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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第四回(1)

2010.11.10 『スートラ・サムッチャヤ』④

 はい、今日は『スートラ・サムッチャヤ』ですね。
 『スートラ・サムッチャヤ』は久しぶりなので、もう一回簡単な説明だけしますが、これはシャーンティデーヴァ――まあ、皆さんはよく知っている『入菩提行論』を書いたシャーンティデーヴァというね、聖者の三部作があるわけですが。その三部作がこの『菩薩道の真髄』っていう本に載ってるわけですが、それがここにある『スートラ・サムッチャヤ』、そして『入菩提行論』、そして『シクシャー・サムッチャヤ』ですね。
 この中で、まあシャーンティデーヴァの書き下ろしは、皆さんにいつも薦めてるこの『入菩提行論』です。ね。で、そうじゃなくて『スートラ・サムッチャヤ』と『シクシャー・サムッチャヤ』は、これはいろんな経典からね、引っ張ってきて、「ここにはこう書いてある、ここにはこう書いてある」っていうそういう論法によって、菩薩道っていうものを説明する経典だね。で、その中でその『シクシャー・サムッチャヤ』っていうのは非常に長いっていうかな、内容がとてもたくさんあるわけですね。で、今日やる『スートラ・サムッチャヤ』は、もうちょっとコンパクトに菩薩道をいろんな経典からのね、引用によってまとめてある本っていうことになりますね。
 はい。で、このね、『スートラ・サムッチャヤ』も『シクシャー・サムッチャヤ』も、なんていうかな、ぜひこれも『入菩提行論』とともに、皆さんにとても薦めたい本だね。というのはこれも、そうですね、例えば『安らぎを見つけるための三部作』とか、ああいうのもそうなんだけど、まあ、読むだけで修行が進む、読むだけで心が浄化されるような本です。ですから、例えばある人にとっては、よくまだ意味が分からないとかね、あるいは人によっては、分かるけどちょっと厳し過ぎるっていう人もいるかもしれない(笑)。ね。そういう人にとっても、とにかく、いいから読むと。ね。とにかく読んでるうちに心が浄化されます。
 実際今ちょっと冗談みたいに言ったけど、ちょっとね、内容的にこの『シクシャー・サムッチャヤ』と『スートラ・サムッチャヤ』は、厳しいです。もう本当に「全く気が抜けない」と。この通り生きようとしたらね(笑)。そうしないと地獄に落ちるぐらいのことが書いてあるわけだから。

(一同笑)

 でも、逆に言うとそれくらいね、われわれは背中をナイフでつつかれないと修行しないから、まあちょうどいいかなと(笑)。ね。だから、これはしっかりと『入菩提行論』とともにね――まあ、だからこの本(『菩薩道の真髄』(ヨーガスクール・カイラス刊))っていうのは、とてもいい本なんだけどね。全部入ってるから。日々ね、『スートラ・サムッチャヤ』および『シクシャー・サムッチャヤ』も、皆さん読むといいと思いますね。
 はい。で、今日は、本の人は十四ページの「菩薩に対する善と悪の大きさ」っていうところからですね。
 はい、じゃあ最初に読んでもらいましょうかね。

【本文】
◎菩薩に対する善と悪の大きさ

 シュラッダーバラーダーナヴァターラームドラー(信力入印法門経)には、こう説かれている。

「三千大千世界にいるすべての衆生を杖で打ったり、刀剣で切りつけたり、すべての財産を奪うことよりも、たった一人の菩薩に対して軽蔑し、怒り、悪心や不愉快な心を生じさせることの方が、はるかにその罪は重い。

 また、多くの小乗の解脱者の命を奪うことよりも、菩薩に対して軽蔑したり、怒ったり、悪口を言ったり、危険にさらしたりすることの方が、はるかにその罪は重い。

 また、十万の世界のすべての衆生を暗闇の中に閉じ込めることよりも、菩薩に背を向け、菩薩に従順でなく、彼を見ようともしないことの方が、はるかにその罪は重い。

 また、ある国のすべての人々を殺し、すべての財産を奪うことよりも、菩薩を非難することの方が、はるかにその罪は重い。」

 また、ニヤターニヤトガティムドラーヴァターラ(入定不定印経)には、こう説かれている。

「たとえば十万の世界のすべての衆生の目が見えなくなったとして、彼らを救うために自分の目を布施することよりも、信を持って菩薩のお顔を見ることの方が、はるかにその功徳は大きい。

 また、たとえば十万の世界のすべての衆生が牢獄に繋がれていたとして、彼らすべてを牢獄から解放することよりも、菩薩に信を持ち、そのお顔を見、讃嘆することの方が、はるかにその功徳は大きい。」

