「ドリタラーシュトラの隠退」
(54)ドリタラーシュトラの隠退
ユディシュティラが晴れて王位についた後も、パーンドゥ兄弟は、息子たちを失って悲嘆にくれているドリタラーシュトラを、この上なく大切に取り扱いました。彼らは何とかしてこの老人を幸福にしようと努力し、自尊心を傷つけるような言動は一切しませんでした。また、ユディシュティラ王は、命令を出す際、必ずドリタラーシュトラに相談をしてからにしました。妻ガーンダーリーにはパーンドゥ兄弟の母クンティーが妹のようにかしずいて優しく世話をし、また王妃ドラウパディーも、ドリタラーシュトラとガンダーリーに奉仕をしました。
このようにして、15年の月日が流れました。
パーンドゥ兄弟はこのようにドリタラーシュトラを尊重し仕えていましたが、時がたつにつれて、気性の荒いビーマが、反抗的な態度を見せるようになってきました。彼は時々ドリタラーシュトラの指図を無視するのでした。また時には、
「あんな正道を踏み外したクル兄弟たちは、死んだほうがかえって親孝行だった」
などと、ドリタラーシュトラに聞こえよがしに言ったりもしました。
ビーマは、ドリタラーシュトラにはうらみはありませんが、彼の息子のドゥルヨーダナやドゥッシャーサナなどのことは、いまだに許すことができないのでした。
このようなビーマの言葉や態度に傷ついたドリタラーシュトラは、徐々に悲しみの重荷に耐え切れなくなっていきました。
ドリタラーシュトラはこっそりと断食をしたり、苦行をしたりしました。ガンダーリーもまた、断食をしたり、いろいろな方法でわざと不自由な生活をして、苦行の代わりにしていました。
そしてあるときドリタラーシュトラは、ユディシュティラ王を呼んで、こう言いました。
「ユディシュティラよ。お前を祝福する。私はお前の庇護の下で、15年の間、幸福に暮らしてきた。本当によくしてくれたね。私は希望したことはすべてかなえてもらった。
私のひどい息子たちは、ドラウパディーに許しがたい乱暴を加え、正当な領地からお前たちを追い出し、その大罪のために自滅したのだよ。でも彼らは最後は勇敢に戦って使命を全うしたのだから、勇者たちの住む天界に行っていることだろう。
さて、そろそろ私も、ガンダーリーとともに、次の段階に進むときがきた。聖典に書いてあることを、お前も知っているだろう。私はもう年をとった。そろそろ森へ行かなければならぬ。この立派な衣装を脱いで、粗末なぼろ布をまとわねばな。
私は今から森に入って、お前たちの幸福を願いながら暮らしたいのだよ。どうか私の願いを聞き入れておくれ。」
これを聞いて、しかもドリタラーシュトラとガンダーリーがすでにこっそりと苦行を行なっていたことを知って、ユディシュティラは非常に驚きました。
「私は少しも知りませんでした。あなたが断食をなさったり、土の上にじかに寝たりして肉体を苦行浄化しておられたことを。侍者にかしずかれて豊かに楽しく暮らしているものだとばかり思っておりました。
息子たちを失ったあなたのお悲しみは、どんなことをしてもお慰めすることはできなかったのですね。私は国王の地位に、喜びも興味も持てないのです。私は罪びとです。欲と野心に毒されて、こういうことになりました。どうか、お望みならばあなたが王の役目を引き受けて、国民の面倒をみてやってください。森へ行くべきなのは私なのです。私に早くこの過ちを終結させてください。どうぞ私を助けてください。私は王ではない。王はあなたです。
はっきり申し上げますが、ドゥルヨーダナに対する私の怒りは、すでに過去のものです。もう痕跡さえありません。私たちの心を混乱させ、私たちに制御できない事件を次々に引き起こしたのは、宿命のなせる業だったのです。
私たち兄弟は、ドゥルヨーダナたちと同様に、あなたの子供です。ガンダーリー妃は私にとって、クンティー妃と同じように母親です。私は二人を同じように尊敬し、愛情を持っています。私はこの二人の子供なのです。
