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「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第一回(2)

【本文】

バクティヨーガの九つのムード

1.シュラヴァナム・・・神のリーラーその他を学ぶ。

2.キールタナム・・・神の御名やリーラーその他を歌う。

3.スマラナム・・・神を心に刻む。

4.パダセーヴァナム・・・神の御足、グル、そして衆生への奉仕。

5.アルチャナム・・・花や神聖な葉などの供養。

6.ヴァンダナム・・・神への礼拝と、すべての衆生への精神的な礼拝。

7.ダーシャム・・・神の召使いとしての態度。

8.サキャム・・・神の友人としての態度。

9.アートマ・ニヴェーダナム・・・自己の完全なる明け渡し。

 はい。これもちょっと、パーッと読むだけにして――っていうのは、このあとの方でね、この一つ一つの詳しい解説が出るので、まあここはただの目次みたいな感じですね。これはつまりあとの方で出てきますが、九種類のまあムードっていうかな、バーヴァっていうわけですけども――九種類のバクティのベクトルっていうか方向性がある。ただこれは実際には混ざってます。実際にはどれか一個選ぶとかじゃなくて、複数混ざり合いながら進む感じですね。ただ実際にはその人の段階やあるいはタイプや、あるいはさまざまなカルマによって、どの部分が強く強調されるかとかはちょっと違ってくるんだね。
 はい、では次もいきましょう。

【本文】

バクティヨーガの六つの修行法

1.神や師への奉仕、自己の明け渡し。衆生への奉仕。

2.神の御名やマントラを唱える。神を瞑想する。

3.師や法友と共に集い、教えを学ぶ。

4.神の御名を歌う。

5.聖典を学ぶ(ギーター、ラーマーヤナ、バーガヴァタなど)。

6.聖地を巡礼する。

 はい。はい、ちょっとずつ具体的な方法論に入ってきたね。バクティヨーガの六つの修行法。
 何度も言うけども、バクティヨーガは実際には――まあ例えば「ヨーガスートラ」の場合は、八段階のヨーガっていうのがあるね。あるいは仏教の場合――まあ、仏教が一番なんかこう理性的にまとめたがる傾向があるんだけど。八正道にしろ、あるいは七科三十七道品とか、あるいは六波羅蜜。あるいはタントラ密教になってくると、まあ非常に厳しいっていうか、細かい修行の階梯がたくさんあると。でもバクティヨーガはあんまりない、そういうのはね。でもその中でも、一応挙げられてるのはこの六つの修行法があります。
 これをパッと軽く読んで、みんな、「ああ、バクティヨーガいいなあ」って思った人がいるかもしれない(笑)。つまりなんか、楽しそうですよね。でもパッて読むと楽しそうだけど、いきなり一番目が大変なんだね。一番目、「神や師への奉仕」。まあ神や師への奉仕、ここはまだいい。うん。「自己の明け渡し」。いきなり一番目でこれですからね(笑)。一番目で自己、つまりその「わたし」っていう感覚を、明け渡さなきゃいけない。
 だからちょっともう一回具体的に言うと、まず一番目、神や師への奉仕。これは分かりやすいね。これはまあもちろん、日本ではそういう言い方はあまりしないけども、実際にはインドヨーガ、あるいはインド仏教もそうですけど、まずはもちろん、師匠に対する奉仕っていうのは第一にくるわけですね。まあ日本の例えば――日本のねえ、日本のどちらかというと宗教的なものよりも、例えば職人の世界、あるいは武道の世界、あるいは、まあもちろん、その他のさまざまな教えの世界ね。これにとても近いね。
 つまりその、教える――前から言ってるけどさ、実は日本人って、無宗教と言いながらヒンドゥー教とかヨーガとか仏教に通ずるセンスが非常にあるんだね。「教える」っていうのは、現代的な教師と生徒のように、知識を与えるもんじゃない。例えば武道とかも結構そういう考えがあるけども。弟子入りしたら、ただシステマティックに修行の仕方を教わるんじゃなくて、もうひたすら師に奉仕して、奉公して――まあ極端な場合、師は何も教えない場合もあるんだね。何も教えないで、弟子が自分のものに身につけていくっていうかな。で、やっていることはただ奉仕だけだったりする。そういう基本的な考えがあるわけだけど。だから実際に現実的に、まず師に対するさまざまな、普通っていうか現実的な意味での奉仕、そしてもちろん神への奉仕。神への奉仕っていうのは、これはもちろん神の化身である師への奉仕でもいいし、あるいはさまざまなかたちのね、祭壇に供物を捧げるとか、あるいは教えを学んで、神の意思と思われることを実行するとか、いろんな意味での神への奉仕がありますと。

