもとのね、シヴァーナンダさんっていう人は、近代のリシケシに住んでた聖者で、非常に総合的にさまざまなヨーガを修め、理解し、かつ、前も言ったけどもすごくたくさんの本を書いた人なんですね。
で、このシヴァーナンダさんの特徴っていうのは、やっぱりその、なんていうかな……非常に実用的な、あるいは実際的な教えをまとめるセンスがあるっていうかな、そういう能力があるような感じがするね。だからこの人のいろんな作品を読むと、非常に実際的なんだね。つまり、フィーリングだけでもなく、あるいは非常に伝統に凝り固まってるわけでもなく、あるいは逆に、現代的にあまりにも現代的な考えに寄りすぎてるわけでもなく、修行のエッセンス的なものを、非常に簡潔に、実用的にまとめてあるのが多いですね。で、バクティヨーガ関係に関して、そのシヴァーナンダさんがまとめたものが、この『バクティヨーガ・サーダナー』ってやつですね。
バクティヨーガっていうのは、皆さんも分かると思うけども、実際には非常に本質がつかみづらいところがある。まあ、というかそのエッセンス的なものは、そういうね、本質的なものとかたくさん学んでれば、なんとなく心に入ってくるわけだけど、それをその、システマティックに理解するのは難しい。
もちろん実際はね、システマティックに理解する必要は本当はないんです。本当はないっていうのは、われわれの心がもっとシンプルだったら、もっとシンプルで雑念も少なく、あと修行への熱意があったら、まさにここで学んでるような、例えば『ラーマクリシュナの福音』にしろ、あるいはクリシュナの教え、あるいはラーマーヤナの教えにしろ、そういったものをしっかり学んで、ただそれを真剣に、そのエッセンスをつかもうっていう気持ちがあれば、まったく問題はない。
でも現代人のわれわれは、なんていうかな、まあやっぱり、頭にちょっと比重が置かれちゃってるんだね。つまりそういった、純粋な心で何かをつかもうとするよりは、頭――つまりシステムや、あるいは概念や、論理っていうもので物事を理解したり、行動したりする教育をされてしまったっていうかな。だから、みなさんみたいにバクティヨーガのエッセンスをある程度理解できる素養があったとしても――例えばこういう勉強会とかでは「ああ、素晴らしい。ラーマクリシュナ素晴らしい。ラーマーヤナ素晴らしい。クリシュナ素晴らしい」ってなるんだけど、実生活ではあまり役立ってない場合が多いっていうか(笑)。それは皆さんの――っていうか、現代人の、ちょっとそういう習性なんだね。
もう一回言うけども、皆さんが例えば――そうですね、例えばよく出る例としては、アドブターナンダのような、ね、あるいはブラフマーナンダのような、ああいう、例えば非常にシンプルな、素朴な信仰、あるいは素朴な心の持ち主だったならば、全くこういうのはいらないんですけど、やっぱりもうちょっと現代人には、バクティヨーガにしてもシステム的な教えは必要かなって感じがするね。
あと、もう一つ別の観点から言うと、これはあのヴィヴェーカーナンダの言葉で言うとね、ヴィヴェーカーナンダが言うには、「バクティヨーガっていうのは、あらゆる修行の中で、最も素早く、最も簡単に、最高の悟りに至れる道だ」と。「しかし逆に、最も堕落しやすい道でもある」と。つまり勘違いして、この信仰っていう世界を勘違いして、まあなんていうかな、ただのエゴの依りどころにしてしまって、堕落してしまう危険性も最も多い。で、ヴィヴェーカーナンダって結構辛辣な言葉を使うから、この話のまとめとしてね、ヴィヴェーカーナンダは、「そして世の――まあこのヒンドゥー教におけるバクティ、あるいは世界のキリスト教、そしてイスラム教、こういった宗教は、その多くのメンバーをね、このような堕落した人間達から補充してきた」って言うんだね(笑)。非常に辛辣な言い方ですけどね。つまり逆に言えば――つまりキリスト教もイスラム教も、あるいはヒンドゥー教も、バクティ的な要素は多分に含んでるわけだけど、そのほとんどが、今の定義でいうと、間違ったバクティ。つまり、速やかにわれわれを悟らせるバクティではなくて、まあエゴに利用されたというか、単純に自分のエゴやあるいは自分の怠惰さや、あるいは無智を増大させるような、間違ったバクティに落ち込んできたと。だからわれわれは、しっかりとしたバクティの真髄をつかまなきゃいけない。その角度からいっても、ただエッセンスだけではなくて、ある程度、こう道に沿ったバクティの教えを学ぶやっぱり必要があるんだね。
ただまあ、逆にもう一回話を戻すと、現代のバクティの教えっていうのはまず、まあエッセンスは素晴らしいが、ちょっとつかみどころがない――こういうのが多いね。で、もう一つは逆に、まあ、ある宗派とかのものになってしまうと、逆に非常に教条主義になってしまうっていうか、つまりその、観念的っていうかな。「これじゃなきゃいけない」、「この教えじゃなきゃいけない」とか、あるいはすごい段階を設けたりして、「このタイプの心はこのバクティに……」とかなんか、非常に固い教えになっちゃうんだね。こういう宗派もある。だから、どっちもちょっとあんまり使えないんだね。だから、もう一回言うと、シヴァーナンダがまとめたこのシリーズというのは、その中間をいってるっていうか。そんなガチガチではないんですけども、われわれのそのバクティの理解に、ある程度、道を持たせてくれるようなところがあるので、とてもいい作品だと思うね。はい、じゃあ読んでいきましょうね。