もしどうしてもあなた方が森へ行くとおっしゃるなら、私もおともして森でお世話をさせていただきましょう。私をここにひとり残して、あなた方だけ森へ去られたら、私が王として国を治めていることに、何の意味もなくなります。
私はあなたにひれ伏してお願いいたします。どうか、私たちの犯した罪をお許しください。あなたにお仕えさせて頂く事で、私は真に喜びを感じ、心が安らぐのです。どうかその機会と特権を私に恵んでください。私を捨てないでください。」
ユディシュティラのこの真摯な言葉を聴いて、ドリタラーシュトラは深く感動しましたが、それでもきっぱりとこう言いました。
「クンティーのかわいい息子よ。わたしはもう決心したのだ。わたしは森へ入って苦行する。今はそのほかに心の安らぐ道はない。
ずいぶん長い間お世話になったね。お前とお前の周りの人々は、真実よく尽くしてくれた。どうか、わたしのこの最後の希望をかなえてほしい。森へ行かせておくれ。」
合掌して身を震わせて立っているユディシュティラに向かってこう言い終わると、ドリタラーシュトラはヴィドラとクリパに向き直って言いました。
「お前たちからも頼む。ユディシュティラを慰めて、わたしの頼みを聞き届けてもらってくれ。もうわたしは森へ行く決心をしているのだ。
私はもう話せない。喉がひりひりするのだ。多分年のせいだと思うが・・・少ししゃべりすぎたようだ。疲れたよ。」
こう言うと、ドリタラーシュトラはぐったりとガンダーリーに寄りかかり、そのまま気を失ってしまいました。
ユディシュティラは、この高貴な老人の疲労ぶりを見るに耐えませんでした。ドリタラーシュトラはもともと象のような強靭な筋肉の持ち主で、かつてはビーマの身代わりとなった鉄の人形を抱きしめて粉々にしたほどの力があったのです。それがいまやこんなにもやせ衰えて、骨と皮ばかりになり、見るも哀れな姿で妻に寄りかかっているのです。
ユディシュティラは、自分を責めました。
「わたしが彼をこんなふうにしたのだろうか? わたしは惨めな、値打ちのない人間だ。ダルマを知らず、知性に欠けている。わたしはいったい今まで何を学んできたのだろう!?」
ユディシュティラはドリタラーシュトラの体に水をかけ、優しく体をさすりました。やがてドリタラーシュトラは意識を取り戻すと、ユディシュティラを抱き寄せて、小さな声でつぶやきました。
「ありがとう、とても気持ちがいいよ。わたしは幸せだ。」
ちょうどそのとき、聖者ヴィヤーサが部屋に入ってきました。事情を聞くと、聖者はユディシュティラにこう言いました。
「ドリタラーシュトラの望むとおりにしてあげることじゃ。彼を森に行かせてあげなさい。もう十分に年をとったし、息子たちにも先立たれている。これ以上この世の苦しみに耐えることは無理というもの。神の恵みによって悟りを開いたガンダーリーも、これまで雄雄しく自己の苦しみ・悲しみに耐えてきた。彼らの行く手をさえぎってはならぬ。
森の生活に恋い焦がれて、愚痴をこぼしながらここで死ぬなど、そんな死に方をドリタラーシュトラにさせてはいけない。この世のわずらわしさから解放され、薫り高い森の花々を友とする生活をさせてあげなさい。
王となった人のダルマは、戦争で死ぬか、あるいは隠退して森で死ぬかのどちらかなのだ。いまや悪行消滅の懺悔苦行をするときが来たのじゃ。心から賛意を表して、行かせてあげなさい。そうして彼の心の中から、怒り・憎しみを完全に消滅させてあげなさい。」
このように聖者に助言され、ついにユディシュティラは、ドリタラーシュトラとガンダーリーが森へ隠退することに同意したのでした。
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