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随筆マハーバーラタ(2)「ビーシュマの誓い」

 今回のテーマは、(2)「ビーシュマの誓い」です。

 皆さんは、マハーバーラタの登場人物で、誰が一番好きでしょうか。また、誰に一番シンパシーを感じるでしょうか。

 私は、もちろんクリシュナやパーンドゥ兄弟も好きですが、このビーシュマもとても好きな登場人物ですね。

 ビーシュマがビーシュマと呼ばれるようになったこのエピソードも、とても素敵ですね。

 父のために、自分の将来の王権を放棄し、また生涯独身の誓いを立てるビーシュマ。しかもその過程には、なんらの迷いも感じられないんですね。
 「お父さんのために王権を放棄しようかな、どうしようかな」とか、「将来、女性と付き合うことも結婚もできないなんて、つらくないかな、どうしようかな」なんて、考えることすらありません。もう、即決です。

 しかもそれは、まあハッキリ言えば、たとえば人類のためとか、何かとても重大なことのためというわけじゃないですよね。単に、お父さんが好きになった女性と結婚できるようにという(笑)、それだけの理由です。それだけなんですけど、ビーシュマにはそれだけで十分だったんでしょう。愛するお父さんがそれで幸せなら。

 現代人のわれわれは、あれこれと言葉を重ね、論理という名の「利己的知性」を重ねることで、本当に純粋な心や、誠実な心から、かえって離れていってしまっているような気がしますね。

 それから、まだ来ぬ、全く予測不能な未来に対して、期待と恐怖を持ちすぎています。それによって妄想が始まり、「本当に今やるべきこと」をとり逃してしまっているような気がします。

 ここでビーシュマがとった行動が、一般論として正しかったのかどうかは別です。だからみなが同じようなことをする必要はありませんが、しかし少なくともこのときのビーシュマにとっては、正しいことだったんでしょう。

 そしてビーシュマのこのときの行動が、単なる思い付きの無鉄砲さでなかったことは、実際にビーシュマが死ぬまで純潔を守り通したということからも明らかです。

 ラーマクリシュナは、「修行者には、『矢でも鉄砲でも持って来い』というような心構えが必要だ」というようなことを言っています。言い換えればそれは、「覚悟」ですね。何についての覚悟でしょうか。生きるということそのものについての覚悟です。神の僕として、決して神や自分自身に恥ずべきことをせず、何の妥協もなく、正しく生きるのだという「覚悟」です。「希望」ではなく「覚悟」です。

 現代人のわれわれに一番足りないのが、この「覚悟」と「誠実さ」ではないでしょうか。

 マハーバーラタ自体はクシャトリヤ(武士)たちの戦争が大きなテーマになっている物語ですが、それは単に題材に過ぎません。われわれもこのビーシュマのような生き方を、それぞれの人生に当てはめ、「覚悟」と「誠実さ」を土台にすえ、何の妥協もなく、誰に恥じることもなく、正しく生きていきたいですね。

 「希望」と「妥協」は、必要ありません。
 「覚悟」と「誠実さ」です。

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