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「ひとつの意思のもとに」

◎一つの意思のもとに

【本文】
一.すべての行動は、菩提心という一つの意思のもとに行われなければなりません。

 これはね、理想なんだけども、現実を言うとですよ、われわれは三つの意思のもとに生きています。三つの意思というのは何かというと、仏教でいう三毒っていうやつですね。つまり、愛著と嫌悪とそれから迷妄・無智ですね。

 これはすごく簡単に言うと、「好きだ」もしくは「こうしたい」――この執着の心。そして逆に「嫌いだ」と。「あれは嫌だ」――この気持ち。そして三つ目は「どうでもいい」と。「わたしには関係ない、どうでもいい」と。この三つは全てエゴに根ざしてる。

 つまり自分っていう一つの――まあ、自分っていうのは、実際実体が無いわけだけど――自分が大事だっていう強い気持ちがあって、「おれはこれをしたいんだ」と。あるいは「これが好きなんだ」っていうものがものすごい心の奥にある。で、逆に「おれはこれが嫌いなんだ」と。「こんなことはしたくない」、「こんなふうにはなりたくない」、「こんな目に遭いたくない」っていうエゴに基づいた気持ちがある。そして、あまり関心がないものには、もう無関心――という気持ちがある。これがわれわれの心の奥深くにあります。 

 で、普通のわれわれの行動の因は、この三つなんです。つまりどんなに表面的にかっこいいことを言ってても、あるいは愛だとか言ってても、奥の奥を探るとこのエゴっていうのが深く眠ってるんですね。で、このエゴというものを一つの行動原理にしてるんだね。エゴを行動原理にして、われわれは動いています。

 もちろんそれは、いつも言うけども、エゴっていうのは詐欺師みたいなもんで、自分自身をも騙してるんだね。つまり、自分では実際はそうは思っていない。心から優しさで人に接してるように思ってるんだけど、奥の奥を探るとエゴがあるんだね。実際は自分のため、つまり自分のエゴを満たすために動いてる。これがまずは現実としてあります。

 で、そうじゃなくてわれわれが本当に悟りを得て、エゴを滅して菩薩の道を歩き始めたときというのは、今度は行動原理――つまり、われわれがなぜ生きるのか、なぜ行動するのか――の根本が、慈悲であるとか、四無量心であるとか、愛であるとかに変わるんだね、最終的にはね。でもこれは最終的な理想なんです。

 ちょっとまた深いというか難しい話になっちゃうけど、この世には三つのパターンしかない。三つのパターンっていうのは、「エゴで生きる」か、「生きない」か、そして「慈悲で生きる」か――この三つしかない。

 もちろん最後のこの「慈悲で生きる」っていうのは、イコール、バクティ・ヨーガの理想でもある「神の道具となる」ということともイコールだけども。

 「エゴで生きる」か、「生きない」か、「慈悲で生きる」か――つまりどういうことかっていうとね、まず「生きない」っていうことは何なのかっていうと、これは解脱です。つまり、われわれはもともと一切心の働きがストップしてる状態、プレーンな状態にあった、もともとね。この状態がニルヴァーナ――つまり一切が止まった状態だね。この状態に戻ることが、個人的な意味での解脱の境地。でもわれわれはエゴという幻影に巻き込まれ、それによって今輪廻という幻影の世界を作り出し、そこで苦しんだり喜んだりしてるんだね。

 だからこれは、こういうこと言うと「えー!」って思うかもしれないけども、百パーセントエゴなんです。われわれが生きてる理由は、百パーセント、今のところエゴなんです。今のところね。今のところ百パーセントエゴなんです。で、それを、そのエゴを完全に滅した状態――これが二番目に言った「生きない」っていう状態。なぜかというと、エゴがなくなってしまったら、この世に存在する理由がなくなるんです。この世っていうのはエゴによって作り出された幻みたいなもんだから、この世を作ってるエゴがなくなったら、この世に、逆の言い方すると、いれなくなります、その人は。つまりいる理由がなくなる。

 分かるよね、論理的に。エゴによってこの輪廻はできてますよ。じゃあエゴがなくなったら輪廻はなくなってしまう。

 しかし菩薩の道を歩く者っていうのは、自分はもうこの世にいる理由はないんだが、多くの苦しんでる仲間たちのために、わざわざこの世に降りて来て、多くの人を救いたいと――これが仏陀とかの境地。この仏陀の境地っていうのは、エゴはないんだがこの世にいる。これはおかしな話なんです。何でかっていうと、エゴがないとこの世にいれないはずなんです。「エゴがないのになんでいるの? この人」と――っていうことはエゴに替わる動力因が必要なんです。つまりエゴに替わる欲求が必要なんです。これが慈悲なんだね。

 つまり「わたしはこれが好きだから、これをこうしたい」とか、あるいは「あの人嫌いだから、あいつ嫌だ」とかこういう動力因はないんだけど、「わたしは衆生を救いたいんだ!」っていう動力因によって、この世に生まれてきてしまう。これが菩薩とか仏陀の境地だね。で、われわれはここを目指さなきゃいけない。

 ただ現実としてはですよ、現実としてはわれわれはまだ菩薩ごっこの状態です。菩薩ごっこ。でも菩薩ごっこでオッケーなんです。逆にいうと菩薩ごっこを徹底的に極めなきゃいけない。なぜ菩薩ごっこって言ってるかっていうと、まだわれわれの奥深くにあるのは、百パーセントエゴなんです。百パーセントエゴなんだけども、表面からでも慈悲のデータ、慈悲の修習をガーッて入れていくことによって、将来的にわれわれは慈悲とエゴをすり替えることができる。まだできないけどね。将来的にはすり替えられる。よって菩薩ごっこというか、われわれの生き方――つまり自分が今認識できる範囲でいい。さっきも言ったように、エゴっていうのは詐欺師みたいなもんだから、「慈悲だー!」とか言ってても、実は心の奥にはエゴが住んでるってことはいっぱいある。でもそれはそれでいいと。それはそれでいい。自分が認識できる範囲で一生懸命、自分の行動の意図を菩提心とか慈悲に持っていく。

 つまり具体的にどういうことかっていうと、「人々のためになること以外はしない」っていうことです。逆に言うと、「いかにわたしは人々のためになれるか」っていうことを考えながら生きる。

 もちろんここでいう人々のためっていうのは、将来的なこともあるよ。例えば、直接今わたしはみんなに何かやってあげられないけども、自分の修行を進めようと。つまり自分が修行を進めることで、自分が悟りを深めることで、それが将来的にみんなに役に立つだろうと。そういう想いで修行する。あるいは例えば、何気ない会話でくだらない冗談を言い合ってるとしたら、ハッと自分を見つめてね、「これは相手のためになっているだろうか」と。ちょっとでも神の話や、ちょっとでも真理の話をすることによって、相手のためになるようにしようと。つまりすべてを、相手を、周りの者を本当の意味での幸福にいかに近づけるか、そのために自分に何ができるかっていうことを常に考えながら生きる。これがこの第一番目のことですね。

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