解説「実写版ラーマーヤナ 第22話」/解説「母なる神 第2回」
解説「実写版ラーマーヤナ 第22話」/解説「母なる神 第2回」
◎ウルミーラー
はい、またちょっと今のラーマーヤナの話から始めると、前回観た人は特に前回の続きとして、とても感動的なシーンでしたけどね。またこれもアムリタチャンネルでやると思うので、観れる人はまた繰り返し観たらいいと思いますね。
前回の続きの、バラタの献身的な愛の自分を捧げるっていう道と、それからラーマのダルマの道。その一つの決着としてね、ラーマの王国をバラタが守りますと、預かりますということで、その象徴としてね、ラーマのサンダルを頭にいただきながら国へ帰ったと。で、まあ全体的にバラタの愛の素晴らしさ、あるいは自己放棄の素晴らしさっていうのはずっとここ何回か綴られてるわけですけども、もちろん他の人たちも素晴らしいね、ここに出てくる人はみんなね。
今回の話でいうと、わたしは個人的に感動したのはウルミーラーね。ウルミーラーってあの、ちょっと脇役的な人なんだけど、つまりラクシュマナの奥さんですね。途中で出てきた女性ですけど。このウルミーラーっていうのは、前の方を知ってる人は知ってると思いますが、ちょっと話を整理すると、そもそもラーマが一人森に追放されたわけだけど、その奥さんのシーターももちろん、「わたしにとっては、あなたのいないところは地獄だ」と。「あなたがいればどんな苦しい森の中でも、天国に変わる」と。「だから連れて行ってください」ということで、シーターもついて行くことになったわけですね。それにもう一人弟のラクシュマナも、「自分はあなたたちのしもべだ」と。「あなたたちを守るためにわたしも一緒に行く」と言ってついてくるわけだね。こうしてラーマ、シーター、ラクシュマナが森に出かけるわけだけど、このラクシュマナに奥さんがいたわけですね。それがウルミーラー。
で、前のドラマでもありましたけども、ラクシュマナが旅立つときにね、奥さんのウルミーラーに言うわけだね。それは――「お願いがある」と。「お前は別れのときに、決して涙を流さないでくれ」と。「涙を流さないで、笑顔でわたしを送ってくれ」と。「そうすればわたしは元気にね、希望を持って旅立つことができる」と。で、「お前が実は心で泣いていることは、わたしは知ってる」と。「だからそれはわたしの心だけが分かってるから、涙を流さないでくれ」――っていうお願いをしたんですね。で、それに対してウルミーラーは、「それは大変な厳しいお願いです」って言うわけだけど、ただそれを守って、泣かずに見送ったわけですね。
で、それはもしかするとラクシュマナが言ったのは、その別れの時だけのことだったのかもしれないけど、結局ウルミーラーはその後もずっと涙を流すのをこらえてるんだね。このラーマーヤナを観てると、いろんな場面でみんなが大泣きしてるわけだけど(笑)。みんないろんなかたちで泣いてるわけだけど、ウルミーラーだけは涙を流さないんだね。ずっと夫の言った「自分のために涙を流さないでくれ」っていうのを守ってるんだね。
◎バラタの放棄
で、このウルミーラーが――前回だったかな、バラタがみんなを引き連れてラーマに会いに行くと。それはラーマを自分たちの王として連れ戻しに行くっていう目的のために、行こうとしたわけですね。そしたらバラタの奥さんが、ラクシュマナの妻であるウルミーラーも一緒に連れて行きましょうって提案したわけだね。でもバラタはそれを断ったんですね。なぜかっていうと、だってラーマとラクシュマナは連れ帰るんだから、ね(笑)。だから奥さんを連れて行く必要はないと。つまりバラタはこの段階では信じきってたんだね、成功をね。ラーマとラクシュマナを連れ戻せるって信じきっていた。だからラクシュマナの奥さんのウルミーラーをわざわざ連れて行く必要はないんだよって言って断ったんですね。
しかし結果は、前回観た人は分かるように、結局ラーマは戻らないと。その代わりバラタがラーマのいない間の王国を守るっていうことで話が決着してしまったんだね。で、帰ってきて、バラタはウルミーラーに謝ったわけですね。つまりわたしが間違っていたと。連れ行けばよかったと。つまり、引き離された奥さんのウルミーラーが、一瞬でも旦那さんのラクシュマナに会える最後の機会だったかもしれない。しかしバラタは、「いや、わたしがラーマとラクシュマナを連れ戻すんだ。それは絶対にできるんだ」っていう興奮した心によってね、もう現実が見えなくなって、せっかくのウルミーラーがラクシュマナと会えるチャンスを逃してしまったんだね。で、それをバラタはウルミーラーに謝ったわけですね、あのシーンっていうのはね。わたしの考え不足によって、せっかく――つまり十四年間これから会えないわけだから、その十四年間会えないうちの最後のもう一回だけ会えるチャンスだったかもしれないのに、最愛のラクシュマナに会えるチャンスをわたしがつぶしてしまったと。大変申し訳ない――って謝るわけだけど、ただそこで素晴らしいのは、このウルミーラーの返答ね。
