「最後の試験」
(終)最後の試験
クリシュナ・バララーマの死と、ヤドゥ族の滅亡という悲報がハスティナープラに届いたとき、パーンドゥ兄弟は、この世に対する何の未練もなくしました。そしてユディシュティラは王位を退き、アルジュナの孫であるパリークシットを新たな王にすると、パーンドゥ兄弟とドラウパディー妃は、町を出て、巡礼の旅に出ました。
諸国の聖地を巡礼して回った後、彼らは最後にヒマラヤに向かいました。一匹の犬が途中からどこからともなくついてきて、一行に加わっていました。
六人と一匹は、最後の聖地であるヒマラヤの頂を目指して、険しい山を苦労して登っていきました。その途上、疲労のために、一人また一人と倒れて死んでいきました。まずドラウパディー、サハデーヴァ、ナクラの三人が亡くなりました。次にアルジュナが、そしてビーマも亡くなりました。
ユディシュティラは、愛する者たちが次々と倒れて死んでいくのを見ましたが、嘆くことなく、晴れやかな気持ちで、前進し続けました。彼の目の前には、真理の太陽が光り輝いていたからです。彼はすでに、何が幻影であり何が実在であるかを知っていたのでした。
犬だけは、さらにユディシュティラにどこまでもついていきました。実はこの犬は、ダルマ神の化身そのものなのでした。この出来事が象徴していることは、「生と死の旅における永遠不変の友は、ただダルマ(真理の法)のみ」ということなのです。
ユディシュティラはついに、聳え立つヒマラヤの頂にたどり着きました。するとそこへインドラ神が、天の馬車に乗って現われました。インドラは言いました。
「弟たちやドラウパディーは、もうとっくについたよ。お前はまだ肉体をしょっているから遅れたのだ。そのままでいいから、わたしの車に乗りなさい。迎えに来たのだ。」
ユディシュティラが言われたとおりにインドラの馬車に乗り込むと、犬も一緒に入り込んできました。インドラは、
「駄目、駄目。天界には犬の住む場所などない。」
と言って、追い払ってしまいました。
するとユディシュティラは、
「では、私の住む場所もないでしょう。この忠実な犬を連れて行けないなら、わたしも行きません。」
と言って、馬車を降りてしまいました。
ダルマ神の化身であるその犬は、ユディシュティラの行動を見て、彼のダルマに対する誠実さを見て取り、満足しました。そして犬はどこかへ消え去りました。
改めてユディシュティラは天の馬車に乗り、天界に到着しました。するとそこには、ドゥルヨーダナがいました。ドゥルヨーダナは天の玉座に座り、周りには女神や天使たちが取り囲んでいます。しかしドラウパディーや弟たちはどこにも見当たりません。
ユディシュティラはあまりの意外さに仰天して言いました。
「ドラウパディーと弟たちはどこにいるのですか? 天に住んでいるはずの彼らは!?
貪欲で心の狭いドゥルヨーダナがここにいるなんて! わたしは彼と同席する気はありません。この男の嫉妬と悪意のために、わたしたち兄弟は友人や親戚を殺すような羽目になったのですよ。罪もないドラウパディーは、この男のために、公衆の面前で散々侮辱されたのですよ。
こんな男は見るのも嫌です。さあ、弟たちがどこにいるか教えてください。彼らのいるところにわたしは行きたいのです。」
ユディシュティラがこう言うと、天上に住むナーラダ聖仙が、いかにも賛成しかねるといった表情で微笑みながら、ユディシュティラにこう言いました。
「偉大なる王よ。そなたの考えは間違っておる。天界に住むわれわれは、悪意というものを抱かないのだ。ドゥルヨーダナに対してそんな言い方をしてはいけない。勇敢なドゥルヨーダナは、クシャトリヤとして彼の使命を全うして、今の境涯を得たのだ。
肉体に属することを心に留め置いて、悪意をかもし出すのは良くない。天の法則にしたがって、ドゥルヨーダナと共にここに住みなさい。天界において、憎しみというものはありえないのだ。もっとも、そなたは人間の肉体を着たままでここへ来たのだから、ここに不適当な感情を持っているのも無理からぬことではあるが。だがユディシュティラよ。そういうものは捨てなさい!」
ユディシュティラは答えました。
「おお、聖者よ。ドゥルヨーダナは善悪の区別も知らぬ大罪人で、善良な人々を苦しめて敵意を怒りを駆り立て、数え切れぬ人々を死に追いやったのですよ。そのような男が天界にいるなんて。
では、もっと輝くすばらしい世界はどこですか? わたしの弟たちやドラウパディーは、。ここより上のところにいるに違いありません。わたしはドラウパディーや弟たちやカルナに会いたくてたまりません。それから友人たちや、わたしのために戦って死んでくれた王族たちみなにも、一刻も早く会いたいのです。ここには誰もいない。わたしはヴィラータ、ドルパダ、シカンディン、ウッタラ王子などにも再会したい。ドラウパディーが産んだかわいい息子たちやアビマンニュにも会いたくてたまりません。でも彼らはここにいない。
