「究竟次第」
◎究竟次第
次はいよいよ究竟次第ですね。
【本文】
2-2:究竟次第
究竟次第の修習には三つがある。
①:土台
②:道を進む次第
③:結果を現前にするあり方
①:土台
その第一番目の「土台」にはさらに二つがある。
1:心のあり方
2:身体のあり方
「心のあり方」を説くにあたって、その対象となる身体の要点を理解するために、「身体のあり方」が示されるのである。
1:心のあり方
『 「ヘーヴァジュラ・タントラ」の中に、次のように説かれている。
「本質として色・形がなければ、見るものもない
音がなければ聞くものもない
匂いがなければかぐものもない
味がなければ味わうものもない
感触がなければ触れるものもない
心がなければ心所もない」
「根と境と識の相を知ることと
ヨーギニーたちを理解するために、十八界のものとして説く。
自性は本来不生であり、虚でもなく真理でもないというそのごとく
すべては水に映った月のようであると、ヨーギニーによって理解しなさい。」
以上の中で、「心」というのは、識蘊と意処を示す。「心所」というのは、受と想と行の三つの蘊を示す。それによって、意の対象である法を、無自性であると示している。
また、「見るもの」等の言葉によって、色・形を見たり音を聞いたりする主体である人や我等も示しているから、要するに人と法は無我であるという二無我を示している。
つまり、あらゆる自我と、あらゆる法には、自性として成立する本質は無いということである。』
これはちょっと書き方が難しいけど、つまり最後のとこが結論ですけどね。
あらゆる自我と、あらゆる法には、自性として成立する本質は何もありませんよと。
つまりすべては、まず認識の主体である自我というのがあって、それが世界を認識してると。つまり、わたしがわたし以外の対象を、つまり主体が客体を認識してると。で、この主体と客体とそれを繋いでいる認識作用っていうのは、一つでも欠けたら有り得ないよね。だってわたしがいないのに他人ってないじゃないですか。これはこの間も言ったけど、すべては二元性の中にあって、「この世界にわたしはいない。でも他人はいる」っていうのは有り得ない。わたしがいるから相対的なものとして他人がいるんですね。それから認識っていうのがなかったら、わたしも他人も当然ない。その認識によって、そのようなわたしとか他人っていうのが成り立ってるからね。
で、つまり結論から言うと、全部無いんだよと、実は。わたしもなければ他人もないと。そしてそれをつないでいる認識っていうのも、それは幻であると。
また別の言い方をすると、今この瞬間はそのようなものがあるように見えるかもしれない。でもいろいろこう探っていくと、独立自存のものは何もない。つまり、今言ったのはまさにそうだけど、わたしっていうのは他者っていうのを前提としてわたしっていう感覚がある。他者がなくてわたしってあるのかっていう問題があるんだね。すべてはそのような――相互依存とかいうわけだけど――相互依存性の中にあって、何か本質的なものがあるというわけではない。仮定として何となく概念的にあるだけなんだと。
つまりこの究竟次第っていうのは、さっきも言ったように、究極的な真実にたどり着こうとしてるわけですね。で、究極的な真実は、まず最初に言ってしまうと、今言ったようなことになる。つまり、自我というのはすべて存在しない。そして、自我以外のこの世を取り巻くさまざまな現象やさまざまな世界っていうのも、実際はどこにも存在しない。どこにも実体はないんだよ、ということですね。
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