 はい。はい、まず菩薩に対してね、いろんな罪を行なうと、それはものすごく重いんだっていうことがこう、まず繰り返し説かれてるわけですね。で、これについてはまず、前になんかでも言ったけども、まずね、これは基本的な話として皆さんも知ってるだろうけど、仏教における最悪の罪として、「五逆の罪」ってあるんだね。この五逆の罪っていうのは――はい、じゃあ五逆の罪、じゃあ誰か言える人いるかな? じゃあ、五逆の罪を誰に言ってもらいましょうかね? じゃあ、Sさん。一個でもいいですよ、何か。

(S)えっと……なんだっけ?

 なんでもいいよ。

(S)……サンガを侮辱する?

 ん? サンガを侮辱する? ちょっと惜しいね(笑)。「サンガを」までは合ってる。サンガを……?

(S)えっと……サンガを馬鹿にする?

 馬鹿にする(笑)。それはちょっと違うね。
 あの、五逆の罪って、ちょっと最初に言っとくと、五逆の罪っていうのは、この五つの罪のどれか一つでも犯したらならば、いわゆる無間地獄ね――無間地獄っていうのは、地獄の中でも最悪の地獄ですけども、そこに落ちるといわれてる罪なんですね。
 はい、じゃあYさん、なんかあります?

(Y)仏陀の体を傷付ける。

 そうそう、仏陀の体を傷付けるっていうのはあるね。仏陀の体を傷付けると。
 じゃあ、ほか、なんかあるかな? Kさん、なんか分かります?

(K)いや、分からないです。

 分からないです(笑)。

(一同笑)

 潔くていいね。「いや、分からないです」(笑)。
 はい、じゃあ一応言うとね、まず、「自分の父を殺す」と。お父さんを殺すと。二番目が、「お母さんを殺す」と。
 で、三番目が、ちょっとさっき出たサンガ――ここでいうサンガっていうのは、出家した修行者の集まり、または、菩薩の場合は出家してない場合もあるけどね。こういう、例えば皆さんが全員菩薩だとしたら、こういう在家の菩薩の集まりでもいいんですが。そういうその「真理の修行者の集まりを分裂させる」っていうことだね。
 分裂っていうのは、つまりその――これは実際に、お釈迦様の時代もデーヴァダッタっていう悪い弟子がいてね、それをやったって言われてますが。デーヴァダッタの場合は、まだね、未熟なお釈迦様の弟子達の一部を、ちょっとそそのかしてね、つまりその、「お釈迦様はちょっとこういうふうに教えを説いて、こういうふうに戒律を設けてるけど、ちょっとこれでは生ぬるい」と。ね。「わたしの教えの方がみんなを導けるから、これに賛同する者はみんな来い」って言って。で、実際、その未熟な弟子がいっぱいいて、数百人それについてったって話があってね。で、そういうふうに分裂させる。
 まあ、または別のパターンとしては、ちょっと、そうですね、修行者達の中に疑念や、あるいは悪い思いを生じさせて、みんなの仲を悪くするとかね。そういった、修行集団をこう分裂させること、これが三つ目の罪になります。
 で、最後の四、五が問題なんですが、四つ目は今Yさんが言った、「仏陀の体から――まあ正確に言うと、悪意を持って血を流す」と。悪意を持って血を流すっていうのは、つまり当時ね、仏陀には、お釈迦様にはジーヴァカっていう専属のお医者さんがいたんですね。で、まあもともと、インドにはアーユルヴェーダに代表されるインド医学があるんで――例えばインド医学っていうのはさ、もちろん外科もやるしね。チベット医学っていうのはあんまり外科――仏教との絡みで外科とかあんまりやらないらしいんだけど――インド医学は普通に外科もやるし、それから悪い血をね、こう出すとかいうことをやったりするんで、まあ実際に治療のためにはもちろんかまわない。じゃなくて、悪意を持ってですね。悪意をもって仏陀――つまり完成者の体から血を流すと。これが四番目の悪であると。これは地獄に落ちますよと。
 で、五番目が「解脱者を殺す」と。ここでいう解脱者っていうのは、仏陀ではない。つまり仏陀は、今言ったように、殺さないまでも、血を流すだけで地獄行きだから。じゃなくて、解脱者の場合は血を流すのは別に大丈夫なんだけど、殺しちゃったら地獄行きと。
 はい、ここで問題なのはね、最後のこの二つなんです。まあ、だから、最初の三つはちょっと軽く言うけども、まずお父さん、お母さん。これは当然さ、ものすごく縁があって、すごくその恩恵を受けてるわけだね。っていうのは、少なくとも魂の繋がりはないわけだけど、でもこの肉体っていう意味では、われわれの肉体を作ってくれた。そして、まあもちろん、悪いお父さん、お母さんもいるかもしんないけど、一般的には小さいころからね、自分を犠牲にして自分を育ててくれたと。大いなる恩があるわけだね。その大いなる恩がある――つまり、最も近いといえる、最も近いといえる存在を殺すこと、これはね、最悪の罪である――というのが、最初の一番目と二番目ですね。
 で、三番目は、これも分かると思うけど、修行者の集団っていうのがもし存在したならば、そこから――あの、ここで言うのは、さっきから言ってるように、真理の集団ですよ。だから例えば、お坊さんの集まりだったとしても、みんななまぐさ坊主だったら、別に関係ないです。逆に善行になるかもしれない(笑)。変な話だけどね。「なまぐさ坊主の集団を解散させたら善行になりますよ」とかあるかもしれないけど、そうじゃなくて、本当に真剣な真理の菩薩や修行者の集まりが存在したならばですよ、そこから多くの聖者が生まれるかもしれない。あるいは、その集団がもし救済活動をやっていたら、多くの人々が救われるかもしれない。その芽をすべて摘み取ることになるわけだから、当然そのサンガの分裂、聖なるサンガの分裂っていうのは、大悪業になるわけですね。
 で、ここまでは分かると。で、最後の二つが問題なんです。つまり「仏陀から血を流すと無間地獄になる」と。で、「解脱者を殺すと無間地獄になる」と。これはなぜなんだっていう問題があるんだね。つまり、ここはだから、ある意味不平等なわけです。だって、普通の人を殺しても無間地獄には行かない。地獄には行くかもしれないけど。でも、解脱者を殺すと無間地獄に行くと。あるいは仏陀の場合は殺すどころか、悪意を持って血を流す――例えば、ちょっと怒っちゃってね。「仏陀この野郎!」って殴って、で、仏陀の口からタラーッて血が流れたら、もう無間地獄。

