「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(8)
【本文】
また、プラセーナジットパリプリッチャー(プラセーナジット王所問経)にも、次のように説かれている。
「大王よ、汝は一筋に法を求めている。
大王よ、汝がコーサラ国の人々の幸福や利益や安楽のために苦慮しているように、すべての世界の衆生の幸福や利益や安楽のため、衆生の苦しみを救ったり、彼らの解脱や、安息や、ニルヴァーナのために苦慮しなさい。
そして汝は全智を得、ブッダのすべての法をことごとく完成するための無上の正覚を求めよ。
大王よ、素晴らしいことだ。このジェータ林において、無量百千の神々が、その身が輝くこともなく、座して崇拝するのである。彼らはまた、汝と同様に最高の正覚を崇拝し、信じ、求め、祝福し、賞賛し、ヴァジュラを讃辞し、随喜(ずいき)する。彼らは心から喜び、信が生じ、ダルマに従うようになる。なぜなら、菩提心を持つ人の心には、信が生じ、そのような人が生じるところには、無量百千のブッダと法輪に囲まれた無量百千の聖なるサンガが、無量百千も相続し、ガンガーの砂の数ほどの多くのブッダが出現し、法輪に囲まれ、聖なるサンガの相続は尽きることがない。それゆえに、菩提心を求めるのである。」
はい。まず『プラセーナジットパリプリッチャー』とありますが、「プラセーナジット」っていうのは、パーリ語ではね、パセーナディっていうんですが、パセーナディっていうのは、お釈迦様に帰依をした王様の一人だね。まあここではその王様に対してお釈迦様が――まあ王様なんでね、その王様に合ったたとえを言ってるわけですが――つまり、王様っていうのは――まあもちろん正しい王様の場合だけどね、正しい王様は、自分の国の民が安楽であるように、幸福であるように、すごく苦慮するわけだね。「ああ、うちの民は幸福にしてるかな?」と。「さあ、こういうところで苦しんでないかな?」っていうことを、常に気を配っている。それは普通は、その王様の自分の国だけをそう思ってるわけだけど、それと同じように全衆生、全生命を思いなさいと。
まあわれわれはだから、王様ではないので、まあよく出るたとえみたいにね、一人子のように、あるいは家族のように、本当に愛する自分が養わなきゃいけない子供たちのような目で、衆生を見るんだね。そういう目で見て、「あ、みんな苦しんでないかな?」「本当にみんな真の幸福に向かっているかな?」って思いで、衆生を見なさいっていうことですね。
はい。そして菩提心の素晴らしさが語られてるわけですが、ここで後半のところの話をちょっとすると、菩提心を持つ素晴らしさっていうのは、さっきも言ったように、「どんな仏陀も菩提心を持ったことから始まった」っていうのがあるわけだけど、それを逆に考えると、今ここでね、仮にここにいる二十人の人がですよ、今、菩提心を持ったとしたら、将来――まあどれくらい将来か分かんないけども、少なくとも二十人の仏陀は登場するっていうことです。ね。そしてその過程において、過程及び到達したあと、過程および到達したあとにおいて、それに付随するさまざまな――まあここでは「サンガ」とか「法輪」とか書いてありますが――さまざまな流れが生じます。
どういうことかっていうと、まあ例えばHさんがいたとして、Hさんが菩提心を持ったと。菩提心を持って修行をし続ける限り、さっきも言ったように、中途半端で終われない。つまり仏陀になるまでは、Hさんは何度も生まれ変わって修行し続ける。で、そのうちにHさんが、まだ仏陀ではないんだけども、当然ある程度の悟りを得て、周りに教えを説き始める。そうすると当然、まだ教えに縁がなかった人がだんだん目覚め始める。さらにもっといくとHさんは、まだ仏陀ではないが、偉大なある段階の師になって、そして多くの弟子を持つと。で、そこで一つ――まあこれはサンガっていうんですが――聖なる修行者の集団ができる。で、またHさんは、まだ仏陀の境地に達してないから、また生まれ変わっていろんなとこで修行する。そのたびにHさんっていう一人の存在が、いろんな世界にたくさんの修行者や、たくさんの教えの集まりを生んでいくわけだね。で、そして最終的にはHさん仏陀になりましたと。で、仏陀になったら当然お釈迦様みたいに、偉大な弟子をたくさん持ったり、あるいは仏国土っていって――つまりHさんの仏国土ってできるんだね(笑)。仏陀Hの……(笑)。
(一同笑)
仏陀Hの仏国土ができて、そこで縁のある衆生たちが一生懸命修行に励んだり、救済のお手伝いをしたりする。
つまり、これはじゃあ、素晴らしいですねと。Hさん一人のきっかけによって、多くの人が救われ、多くの人が修行の道に入り、多くの菩薩が誕生したと。でもそれは、Hさんが一番最初にこういう勉強会とか出て、「ああ、菩提心を持とう」と思ったところから始まったんです。で、今、Hさんのことだけ言ったけども、それがもし、ここにいる二十人全員の将来がそうなるとしたら、それは素晴らしいことだよね。つまりすべてのそういった、善なる広がりっていうか、それが菩提心を持った――一人の人がね、菩提心を持った、その瞬間から始まる。
だからそうじゃなくて、何度も言うけども、個人的な、例えば安楽だけを求める修行は、そうはいかないわけですね。まずさっきから言ってるように、限界があるので、ある段階までしかいかないっていうのもあるし、それから別にみんなのこと考えないから、人々に教えも説かないし、弟子に教えを与えたりもしないし、単純に自分――だから例えば、その人も生まれ変わって修行するとしてもね、今生、山に入って誰とも会わないで修行して死んだと。次も生まれ変わっても山に入ります(笑)。人知れず、一人の聖者が誕生していくんだけど、地球は何にも変わらないと(笑)。まあちょっと、ヴァイブレーションは良くなるだろうね。その聖なる存在でヴァイブレーションは良くなるだろうけど、まあ、その人が菩提心を持ってないと、心の大きさもやっぱり狭いから、そんななんか、大きな影響を与えるようなヴァイブレーションも持ってるわけではないと。だからそういうタイプの人が生まれ変わって修行しても、あまり影響はない。
でも、もう一回言うけど、菩提心を持って、その人が突き進む限りは、多くのサンガね、つまり修行者の集まりや、菩薩の集まりや偉大な法の広まりが、あちこちでどんどん広がっていくんだっていう教えですね。
はい。では次いきましょう。