「捺印を押す」
◎捺印を押す
【本文】
『「三界の自性である宮殿。そこにいる生き物は曼陀羅の神々である。」
と説かれており、アーリヤデーヴァもまた、
「これら種々のものを曼陀羅の輪として理解してください。そうするならば、心はいつ、どこに迷乱するというのか。」
と述べられている。
このマントラヤーナにおいては、いかなるものが現われてもそれはイダムの輪であり、経験は大楽である。そして分別は不生であるという捺印を押すことが必要である。
プラーナが中央脈管に入ることによって生じる究竟次第の大楽はこの場合にはないけれども、ヤブ・ユムそのもののような明らかな現われをきわめて堅固に得ることによって、方便と智慧を合一させ、パット字によってボーディチッタが外に漏れることを防ぐことから生じる生起次第の大楽が、実際に多くあることも理解する必要がある。
これが、曼陀羅の輪の生起次第の修習によって心の連続体を成熟させることの要点である。』
まず捺印を押すっていう表現は、これはつまり瞑想によって、さっき言ったすべてが浄土でありわたしは仏陀であるっていう素晴らしい境地を得ましたと。これがだんだんだんだん確定されてきましたと。そしたらさっき言ったように、世界を同じように見るわけだね。これを捺印を押すって言ってる。
つまり、「これもそうだ!」「これもそうだ!」「これもそうだ!」ってはんこを押していくような感じだね。
はい、そしてこの最後に言ってるのは、簡単にいうと、つまり究竟次第っていうのがよりメインの修行になるわけですが、このときの生理学的なことでいうと、われわれの体の真ん中には中央脈管っていう管がありますと。この管って普通は使っていない。修行によってこの管に生命エネルギーがばーっと入ったときに、われわれは素晴らしい大楽というのを感じるんだね。ものすごいエクスタシー。で、それは、まだ生起の段階ではそこまでは生じない。そこまでは生じないけども、今みたいな、世界を神々の浄土と見るというのを繰り返し……そしてボーディチッタが漏れるのを防ぐっていうのは、これは簡単にいうと禁欲するってことです。つまりこの密教の――これはクンダリニーヨーガとかもそうだけど、密教の修行の糧となるのは「性エネルギー」です。つまり言い方を変えると生命力です。だから性的なね、セックスであるとかオナニーであるとかで性エネルギーを漏らすのは非常にもったいない。
六ヨーガの経典には、前も言ったけど、まあこれは男性目線で書いてるわけだけど、「射精は致命的である」とまで書いてある(笑)。わたしこれ若いころに読んでびっくりしたんだけど、わたし中学生ぐらいから修行始めてね、もちろんヨーガっていうのは大体最初のうちから禁欲しなさいとか書いてあるから、あまりそういう性的なことはし過ぎない方がいいんだろうなあ、とは思ってた。それくらいの認識だったんだけど、あるときその六ヨーガの経典読んだら、「射精を一度でもしたら致命的だ」とか書いてあって(笑)、「えっ! そこまで駄目なのか?」と思って。つまりもう物理的な話なんだね。道徳的な話ではなくて、物理的にその性のエネルギーを使って高い境地に昇ろうとしてるから、それを漏らすっていうのは、つまり材料をちょっと減らしちゃうようなものだから、もったいないよと。
ただもちろん実際にはさ、まだエネルギーが上昇してないときは夢精をしてしまったりだとかいろいろあるだろうから、ちょっと漏らしたからって本当にもう「はい、それでもう終わり!」っていうのはないよ。例えば、Nさんが「分かりました。禁欲します!」って言って、それで「ちょっと漏らしてしまいました!」って来たとしたって、「ああ、もう駄目! はい、終了(笑)。あなたは今生解脱できません」とか、そこまではならない。そこまではならないけども、でももったいないっていうのはもったいない。物理的にね。だからそれを漏らさずに性的なエネルギー、生命力を蓄えた上で、さっき言ったようなさまざまな変身の修行をしてると、本当の最終段階の歓喜ではないんだけども、その前段階の素晴らしい歓喜が内側に生じますよというところですね。
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