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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(8)

                    

 親愛なるXへ

 わたしはあなたがこのあいだの手紙の趣旨を理解していないのではないかと思います。わたしはあなたに、どんな霊性の修行もしてはいけないと言っているのではないのです。言いたかったのはこういうことです。神は恩寵なしには、霊性の修行を通じて手に入れることはできないのです。(そうでなければ、彼は市場の商品のようなものになってしまうでしょう)――これはあらゆる経典や輝ける魂の結論です。そしてあなたがサーダナを自慢に思うことがありませんように。あなた自身を彼に完全に明け渡してください。あなたが心の落ち着きのなさのために霊性の道から外れることがなければ、恐れる必要はないのです。

 シュリー・ラーマクリシュナはよくこうおっしゃっていました。「あなたが西へ行けば行くほど、東からは遠ざかる。」あなたが信仰の修行に集中すればするほど、世俗的な感情はあなたの心から消えていきます。まだ来ていないことを想像し心配を招いて、何かよいことがあるでしょうか? 死は未来において避けることができないものであるなら、誰が死への恐れから自殺するでしょうか? もしあなたが仮定的な障害について常に心配するならば、あなたの働きは苦しいものとなり、何も得られないでしょう。
 このような信を持ってください。「わたしは神に帰依している。わたしの障害や問題はすべて消えうせる。どうしてわたしに危険があるだろうか?」
 あなたが弱かろうが強かろうが、神に明け渡すしかないのです。わたしはこのことをよく知っています。そして、あなたが何か知っていることがあるならば、どうかそれをやってみてください。
 「もし人が神に一歩近づくなら、神は彼に十歩近づいてくださる。」――これはわたしが生まれてこの方ずっと聞いてきたことであり、そしてある程度経験したことでもあります。しかし、あなたは反対のことを書いており、そしてそれは正しいことではありません。神は全智のお方で、われわれの内も外も知っておられます。もしあなたがこのことに信を持てないなら、わたしにはあなたがどうして霊性の修行を行なえるのか理解できません。
 休みなくあなたの心を神に向け、他の何ものにも向けてはいけません――このことを注意深く観察するのです。先祖代々生まれ持っての農夫は、畑を耕すことによってのみ生活し、他のどんな商売もしません。

 わたしは他の誰を呼ぼうか、おお、シャーマ。
 子供は母だけを呼ぶのです。
 わたしはそれぞれみんなを母と呼ぶような
 そんな子供ではないのです。
 もし母が子供のお尻をたたくなら、
 子供は「お母さん、お母さん」と泣き、 
 たとえ彼は突き飛ばされても、
 それでもやはり彼は「お母さん。お母さん」と泣くのです。

 この態度はわたしの好みに合っています。

 あなたはこう尋ねましたね。「霊性の修行を行なうことは人の力によるものではないのですか?」わたしの答えはこうです。「それは人の力の及ぶ範囲内にはありません。人がこのことを理解するとき、自己の明け渡しと恩寵以外に道がないことを見出します。
 あなたはとても矛盾したことを書いています。じっくりと考えてください。帆を広げることとは、霊性の修行を行ない続け、他の何もしないことを意味しています。もしあなたの心が神の顔を見たがらないないなら、耳をねじるか、または何か厳しい方法であなた自身を罰しなさい。アビヤーサ、または修習とは、理想を心に繰り返し置こうとすることです。この試みは、信と愛を持って行なわれなければなりません。人から離れて暮らすと、人は自分の心をよく見ることができ、それによって自分の心をコントロールための方法を適用することが容易になります。サンニャーサ(放棄の生活)とは神に自己を完全に明け渡すことを意味するのであって、内的な偽善を意味するのではありません。これが人間生活の最高の目的なのです。

                                あなたのもの、
                                トゥリヤーナンダ

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