犠牲火にささげられるギーのようにわたしのために戦火の中に身を投じ、命をささげてくれた彼らはどこにいるのですか? ここには誰もいないではありませんか。みんなどこにいるのですか? わたしは彼らと同じ場所にいるべきなのです。彼らに会えないなら、天界などにいたくはありません。」
ユディシュティラのこの言葉を聴いて、天使たちが言いました。
「ユディシュティラよ。もし本当に彼らと一緒にいたいなら、今すぐ行かなければなりません。」
こう言うと、天使たちは一人の案内人をつけて、ユディシュティラを送り出しました。
案内人に導かれるままに進んでいくと、だんだんと道は暗くなり、得体の知れぬ薄気味悪いものが浮かんでは消えていきました。血と臓物らしきものでぬるぬるした地面を、ユディシュティラは足を滑らせながら必死に進んでいきました。また、路上には腐った肉や骨や、手足を切り取られた人間の体や、死人の髪の毛なども散らばっていて、いたるところに蛆虫がいました。辺りは耐え難い悪臭に満ちていました。
ユディシュティラは身の毛がよだち、心は混乱しました。頭は様々な考えに悩まされました。
「こんな道をあと一体どれくらい歩かねばならないのか? 一体弟たちはどこにいるのだろうか? 友よ。教えてください。」
こう言うと、案内者は答えました。
「もしお望みなら、天界に戻ってもいいのですよ?」
ユディシュティラは一瞬、戻ろうかな、と思いました。するとそのとき、周囲から聞き覚えのある声が聞こえてきました。その声はすすり泣くように訴えます。
「おお、ダルマ神の子、ユディシュティラよ! 戻らないでください! ほんの少しでもいいから、ここにいてください。あなたがいると、わたしたちの苦しみが軽くなります。あなたと一緒に甘くさわやかな風が入ってきて、とても楽になりました。あなたを見るだけで、わたしたちはどんなに慰められることか。そして苦痛が和らぐことか。いつまでもとどまっていてください。お願いします。戻らないでください。あなたがいると、責め苦にさいなまれていても、わたしたちは楽しいのです。」
聞き覚えのあるその声に対して、ユディシュティラは聞きました。
「おお、哀れな魂たちよ! そこで苦しんでいるのは誰だ?」
「王よ、拙者はカルナだ。」
「俺はビーマだ。」
「わたしはアルジュナです。」
「ドラウパディーです。」
「わたしはナクラです。」
「わたしはサハデーヴァです。」
「僕たちはドラウパディーの息子です。」
このような悲しげな声が、あたり一面から沸き起こり、ユディシュティラの心の痛みは極限に達しました。
「一体彼らがどんな罪を犯したというのだ? ドゥルヨーダナは、どんな善行の報いで天界で胡坐をかいているのだ? 私の身内は地獄に落ちているのに。これは夢なのか? 現実なのか? 私は気が狂ったのだろうか?」
そしてユディシュティラは、案内者に向かって激しい口調で言いました。
「お前は天界へ帰りなさい。私は、弟たちのいるここに住みます。私に対して忠実であったという以外の罪は何一つ犯していないのに、彼らは地獄で責め苦を受けている。私だけが天界に行くことなどできるものですか。私はここに残ります。」
案内者は天界に戻り、この言葉をインドラ神に報告しました。
こうしてユディシュティラは、地獄の苦しみの中に自らの身をおきました。
そうして一日の三十分の一の時間が過ぎたとき、インドラ神とダルマ神がそこに現われました。するとその瞬間、闇は消え、おぞましい景色も消えうせました。地獄の責め苦も、責め苦で苦しむ地獄の住人も、どこにも見当たりません。かぐわしいそよ風が吹く中で、ダルマ神がユディシュティラに微笑んで言いました。
「人間の中で最も賢明な者よ。これは私がお前に課した最後の試験だったのだよ。お前は弟たちのために地獄に残ることを選んだ。見事に合格したね。
王や統治者というものは、死後、短い時間でも、かならず地獄へ落ちなければならないのだ。だからお前も、一日の三十分の一の間だけ、地獄の苦しみを味わったのだよ。
お前の身内は、本当は誰も地獄の責め苦など受けていない。あれはお前を試すための幻影だったのだ。ここは地獄ではない。天界なのだよ。さあ、もう悲しむことはない。」
ダルマ神がこう言い終わると、たちまちユディシュティラは変身しました。人間の心身組織が脱落して、神となったのです。
それとともに、怒りと憎しみは跡形もなく消えてしまいました。そのとき、ユディシュティラは見たのです。自分の愛する弟たちも、またドゥルヨーダナとその弟たちも、みな共に一切の怨憎から脱却して、清浄な神界において、至福のなかに仲良くたたずんでいるのを。
この再会によって、ユディシュティラはついに真の心の平安と、真実の幸福を得たのでした。
「要約・マハーバーラタ」終わり。
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