【本文】
この作品は、スワーミー・シヴァーナンダの著書「SADHANA」の中の一節を抜粋し、私が若干のアレンジを加えてまとめ直したものです。
松川慧照
バクティヨーガにおける五つの解脱
1.サーローキャ・・・至高者の住まいに住む。
2.サーミーピャ・・・至高者の身近にとどまる。
3.サールーピャ・・・至高者に似た姿となる。
4.サーユジャ・・・至高者と一つになる。
5.サーリシュティ・・・神の力を楽しむ。
はい。はい、ここでバクティヨーガの五つの解脱って書いてありますが、ここはですね、まあいきなりだけども、ここはあんま突っ込んで考えなくていいです、この部分は。なぜかっていうと、まあこれはつまり結果を表わしてるわけだね。バクティヨーガにおける結果の――結果、こういう解脱を得ますよと。ただ、バクティヨーガっていうのは、ちょっとコツを言うと、結果はあまり論じてもしょうがないんですね。バクティヨーガっていうのはまさに「道の教え」なので、どうするのか、あるいはどういう心構えでいくのか、まあ言ってみればここにすべてがあるっていうかな。だってそうでしょ、バクティヨーガの人達っていうのは、本当のバクタっていうのは、結果を求めてない、変な話。あなたへの愛――まあ、それを結果と言ってしまえばそうなんだけど――神への完全な愛に没入すること、あるいはその道具となって全力で働くこと、ここに没入することしか考えてないんだね。
なんでもそうだけど、教えには、いつも言うように現象的教えと、それから方法論的教えがある。で、この現象的教えっていうのは、実はほとんどが、なんていうかな、「まあ一応言ってる」みたいなもんです。一応言ってるっていうのは、いつも言ってるように、現象というのは、あるいは特にこの悟りとか解脱とかまさにそうですけど、表現できません。例えばニルヴァーナとは何かっていった場合、ニルヴァーナも――ニルヴァーナってあれは、炎とかが「滅する」っていう意味があるわけだけど、まあ、そのような表現しかできないんだね。じゃあ、滅して何があんのかっていうのは表現できない。で、あるいはこの世界観もそうですけどね。一応こういう世界がありますよ、とかいう教えがあるわけだけど。でも、それはまあ一応の便宜上の教えであって、一応、われわれの心を安心させるための教えであって、実際はそれよりも、われわれがこの迷妄の世界からいかにして抜けるのか、いかにしてこの無智の暗闇から覚めるのか、っていうのが、まあ実際は教えのすべてなんですね。
だからこれもまあ、ちょっと軽く、頭に入れておいたらいいんだけど、これも一つの、なんていうかな、バクティヨーガの流れの中にある一つの定義に過ぎないんだね。
はい、ただこれを読むと、ちょっとなんとなく分かると思うのは、バクティヨーガ自体が、実際には――例えば普通、解脱っていったらさ、まあイメージとしてはニルヴァーナ、つまりあらゆる二元的、あるいは相対的概念や束縛から解放されることを普通は表わすわけですけども、これは全部違うわけだね。バクティヨーガにおける解脱っていわれる境地は、全部、当然だけども、至高者と関わってるんですね。つまりその、あらゆる二元性から解放され……とかじゃなくて。至高者との関わり合いの、最も純化された状態。つまり、至高者の住まいに――住まいっていうのは、これは浄土だね。南無阿弥陀仏で阿弥陀浄土に行くみたいな、至高者の世界に行ったりとか、あるいは、例えばヴリンダーヴァンとかで一緒に至高者と遊ぶような存在になったりとか。
まあそういう意味でいったら、いつも言ってるけどさ、ヴリンダーヴァンでクリシュナと一緒に遊んでいる、あの子供達や村人達、あとアヨーディヤーとかチトラクータとかで、ラーマやシーターと一緒にリーラーを楽しんでる者達――彼らはある意味、解脱してるわけだね(笑)。一見なんか、ただの物語の中の、苦も楽もあるただの人間のように描かれてるけど、実際はあれは一つの解脱の姿なんですね。そのリーラーの中で一緒に楽しめる恩恵を得ている。
まあそれから言ったらさ、直接、至高者に命を絶たれるラーヴァナとかカンサとかね、あれはすごい解脱者ですよ(笑)。すごい、ある意味での境地に達していると言ってもいい。だから全然見方が変わってくるんですね。だからバクティっていうのは、もう一回言うけども、その至高なる存在との「いかにお近づきになるのか」、「いかにその関係性が純粋化されるか」にその解脱のベクトルが向かっているわけですね。
はい、だからここら辺はちょっと軽く読んでいきましょう。
はい、じゃあ次いきましょう。