「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(1)
2012.06.20 至高のバクティ③
はい、今日は『至高のバクティ』の一番最初の「バクティ」というところの続きですね。今日は六ページの「バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている」というところね。はい、じゃあ読んでいきましょうかね……読んでいきましょうかっていうか、わたし今言っちゃったけどね(笑)。じゃ、いいや(笑)
(一同笑)
【本文】
バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。
なぜなら、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから。
はい、これは読んだ通りですが――これはいつも言っていることですね。
ヨーガにはいろんなもちろんヨーガがあるよね。バクティヨーガ、カルマヨーガ、そしてジュニャーナヨーガ、ラージャヨーガ。まあここに出ていないので言うと、クンダリニーヨーガね。あるいはハタヨーガ、あるいはタントラヨーガ。いろんなタイプの――まあつまりヨーガイコール真実への到達、あるいは悟りへの道ですね。その方法論っていうのはたくさんある。そのインドの伝統においては、今言ったようないくつかのパターンがありますと。
で、その中でもバクティヨーガが最高だと。「なぜならば、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから」と。
ちょっと話がずれるけど、今ネットとかにもたまに載っけてますが、ヴィヴェーカーナンダがね、アメリカで一部の、選ばれたというか中心的な十二人の弟子だけを集めて、ある別荘地でね、セミナーというかな、合宿みたいのをやったことがあって。そこにおけるヴィヴェーカーナンダの説法をまとめたものが英語で出てて、それを今うちで翻訳してまとめているんですけども――で、その中でこのちょうど『ナーラダバクティスートラ』を題材に、ヴィヴェーカーナンダが説いているところがありますね。ただヴィヴェーカーナンダの説法ってもともとそうなんだけど、特にこのときは、中心的な弟子向けの説法だから、あまりなんて言うかな――まあ例えば理路整然と経典の一つ一つを解説していくっていうタイプじゃないんですね。かなり内側からバーッと出てくるものを、ストレートに表現するような感じなんだね。
だからいつも言っているけどさ、ヴィヴェーカーナンダってスピーカー、つまりしゃべる力というかな、これはすごい。だから多くの人を感化させるっていうか。もう聞いただけで、みんなハッと目覚めてしまうようなところがあったわけだけど、文章にするとちょっと「あれ?」っていう感じがあるんだね(笑)。でもそれが彼の――ヴィヴェーカーナンダの素晴らしいところというか。つまりもうストレートに、自分の中の真理と感応する部分を表現してたんでしょうね。だからこの『ナーラダバクティスートラ』をちょうどヴィヴェーカーナンダが解説してたから、これは今日の勉強会に役立つかなと思って見たんだけど、全く関係なかった(笑)。
(一同笑)
でも、関係なかったけども、ストレートには関係ないけど、ただ、エッセンスはとても素晴らしいのものがたくさんある。それはまたネットとかにアップするし、のちに本にもなるかもしれないので、それはまた学んで欲しいんですが。
その中でちょっと一つ二つ挙げると、例えばバクティというのはもちろん愛のヨーガ、神への愛のヨーガなわけだけど、愛っていうものは三つあると。まあ一般にいう愛っていうのは三つあると。
一つは「相手に要求するが自分は何もしない愛」――これは世間でよくある愛だね。「あなた、わたしのために何でしてくれないの?」と。ね(笑)。「あなた、こういうことしてくれないと……」って要求するけど、自分は相手に尽くさない愛ですね。