(一同笑)

 ――ってこうなるわけだね。これはどういう差があるんだと。ね。つまりその、人のね、生命とか、あるいは肉体っていうものに価値の違いがあるのかと。
 それはね、前にも言ったけど、仏陀とか解脱者っていうものが――いいですか?――透明で光が強いからなんです。透明で光が強い。つまり、簡単に言うと、相手に何かアクションを起こした場合、それは自分に跳ね返ってくるわけだけど、仏陀とか解脱者っていうのは、つまりその自分のけがれをなくしてるので、まるでそれは磨きぬいた鏡のように、非常に透明になっている。つまり、反射力が強いわけだね。
 で、もう一つは、功徳が非常に強いので――この功徳のエネルギーっていうのは、なんていうかな、現象を倍加させるんだね。現象を、大きなかたちで現わす。だから皆さんがもし徳を積んだならば、その力っていうのは、現象を動かす力として働きます。だからね、これも前から言ってるように、一般人でもですよ、一般人で例えば、現象を動かせる人っているよね。例えば、大きな会社の社長とかいますよね。ああいう人はね、徳があるんです。徳があることと、心がきれいなことはまた別ですよ。ね(笑)。すごい悪徳のね、例えばみんなをだますようなことをやっていて、でももう大金持ちであると。ね。あるいは、大きな組織を動かすと。例えばマフィアのボスとかね。大会社のそういう社長とか、政治家とか。ああいう人はね、はっきり言って、徳があるんです。だからスケールが、大きなことが動かせるんだね。小さな徳しかない人は、まあ動かせるけど、スケールが小さかったりする。つまりその、町の中小企業の社長にはなれるかもしれないけどね(笑)。大会社にはなれないとかね。それはすべて徳の力なんだね。でも心の浄化は別です。つまり、心がけがれていて徳の力がある場合、その徳の力によって大きなことが動かせるが、逆にそのけがれも現象化するので、おそらくその人は苦しみをいっぱい味わうことがあるでしょう。ね。これがまあ、一般の場合ね。
 で、もう一回言いますけど、解脱者っていうのは心も浄化されてる。心が透明なわけだね。で、徳がとてもあると。あるいは、心の光が強いと。この場合、例えば解脱者に何かをやった場合、当然その解脱者自体は――まあ、本当にその人が解脱していればだけどね、心が動かない。ね。苦しみがきても別になんとも思わないと。喜びがきても、まあ別に心が動かないという状態があるわけですね。だから、こっちとしては何も動かないんだが、自動的にその透明な、なんの作用も加わらない力が跳ね返るわけだね。で、しかもそれに、もう一回言うけども、光、徳の光っていうのが加わってるから、倍加して跳ね返る。

