「煩悩の田地」
◎煩悩の田地
【本文】
『アヴィディヤー クシェートラムッタレーシャーン プラスプタ・タヌ・ヴィッチンノーダーラーナーム
無明が、煩悩を生み出す田地である。他の諸煩悩は眠り込んだり、弱まったり、中断したり、増大したりするが、無明は常にその田地として存在する。』
まあ、これは分かりますね。これは前から言ってるけども、『ヨーガ・スートラ』ってね、まさに仏教なんです。ちゃんと読むとね。仏教の教義と同じです、ほとんど。ここはだから仏教の十二縁起の法とかを理解してるとよく分かる。
十二縁起の法っていうのは、まず無明がスタートです。つまり無明っていうのは、すごく単純な言い方してしまえば、真理が見えない状態。真理が見えない状態によって、その後の展開がバーッて始まるわけですね。
逆に明――無明の逆は明っていうわけですが、これはサンスクリットで「ヴィディヤー」っていって、チベットでは「リクパ」と言ってるね。チベット仏教ではこのリクパの境地ってすごく強調するわけだけど――つまり、「無明がなくなって悟りの光がすべてを照らしてる状態」っていうのがわれわれの良い状態なんだけど、そうじゃなくて、われわれの悟りの光が闇に覆われてる状態、これを無明といいます。で、われわれは――この無明っていうのはこの田地と表現されていますが、根本として常にあるんだね。つまり修行して悟って解脱しない限りはこの無明から抜けられない。で、この無明っていうベースの上に、他の四つの煩悩が――これは分かるよね? あるときはすごくある物に執着するけども、そうでないときもあったりとか。こうやってこう強くなったり、弱まったりするわけだけど、無明自体はそのすべてのベースとして常にあるんだよってことだね。