「自分の幸福のために他者の不幸を探さない」
◎自分の幸福のために他者の不幸を探さない。
【本文】
⑱自分が幸福になるための手段として、他者の不幸を探しません。
これもね、過去において心当たりがあるかもしれない。つまり人間っていうのは相対的だから、自分と他人をまず比較する。で、その比較の中で自分は幸福だっていう認識を得るんだね。だから逆に言うと、他人の不幸を見ることによって、今の自分の「そうなってない状況」を喜ぶっていうかな、そういうちょっとけがれた心っていうのが人間にはある。
例えば一番いい例としてね、褒められたいって気持ちがある場合ね、「わたしは人から褒められたいんだ」と。でもですよ、さっき言ったけど小学校の一位を決めないとかもそうだけど、褒められたいっていう人――例えばTさんがすごい褒められたいって思ってる場合ね――「Tさん、こうこうこうで素晴らしいですね!」「あ、でもCさんもこうで素晴らしいですね!」「あ、N君もすごい素晴らしいですね」ってなったら、褒められたいって思ってる人はそんなに嬉しくないんです(笑)。なんでかっていうと、比較ができないから。つまり褒められたいっていうことは、みんなはそうじゃなくて自分だけが褒められるっていう状況が欲しいんだね。だから他人と比較して――逆に言うと、みんなはけなされてたほうがいい、極端に言うと。みんなは駄目って言われてる。駄目って言われてる。駄目って言われてる。あなたはいいね――この状況が来ると、「おお、そうですか」と、こうエゴが喜ぶわけだね(笑)。
で、じゃなくて、「みんないいね」「みんないいね」「みんないいね」「あなたもいいね」ってなると、なんかちょっとつまんないと(笑)、ね。
あるいは「みんなは普通だね」「普通だね」「普通だね」、「あなたはいいね」と。これはそうですね、ちょっとエゴが喜ぶ。でもベストではないね。ベストは、「みんなは駄目だ」「みんなはあんなに駄目なのに、あなたは素晴らしいね」と(笑)。こうなるとその褒められたいっていう人は、とても喜ぶ。
まあ、これは褒められたいってパターンだけど、それ以外でも、すべて自分と他人を比較してね、もちろん自分がいい状態になれば、みんながそうでもなく自分がいい状態になったらそれは素晴らしい。自分がまだいい状態になれなかったとしても、比較してまわりが悪い状態だと、エゴは喜ぶんだね。自分と他人の比較において自分がいい状態にあるっていうことが相対的に分かればね。
こういうけがれたエゴの働きがあるので、無意識のうちにわれわれは、他人が自分よりも悪い状態にあることを探すような気持ちがある。だからそれもちゃんと自分をチェックしてそういう気持ちが出ていないか、もし出ていたらそれをシャットアウトするようなことを、日々心掛けなきゃいけないってことですね。
まあ、今言ったことの中間として、悪い状態にあるものを求めるまで行かなくても、同類を求めるっていうのもあるよね(笑)。「おれはこんなに悪い気持ち、悪い状態だ」と。「おまえも悪い状態なんじゃない?」ってね(笑)。「おまえも悪い状態だろ」と。「なあ、おまえも悪い状態になってくれ」とね(笑)。こういう気持ちもあるね。これは中間だね。
本当はそうじゃなくて、「いや、わたしはこういう悪い状態だけど、みんなは本当にもっと幸せになってほしい」と。これがベストなんだけど。
もう一回言うけども、人間の汚い気持ちとして、自分よりも悪いものを見つけて自分は安心したりしたいっていう気持ちがある。で、そこまで行かなくても、同等のものを見つけたいっていう気持ちもある。これはどっちも駄目だね。
じゃなくて、自分はどんな悪い状態でもかまわないと。で、人の幸福を常に願い続ける――ってならなきゃいけないですね。
◎実践すべき教え
はい、十八終わったので、今日はこれで終わりにしますが、まあ何度も言うけど、最初に言ったように――意味分かりましたよね、今日のこの教えっていうのはまさに、やらなきゃ意味がない教えなんだね。あまり学術的に研究しても面白くない教えです、これは(笑)。
例えば「ヨーガ・スートラの八段階の教えとは……」とかね、「六波羅蜜とは……」とか、そういうタイプの教えじゃないよね。ポンポンポンって、「自他の比較をしません」とかね、まさに実践項目がパンパンとこう説かれてる教えなんだね。
ただまあ実践項目が説かれてるといっても、その意味が分からなかったら実践しづらいので、今日学んだことをしっかり理解して、あとはこのエッセンスというか短いワードを覚えておいて、で、それを日常の中で実践していく――ここで初めてこの教えの真価が発揮されるっていう教えですね。
はい、今日はこれで終わりましょう。
(一同)ありがとうございました。
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