 だから、これは逆の意味も言えるわけです。よってですよ、よって――ここでね、実はちょっとまた話を戻しますが、もうちょっと経典の言葉にのっとって言うと、ここでいう解脱者っていう言葉は「阿羅漢」なんです。阿羅漢。つまり、「阿羅漢を殺すと無間地獄に落ちる」といわれている。この阿羅漢っていう言葉は、まあパーリ語では「アラハント」、サンスクリット語で「アラハット」っていうわけですが、それを音写してね、日本では「アラハン」とか「アラカン」とか言ったりするけど。これを意味として――これはどういう意味かっていうと、「供養を受ける価値のある魂」っていう意味なんです。供養を受ける価値のある魂。つまり、ね、信者の人とかが供養――お布施とか、供養とかをしますと。ね。で、それを本当の意味で――まあもちろんね、解脱してない修行者に供養をしても、それはそれで徳になるわけだけど――本当の意味で徳になる、つまり信者が供養するだけの価値を持つのは、阿羅漢――まあ、阿羅漢以上の魂であると。なぜかっていうと、まさにそれはさっき言ったことなんです。つまり、その魂は、心が透明であり光が強いと。つまりその魂に布施や供養をしたならば、その返りは半端ないんだね(笑)。ちょっと心を込めて、何かね、「ちょっと私はこれだけしか供養できません。しかし心を込めて供養します」と。それの見返りって言ったら変だけども、その果報っていうのは、計り知れないわけですね。よって供養を受ける、ね、信者とかが供養するに値する魂っていう意味で、阿羅漢、アラハントっていうんですね。
 で、それはつまり逆も言えるわけです。つまり阿羅漢に対して徳を積んだならば、ものすごい倍増して返ってくる。逆に言うと、悪業を積んだならば、ものすごい倍増して返ってくると。で、仏陀っていうのは、その阿羅漢よりも、もうさらに比べものにならないほど心が純粋であって、そして徳が強いと。よって――その倍加された形になるから――阿羅漢は殺すと無間地獄だけど、仏陀の場合は、悪意を持って血を流しただけで無間地獄だと――いうのがあるわけですね。