二番目の愛がいわゆる「ギブアンドテイクの愛」。つまり「わたしはあなたに尽くすから、あなたもこれをやって欲しい」と。「わたしも愛するからあなたも愛して欲しい」と。このギブアンドテイクの愛ですね。
これはもちろん宗教的、つまり信仰の世界でもあり得ることなんですね。信仰の世界でも、一番目は結構多いと思います。つまり神に要求ばかりして、自分では何も捧げないっていうかな。口では「ああ神よ」と、「わたしは捧げます」とか言ってるんだけど、実際にはエゴの一パーセントも捧げない。あるいは自分の持っているものをすごく大事にして、あるいは希望や恐怖――自分がね――自分の頭の中での希望や恐怖でいっぱいで、全く神に明け渡していないと。で、結果だけを求めるタイプね。これは全然駄目だと。二番目のギブアンドテイク、これはまだマシだけど、でもこれもバクティの世界じゃないんだね。ギブアンドテイクっていうのは途中段階まではいいんです。途中段階までは、神への信仰というのは取引のように見えるからね。「わたしはエゴを出しますから悟りをください」とかね。つまり自分のエゴに対する、なんていうかな、まだ自分がエゴに対して強くない場合ね――どうしても今のままだとただエゴだらけになってしまうと。こういうときに自分のエゴを抑え込む方法として、「いや、ここでこうすれば与えられるよ」みたいな感じで、こういう意味でのギブアンドテイクって、途中まではいいんです。でも、これもまだやっぱりけがれなんだね。
じゃなくて最高の愛は、もちろん分かると思うけど、ただ捧げる。ただ与えると。一方的に与える愛ですね。これはもちろん、今バクティの話だけども、菩薩行も同じだね。菩薩行の場合は、そのベクトルが神ではなくて衆生になるわけですけど。衆生に対してももちろん見返りは求めない。つまり、もちろん現世的な見返りは求めないのは当たり前だけど、例えば「わたしがこのように菩薩行によって慈悲を振りまくことによってわたしの修行が進むんだ!」っていうのもない。ただ単純に「本当にみんな幸福になって欲しい」と。「本当にみんな悟ってほしい」と。「みんなが苦しんでいるのが本当にわたしは耐えられない」と。だからできるだけ早くみんなが――だからここでね、いつも言っているマンジュシュリー菩薩のような態度も生まれるわけですね。だからこれは仮の話だけども、仮の話として、自分が頑張って、みんながどんどん進んで自分が全然駄目だったとしても、全くそれは眼中にないって言うか。「それがもし神の意思ならば、喜んでわたしはその役割を負いましょう」と。もちろん、みんなに手助けしたら自分がボーンと悟りが進んだと。これはこれでオッケーなんだけどね。オッケーなんだけど、別にそれを求めてないっていうか、最初からね。ただ奉仕させていただく、みんなの修行の手伝いをさせていただくことが喜びだと。これが菩薩行の場合ですね。
神へのバクティも同じで――何回かね、これは言っているかもしれないけど、もう完全な一方的な愛なんです。だからちょっと誤解を恐れずに言うと、片想い的な愛です。片想い的な愛(笑)。片想い的な愛っていうのは、なんていうかな……最初から、わたしの期待通りに神がわたしに何かやってくれるとか、そんなことは全く期待していない。そんなことは全く頭にないというかね。ただ捧げさせていただくこと、あるいは供養させていただくこと、あるいはわたしを使っていただくこと、これがもう最高の喜びであると。これをヴィヴェーカーナンダは最後に締めとして素晴らしい言葉で、一言ね――「炎に飛び込む蛾のようでありなさい」って(笑)。これは素晴らしい言葉だと思うね。何も考えないっていうか(笑)。何も考えないで炎にバーッと飛び込んでいく。「飛び込んだら焼けちゃうのかな?」とか(笑)、何も考えていない。で、実際に焼けるわけですけど。
