「あらわれたものを幻と観想する方法」
◎あらわれたものを幻と観想する方法
【本文】
☆あらわれたものを幻と観想する方法
先に述べたように、サハジャの楽と、空の悟りを、無差別として混ぜ合わせることに熟達した者が、瞑想から立ち上がった時にもその見解を維持しつつ、この世のあらゆるあらわれをマンダラとして観想することによって、すべての主体的・客体的なあらわれが、自然にマンダラとして変容される。
これができる人には、幻についてのこれ以上の教えは必要ない。
しかし瞑想において楽空無差別をまだ経験できないひとは、瞑想から覚めたときに、この世のあらわれは、普通のあらわれとしてあらわれる。
その場合、その普通のあらわれとしてあらわれたすべての世界と衆生を、すべて実体がないものだと見る努力をし、またすべては清浄なマンダラであると見る努力をする。あるいは、本質的に空なるものが清浄なマンダラとしてあらわれたものであると見る努力をする。
グルに教わった仕方によって、そのように正しく見る努力をするならば、まずすべてのあらわれをマンダラであると見ることができるようになる。
次に、そのすべてのマンダラのあらわれは、幻にすぎないと見ることができるようになる。
そして次に、そのすべての幻は大いなる至福であると知ることができる。
瞑想において大楽と空性をよく修習し、瞑想から起き上がった日常においても上記のように修習し、そのようにして日常と瞑想を交互に混ぜ合わせるべきである。
これはさっき言ったことそのままですね。まず実際にね、さっきから言っている最高のサハジャの楽を経験し、それを空の悟りと混ぜ合わせることができたならば、その人は自然に瞑想が終わればすべては曼荼羅、すべては神の遊戯として見えるので、その人にはそれ以上は何かすることはないと。自然にそうなりますよと。
じゃなくて、それがまだできない人の場合は、さっき言ったようにね、すべては神の曼荼羅である、あるいはすべては幻であるっていう見方を繰り返すことによって、まず第一段階で、すべては神の曼荼羅であると見ることができますよと。
で、第二段階で、その曼荼羅はそもそもがすべては幻に過ぎない――こういう認識が生じます。
つまりこれは、さっき言ったように認識が生じるんです。頭で最初は考えているんだけど、心から、「ああ、本当にそうだった」って分かるようになる。
で、その後で、その幻にすぎないこの世界が至福であったと感じる。これが段階的な、まだそれは完全な悟りではないんだが、そのような形ですべては幻っていう見解が進んでいきますよと。
このあいだT君、すべては至福だと感じたんだっけ?
(K)本当!?
(T)ちょっとですよ。少しですけどね。
そういうね、ちょっとの経験っていうのは、結構多くの人があると思うんだね。わたしも何回か聞いたことがある。それはだからまだその世界にちょっと足を踏み入れたような感じね。それが二十四時間ずーっと続くようになる、最終的にね。
つまりもう一回言うよ、段階的にね。すべては曼荼羅であると。そしてすべては幻であったと。最終的には、すべては至福であったと。何を見ても至福だし、あるいは起こる現象すべて至福であったと――こう段階的に気づいていくんだね。
はい、それを実際に行なうには、さっき言ったように瞑想と、それから日常生活におけるものの見方、これを何度も何度も繰り返さなきゃいけないっていうことですね。
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