 はい、これを前提として考えると――で、菩薩っていうのはその中間にいるわけです。中間っていうのは、菩薩っていうのは、いつも言うけども、阿羅漢より上です。阿羅漢より上っていうのは――阿羅漢より上っていうのは、ちょっと言い方が悪いね。小乗の阿羅漢より上です。小乗の阿羅漢より上っていうのは――もう一回ね、ちょっと整理するけども、阿羅漢ってなんですか?――それは、一つの定義としてはね、状態としては、今言った「供養に値する魂」なんだけど、その定義としては、ニルヴァーナへの切符を持った人です。ね。つまり、今はまあ人間として生きてるけど、入ろうと思えば――つまり、死んで「もうこの世はいいや」って思えば、ニルヴァーナに行ける人です。
 つまり、なんていうかな……この世界からあっちの世界、つまり、この三界ね、三界っていうのは、われわれが住んでる欲界、そして素晴らしい美しい色界、そして心だけの世界である無色界と。欲界、色界、無色界ね。まあ、ヨーガっていうか近代的なヨーガ的な言い方をすると、この世と、それからアストラル、そしてコーザルって言い方しますが、この三界を突き抜けて、ニルヴァーナに入る切符を得た魂っていうことになるね。
 じゃあ、菩薩っていうのはなんなのかっていうと、菩薩っていうのは、この解脱を、なんていうかな――仏陀を目指してるわけだけど、でも小乗の解脱は、別に目指してないんです。だからその、ニルヴァーナへの切符があるかどうかは分かんない。ね。しかし菩薩がやろうとしてるのは、「ニルヴァーナには別に入んないですよ」と。「じゃあ何やってるんですか?」「何度も輪廻に生まれ変わって、修行をしてね、で、その自分の修行を進めると同時に、少しでもみんなの役に立って、みんなの修行を進めるお手伝いをしましょう」と。これをやることによって、菩薩っていうのは、ちょっとフィーリングっていうかな、あいまいにしか言えないんだけど――幅を広げるんです。自分の心の器を、どんどんどんどん広げていくんですね。だから、修行のベクトルが違う。いいですか? 
 菩薩っていうのは、幅を広げる。小乗といわれる、つまり自分の解脱だけを狙う人は、幅は小さい。小さいけども、とにかくあっち側に行けと。あっち側への道筋を作ろうとするわけですね。
 この場合、ここに二人の修行者がいて、一人は菩薩であると。でも解脱してないと。一人は小乗の修行者。でも解脱してるって場合がある。この場合、「あ、解脱者。素晴らしい解脱者。解脱者の方が当然、解脱してない人より上じゃないですか?」って考えるかもしれないけど、違うんです。菩薩の方が上なんです。
 これを表わす仏典の話として、こういう有名な話があって。それはあの――これも前に言ったんで、簡単に言うけどね。お釈迦様がその昔――その昔っていうのは、ずーっと前生においてね。あれは名前なんていう名前だったかな?……ちょっと名前忘れちゃったけど。あるその、修行者だったことがあって、そこに……あれはディーパンカラ如来だったかな? つまり、大昔の如来がいたわけだけど。大昔の如来が、その町にやってくることになったんだね。で、その町にやってくることになって、当然その町の人々は、如来がいらっしゃるっていうことで、みんなでもう大歓迎したわけですね。で、大歓迎して、その如来がね、弟子たちとともに、その町にやってきたんだけど、その如来がやってきたときに、人々はね、まあ一つの尊敬を表わす仕草として、自分が着てる服を脱いで、道にパッてこう出したんです。つまり、「わたしたちの服を踏んでください」と。まあ、昔のインドは裸足だからね。裸足で歩いてるから、御足がね、汚れないように「この服の上を歩いてください」って自分の服を出したんだね。で、そこでその如来は歩いてたんだけど、途中から、みんなの信の強さを試そうと思って、神通力によって、道を泥に変えてしまったと。すべてガッて泥にしてしまった。そしたらみんな、服を投げ出さなくなっちゃった。どんだけ信がないんだって感じなんだけど(笑)。まあ多分ちょっと、「あっ、ちょっと」――まあ、瞬間的にね、「ああ、ちょっと汚れちゃう」って思っちゃったんだろうね、やっぱりね。
 で、それを見ていた前生のお釈迦様が、心にこう思った。「みんなはなんて無智なんだ」と。ね。「なすべきことと、なさざるべきことを知らない」と。こういうときにこそ、自分のものを犠牲にして歩いてもらうべきなのに、それなのにみんな何もしないとは、なんて無智なんだ」と。そのお釈迦様の前生のときは、その当時ね、お釈迦様は、なんと生まれたときから一度も髪を切ってなかったらしいんだね。で、頭の上にこう伸びに伸びきった髪の毛を巻いてたんだけど、それをガ―ッてこう外して、すごい長い髪を出して、ベターッて台地にひれ伏してね、バーッて髪を伸ばして、「どうか、ディーパンカラ如来様」と。「わたしのこの髪の毛の上をどうかお通りください」って言ったんだね。
 で、そこでディーパンカラ如来は喜んでね、こう渡るわけだけど。そのときに、弟子達に「お前たちは、この髪の上を渡ってはいけない。これは如来しか渡れない髪だ」って言ったんだね。つまり、これは何を表わしてるのかっていうと、このときの――つまり菩薩、お釈迦様は菩薩だったんだけど、でも、解脱してなかったんですよ。この解脱してない菩薩であるお釈迦様の方が――で、そのディーパンカラの弟子は解脱者だったんです。でも小乗の解脱者だったんです。解脱してないけど菩薩であるお釈迦様の方が、解脱したディーパンカラ如来の弟子よりも、まあ上だったんだね。ちょっと桁が違うっていうか。だから、「この男は、今、解脱の境地にはないが、この持ってる心のスケールっていうか、徳の高さっていうか、心の幅の広さっていうのは、もうお前たちとは比較にならない」と。「だから、お前たちはこの髪の毛を踏むことはできない」って言ったんだね。これが菩薩と、それから小乗の解脱者の差っていうのを表わしてる。
 心の寂静とか、あるいはさっき言ったニルヴァーナに入れるかどうかとか、そういう価値基準で言うならば当然、小乗の解脱者の方が上ですよ。菩薩はまだその切符を持ってないかもしれない。でも、何度も言うけども、存在の価値基準が全然違うんですね。ベクトルが違うっていうかね。
 はい、だから、そういう意味でいうと、この菩薩っていう存在っていうのは――まあ、菩薩にもいろんなレベルがあるからね。それはそのレベルによるだろうけど、本当の意味での高い菩薩っていうのは、まあ小乗の解脱者より上であると。しかしまあ、まだ仏陀には至ってないから、仏陀よりは下であると。それくらいの、さっき言った、心の力とそれから透明度があるわけですね。よって、そのような目で見ると、ここに書いてあることは一つは分かる。

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