これは一つのイメージだけど、ただ、素晴らしいイメージだと思ったね。やっぱりヴィヴェーカーナンダの――さっきも言ったけど、そういうセンスっていうのは素晴らしいものがあると思うね。例えばここでさ、誰か質問したらヴィヴェーカーナンダ困ると思うよ(笑)。「炎に飛び込む蛾ってどういうことですか?」とか言われたら、ちょっと理論的に説明できないかもしれないけど。でも皆さんのフィーリング的に分かるでしょ? 「一方的に神に愛を捧げよう」と。「炎に飛び込む蛾のようであれ」と。「ああ、なるほど」と。ね(笑)。それは皆さんの心に刻んでおいたらいいと思うね。
ちょっと話がずれちゃったけど、戻すと――つまりバクティヨーガっていうのは――そういう意味でのバクティヨーガね、つまり最高のバクティヨーガ。これは何でかっていうと、ヴィヴェーカーナンダも言っているように、バクティヨーガには段階があるんだね。ヴィヴェーカーナンダの言葉で言うと、低いっていうか初期段階のバクティヨーガ――まあバクティヨーガって結局さ、信仰のヨーガだから、もともとなんていうかな、固い考えだと――ヒンドゥー教ってさ、固いヒンドゥー教と柔らかいヒンドゥー教があるんだね。固いヒンドゥー教っていうのは、つまり伝統に固執するヒンドゥー教。これはほかのいろんな宗教と同じで、つまり名前とか教条主義とかに、もうこだわっちゃって、例えば「いや、この神じゃなきゃ駄目なんだ」とか、「この儀式やんないと効果はないんだ」とか、そういうタイプね。じゃなくて柔らかいヒンドゥー教っていうのは、ラーマクリシュナに代表されるような、「いや、神というのは本来は一切の名前や概念や相から解放されているお方である」と。「よって名前はどうでもいいし、あるいはさまざまな国のさまざまな伝統に沿ったね、神でも全く構わない」と。だからラーマクリシュナ系の人達っていうのはよく――例えば西洋にも教えをいっぱい説いたから、「あなた達の場合はキリストでも構わない。あるいは聖書の父なる神でも構わない。あるいはイスラム教の場合はもちろんアッラーでも構わない」という言い方をしているわけですね。
で、その柔らかいタイプの発想で言うならば、当然バクティヨーガっていうのは、すごく簡単に言ってしまえば、あらゆる信仰の世界がバクティヨーガに含まれちゃうわけですね。そういう意味ではキリスト教もバクティヨーガだし、イスラム教もバクティヨーガだしね。
で、その上で言うと、あらゆる信仰世界の初期段階、これを「ガウニバクティ」って言ってる。このガウニバクティっていうのは、ほとんどの宗教が陥っているというか、当てはまる世界。つまり今言った、「わたしの神が正しい」っていう世界だね。「わたしの神は正しい」と。「ほかの神は間違っている」――つまり神を限定的にとらえて、限定内での信仰を持つっていうかな。これは全く信仰がないよりはいい。しかしまだ初期段階ですね。
それがだんだん進んでくると、自分が感じている、あるいは信仰している神というものの正体というものが、だんだん分かってくるんだね。ラーマクリシュナの言葉を借りると、最高の――最高のっていうか真実の――神の理解というのは何段階かあるわけですけども――まず、例えば言葉上で言うとね、ジュニャーナといわれる悟り。このジュニャーナの悟りっていうのは「一切は幻である」と。「マーヤーである」と。マーヤーであって、そのマーヤーを超えたところに唯一の実在、神がいらっしゃる――これがある段階における悟りですね。で、それより高い、今度はバクティヨーガのヴィジュニャーナという悟りがある。このヴィジュニャーナという悟りは、「いや、この世界は幻ではない。この世界自体も神だ」という考えなんだね。ちょっとレベルが上がるんです。
で、そうじゃなくてより低い信仰は、ラーマクリシュナ風の言い方をすると「神はいらっしゃる」と。「あの雲の上にいらっしゃる」と。これはまあ、第一段階の信仰なんだね。つまりこの世界はいろんな段階があって、いろいろあるんだけども、「あそこのところに我が神はいらっしゃるんだ」と。これが初期段階の信仰。まだ世界は限定的であって、限定的な世界の一部として神をとらえているっていうパターンですね。
で、もう一回言うけども、ここからどんどん昇華されていって、最終的には「一切は神だった」というところまでバクティでは至るわけですけども。