修行の動機と目的
人が仏教やヨーガの修行の道に入る動機・目的には、もちろん良いものも悪いものもあるだろう。
悪いものというのは、たとえば修行で力を身につけて、欲望をかなえようとか、何かを支配しようとか、そういう魔術的なものだね。こういう魔術的な思いで修行をすると、かならずしっぺ返しが来る。後で痛い目にあうから、やめた方がいいね。
そうではなくて正しい修行の目的・動機にも、段階がある。
①今生と来世において、三悪趣の苦しみを断ち切るために修行する。
②今生と来世において、天の喜びを得るために修行する。
③輪廻から解脱するために修行する。
④衆生を救済するために修行する。
まず①から説明しよう。
三悪趣というのは、地獄・動物・餓鬼という三つの苦しみの世界だ。
私たちは死後、これらの世界に生まれ変わる可能性がある。
地獄は、精神的恐怖と憎しみと肉体的苦痛の世界だ。
動物は、無智と恐怖の世界。
餓鬼は、様々な意味での飢えに苦しむ世界だ。
これらのどこかに生まれたら、悲惨な生が待っている。だからそれらに落ちる要素を取り除く修行をしなければいけない。
ところで、今生と来世はつながっている。だからそもそも来世においてこれらの世界に落ちる要素があるひとは、今生においてもこれらの心の要素や苦しみは現われているということになる。
たとえば地獄の要素が強く、来世、地獄に落ちる可能性が高い人は、今生においても、怒りっぽく、心が憎しみに満ちている。あるいは恐怖心が強かったり、闇や魔的なものを好む。そして実際、怪我をしたり、肉体的苦しみにさいなまれることも多いだろう。
もしこの人が地獄のカルマを浄化する修行に励むならば、心は憎しみから解放され、肉体的にも気持ちの良い快適な人生を送れることになる。そしてもちろん来世も、地獄に落ちることはない。
動物の要素が強く、来世、動物に生まれ変わる可能性が高い人は、まず性質としては無智だ。あまり深くものを考えられず、欲望や快楽を追い求め、煩悩の赴くままに生きる。そして恐怖心が強い。また、弱肉強食の環境におかれがちだ。そして来世はそのまま動物に生まれ変わり、恐怖と怠惰の中で生きることになる。
もしこの人が動物のカルマを浄化する修行に励むならば、心は無智と恐怖から解放され、智性は進化し、単なる肉体的快楽を超えた、もっと高度な精神的喜びを味わえるようになるだろう。そしてもちろん来世も、動物に落ちることはない。
餓鬼の要素が強く、来世、餓鬼に生まれ変わる可能性が高い人は、今生においても、いろいろと貪る。それはいろいろなパターンが考えられるが、代表的なものはお金と食べ物だ。食べ物を貪り食う。あるいはお金こそ人生の第一だと考える。あるいは別パターンとしては、地位や名誉や異性を貪る場合もあるし、あるいはコレクターなんかもそうだね。
とにかく、この無常な世界においてね、何かに執着し、それを集め、手元に置くことにとらわれる。あるいは、他人はどうでもいい、自分だけがそれらを手にしたいと考える。
たとえばここにリンゴが一つあったとして、目の前に友人がいたとする。
「これを友人が食べたら、私は何を食べたらいいんだ!」
というのが、餓鬼の発想だ。
「これを私が食べたら、友人は何を食べたらいいんだ!」
というのが、天の発想だ。
とにかく、この餓鬼の心は、その人の心を貧しくし、失う恐怖、求めても得られない苦痛を味わわせる。
もしこの人が餓鬼のカルマを浄化する修行に励むならば、このような実体のない苦しみから解放され、もっとおおらかで幸せになるだろう。そしてもちろん来世も、餓鬼に落ちることはない。
さて、②番目について。三悪趣の苦しみがないというだけではなく、より強烈な精神的・肉体的幸福を得たいならば、我々は天の要素を身につける修行に励む必要がある。そのようにして我々は、生きているうちから、心は快活で幸福であり、肉体的にも、歓喜に満ちた肉体を手に入れることができる。そして来世は、天の世界に天人として生まれるだろう。
③番目。仮に天に生まれることができたとしても、天さえも無常である。天の神も死ぬ。天から地獄に落ちる可能性だってある。よってこの天も含む輪廻そのものから解放される必要がある。よって、より素晴らしいカルマを持つ人は、天さえも求めず、解脱を求めるのである。
そして④番目。仮に自分が解脱できたとしても、それがなんだというのだろうか? もともと自分と他人の区別はないという真理がある。しかし自分と変わりないはずの多くの魂は、いまだ解脱のチャンスもなく、輪廻の中で苦しみ迷っている。よって自分は彼らを救おう、救うための智慧と力を身につけるために修行しよう、このような動機・目的こそが、最高の修行の動機・目的なのである。そしてこのような人を菩薩(ボーディサットヴァ)と呼ぶ。
そして今日の話の結論としては、みんなにこの菩薩の道を歩いてほしいんだ。
もちろん、そこまでのカルマがなく、「私は三悪趣から解放されるだけで十分だ」とか、「自分が解脱するだけでいいよ」と考える人は、しょうがないかもしれない。しかし少しでも菩薩の道に興味を持った人は、そのカルマがあるのだから、菩薩の道を歩いてほしいね。
なぜなら、この菩薩の道こそが、周りに対して恩恵を与えるのはもちろんだが、本人も最も幸福で、智慧にあふれ、歓喜に満ちた存在になる道なんだよ。
つまり別の言い方をすれば、すべての人がこの菩薩の道を歩むこと、それこそが私の願いであるし、多くの聖者方の願いでもあるんだね。なぜならそこにこそ、苦しみからの解放、そして心の解放の秘儀が隠されているからだ。