修行の勧め
少なくとも私が今までヨーガや仏教の修行によって得たものとは、大変な肉体的な快楽と軽快さ、そして精神的なエクスタシー、喜び、明るさ、肯定的意識といった、ポジティブなものばかりだ。
そして逆に、心身の苦悩は極端に減っていく。
それは観念論でも思い込みでもなく、ある意味物理的ともいえるプロセスで、心身がそのように変わっていくのだ。
人間は誰でも幸せを求め、苦悩を避けたいと思う。
だとしたら、もし人々が、ヨーガ等の修行によって得る境地を仮にお試し体験できたとしたら(不可能だけど)--たぶん、現世を捨てて全力で修行するだろう。
だって、人々がお金を稼ぎたいと思うのも、そのお金が多くの快楽と、苦悩の除去を与えてくれるという期待があるからでしょう。
異性を得たいと思うのも、異性が幸福と快楽を与えてくれ、さびしさなどの苦悩を除去してくれるという期待があるからでしょう。
地位や名誉や成功等もそうでしょう。
しかしヨーガ等の修行が与える幸福と、苦悩の除去は、それらとは比べ物にならない大変な幸福であり、大変な除去なんだ。
それをみんな知らないだけでね、それを知ったら、きっとみんな修行するよ(笑)。
だから修行者っていうのは、欲張りなんだろうね(笑)。私は小さいころ、よく自分の人生をシュミレートして、「なにをどうやっても、なんかつまんねえなあ」って思ってたんだ(笑)。どんなに大成功する人生を描いても、なんかいまいちだ。それは私の潜在意識が、修行によって得る、もっと大きな幸福を知っていたからなんだろうね。
もちろん、修行者にもいろんなタイプがいるだろう。でも私の修行はそうだったね。修行が進むたびに、その歓喜や至福の感覚は研ぎ澄まされていったんだ。
もちろん違うパターンもあるだろうけどね。でも修行ってのは結局、自己利益なんだよ。
でもね、ここにパラドックスがあるわけだけど、最高の自己利益の方法は、「自己を捨てて他のために生きる」ということなんだ。
「おお、君は自己が幸福になりたいのか。よし、その方法を教えよう。自己を捨てて、他のために生きなさい」とね、こういうことなんだ(笑)。
これは屁理屈じゃなくてね、道徳論でもなくてね、本当にそうなんだよ。
私のヨーガ教室では、修行の最後に、いつも、慈悲の瞑想を行なわせています。それは自分の修行で得た神聖なエネルギー、そして自分の中の幸福の要素をすべて他者に差し出し、他者の持つ苦悩をすべて自分が引き受けるというイメージを繰り返す瞑想だね。
この瞑想によって、多くの人が、自分の心の苦悩を弱め、幸福感を増していっている。
なぜなら「エゴ」こそが、自分の苦悩の最大の原因だからだ。
だから自己の幸福を願うなら、自己を捨てなきゃいけないんだ。
まあこれは一つの要素だけどね、結局仏教もヨーガも、単にストイックなわけじゃない。それどころか、唯一最上最高の幸福を得る近道を常に提示してるんだけど、幸福とは何かということを常に勘違いしている人々にはね、そんなこと言われても、わけがわからないんだね(笑)。
だから最初はとにかく先人を信じ、実践してみることが大事だね。
できるだけ自己を捨て、他者のために生きる。
私はこの瞑想と実践を始めたころ、倒れるほどのエクスタシーに襲われました。
そしてそういったことだけではなく、この不浄の肉体を浄化するヨーガ行、気の流れとその流れる道を浄化するヨーガ行、あるいはもっと高度な心身のシステムがあるわけだけど、それらを覚醒させ、人間の神秘の本質を目覚めさせていく実質的修行。あるいは、神への純粋な信仰心を磨くバクティ・ヨーガや、純粋な智性を磨くジュニャーナ・ヨーガ、そして日々の生活を最大の修行の場とするカルマ・ヨーガ。
それらを真剣に行なうことで生じる、得られるものは言葉にできない。
もちろん、私はまだ完成者ではない。いや、それどころか、すべてのヨーガや仏教の修行段階のうち、百分の一も終わっていないのではないかと思う。
それでもね、私は、どんな大金持ちよりも、どんなに現世で成功したといわれる人よりも、自分の人生は幸せで恵まれていると思うんだ。
まあ、私はそういう結果以前に、修行そのものが好きだっていうのもあるんだけどね(笑)。自己を極め、真実を極めていこうという道を歩くこと自体が好きなんだな。
でもそれだけじゃなくて、今日話したかったのは、本当にヨーガ等の修行で得る幸福感、エクスタシー、苦悩のなさはね、すばらしいんだよと。どんなセックス、薬物、食物、地位や名誉や愛情の喜びもかなわないよ。それは比較にならない。
だからみんな修行すればいいのにな、って思うんだ(笑)。