 はい、そしてその、もうちょっと全体的なっていうかな、精神的なものとして、自己の明け渡しっていうのがある。これは何度も――例えば『母なる神』の教えとかで学んでるように、まあつまり全人生をかけてね、いかに「わたし」という感覚、あるいは「わたしのもの」という意識、これを、今言った神や師というベクトルの方に全部投げ出せるか、明け渡せるかですね。
 この辺は具体的には、まあこれも、もうすぐ本として出るかもしれませんが、ナーローパの教えね、『ナーローの生涯』とか、あれはもう非常に激しくその辺を説いてる話なわけですけど。
 よくこの明け渡しっていう教えは、バクティ系、もしくは密教系の教えにはよく出てくるわけだけど、まあこれもなんかさらっと過ぎ去られるわけですけど。この明け渡しっていう考えをリアルに本当に実践し理解しようとしたら、当然これは大変ですね。明け渡しだから。自分の中に、もう一パーセントもエゴっていうのを残さずに、神に対して、まあ言ってみれば依りどころとしなくてはいけない。まあそれが言ってみればね、帰依なんだね。
 わたしは最近、何度も言ってるけどね、日本でいうと浄土真宗系の教えね。あれは結構、やっぱり明け渡し系の教えなんですよね。ただ実際に浄土真宗――まあこれもさっき言ったヴィヴェーカーナンダの辛辣な言葉と同じだけども、実際に浄土真宗に関わった人が、どれだけその高位のバクティに目覚めてたかは分からない。まさにほとんどは低位のバクティです。ほとんどは低位のバクティに堕してしまうっていうのは、世の習いなんでそれはしょうがないんだけども。おおもとの、日本でいうとね、浄土真宗的な、つまり親鸞的な投げ出しの教えっていうかな。あれはやっぱり通じるものがある。実際それができてたらね。
 はい。で、その明け渡しっていうものを、日々考えると。まあだからこれは、実際の修行法といっても二十四時間、日々生活を通じて考えなきゃいけないわけですね。

 はい、そして「衆生への奉仕」と。はい、これも簡単に書いてありますが、つまりバクティの一つの定義としては、まあそもそもこの世には至高者しかいらっしゃらないので、この衆生もまた至高者の現われだって考えるわけですね。だから、衆生に奉仕する――これはまたあとの方で細かい内容が出てきますが――衆生に奉仕することは――これはラーマクリシュナも同じことを言っています。同じことっていうか、この教えを一番最初に非常に明確に説いたのはラーマクリシュナなんですね。ラーマクリシュナはあるとき――これは読んだことある人がいるかもしれないけど――あるとき弟子に対して最初、慈悲の教えを説いてたんですね。慈悲の教えを説いてたんだけど、いきなりなんか豹変して、様子がおかしくなって、「なんだと!」みたいに言い出して。つまりその、「この蛆虫のようなね、このけがれた」――まあ一つのそういうムードに入ってたんですね――「このけがれたわれわれのような人間存在が他者を救うだって!? そんなことはお笑いである」と。そうではないんだと。われわれが他者を救うっていうかたちをとってやらせていただいてる、この慈悲行っていうのは、この衆生の形をして現われた、神への奉仕に過ぎないんだと。つまり、これによって利益を得ているのはわたしなんだと。つまり「おれは偉大だから、みんなを救ってやるぞ!」っていうのは、これは勘違いもはなはだしいと。ね。みんなへの奉仕っていうかたちをとらせていただくことで、わたしは至高者に奉仕してるんだと。それによって、このけがれた自分が救われるんだ、ということを、ラーマクリシュナがいきなり語りだした。
 で、このときにほとんどの人は、そこにいたほとんどの信者はそれを理解できなかった。ただ一人、ヴィヴェーカーナンダだけが理解したって言われている。で、ヴィヴェーカーナンダは静かにその場を去って、感動しながらね、「ああ、師は今日なんと素晴らしいバクティの真髄をあらわされたことか」と。で、このときの教えが、のちのヴィヴェーカーナンダの救済活動のもとになってるっていわれてる。つまり、まさにその、衆生の形をして現われた神への奉仕に、この残りの人生を捧げなきゃいけない、っていう、救済の方向に広がっていったわけですね。
 はい、まあだから、ちょっと話を戻しますが、ただ単純に「みんな、カルマ悪いから救ってやるか」じゃなくて、愛する神の現われとしての衆生に奉仕させていただきたい、という気持ちで奉仕する。これがまあ一番目のまた一つのパートですね。

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