ウルミーラーが何て言ったかっていうと、「そのようなことをあなたに言われると、それがわたしを苦しめるのが分からないんですか」と。
つまりどういう意味かっていうと、バラタのやっている放棄、あるいはバラタのなしている献身っていうのは、もう誰も真似のできない、あらゆるバクティの道を歩む者の理想であると。
バラタっていうのは、二つの意味の放棄をしているわけですね。二つの意味の放棄っていうのは、まずは一般的な現世的な意味の放棄。現世的な意味の放棄っていうのは、つまり、彼はもともとはそのままいけば王様だったわけだね。別に誰もとがめない。バラタが全然悪いわけじゃないから、普通に王様となって、いってみれば栄耀栄華を楽しみ、多くの金銀財宝やあるいは権力を持ち、王として君臨できたはずなんだけども、それを決して彼は容認しなかったわけですね。「これはラーマのものである」と。「わたしはそんな価値のある者ではない」と言って、権力も富もすべて放棄したわけですね。それだけじゃなくて、自分はラーマ様のしもべであると。どんな事情にしろ、ラーマ様が苦行者の姿で森を放浪しながら生きていらっしゃるとしたら、どんな理由にせよ、自分が王宮に住むわけにはいかないと。ね。ラーマ様が森で暮らしてるのに、自分が宮殿に住むわけにはいかないと。よって、ラーマの命令によって王としての任務は果たすけども、自分の生活はラーマと同じように、城の外でね、小屋に住んで、苦行者の格好をして、すべての装飾品とか一切のものを捨て去って、苦行者として生きるんですと。あるいは、ラーマは本当は王だから、本当は柔らかなベッドに寝る権利があるわけだけど、でも今は苦行者として地面で寝てると。だったらしもべのわたしはもっと低いところで寝なきゃいけないと言って(笑)、穴掘って、地面よりもさらに低いところで寝ると。つまりこういう意味の現世的な放棄ね。
つまり人間って弱いもので、いろんな物語を見ても分かると思うけど、謙虚だった人も、例えば権力が身についたり、あるいはお金をいっぱい持ったり富にあふれたりすると、ちょっと心がどんどん傲慢になっていく。あるいは執着していく、っていうのは、人間の普通の性質としてあるわけだね。でもバラタは一切そういうものにとらわれず、一切をラーマのために放棄したと。これが現世的な意味での彼の最高の放棄ですと。
もう一つは前回あった、宗教的というか、観念的というかな――つまりバラタの観念における最高の生き方っていうのがあったわけだけど、それは前回やったように、ラーマを連れ戻すと。つまりラーマこそが王なわけだから、ラーマへの愛によって、ラーマを連れ戻すことこそが、わたしの人生の使命であると。わたしの人生の唯一の生き甲斐であるっていう、大いなるある意味で観念、ある意味で彼の生き甲斐みたいなのがあったわけだけども、でも前回観たように、シヴァ神が乗り移ったジャナカ王から、「あなたの愛は素晴らしいが、真の愛というのは無私でなきゃいけない」と。つまり一切自分の考えとか入ってはいけないと。「おお、ラーマよ! ラーマよ!」――これもこれでもちろん素晴らしいんだけども、じゃなくて、それがどんなものであろうと、ラーマの意思を実践すると。ね。神の意思を遂行することが、それに身を捧げることが、真の愛であると。こう説かれたわけですね。それによって、もちろん本当はラーマを連れ戻し王になってもらうっていうのがバラタの唯一の願いだったわけだけど、しかしラーマの意思、ラーマの命令がそうではなかったので、それを受け入れたわけだね。これは宗教的というか、ダルマにおける、法における彼の放棄ですね。
つまり宗教的観念も放棄したと。で、現世的な富も権力も放棄したと。で、ひたすらしもべの道を歩くと。ね。このような最大の放棄、そして最大の献身の道を歩いてるバラタから、例えばこのウルミーラーがね――話が戻るけど――ウルミーラーが、「お前をラクシュマナに会わせてあげられなくて申し訳なかった」って言われても、それは逆にわたしは苦しいと。つまり、あなたの方が大変なわけだから、あなたの方が素晴らしい道を歩いているのに、わたしのことをそんなふうに言われると、あなたの献身――バラタの献身やバラタの放棄からいったら、わたしが夫に会えないなんていうその苦しみ悲しみは、全然笑ってしまうようなものですと。だからそんなこと言わないでくださいと。
しかし、それは分かっていながら――自分が夫に会えない苦しみなんて、バラタの献身や放棄に比べたら全く笑ってしまうようなものだってことは分かっていながら、わたしの潜在意識っていうかな――わたしは無意識に自分の悲しみを表現したくなると。こんな無智な女を許してくださいって言うんだね、ウルミーラーはね。うん。
◎誠実を極める思想
この辺はすごく素晴らしいというかな――つまりいつも言うけど、このラーマーヤナっていうのは、出てくる登場人物が全員ね、こういう感じなんだね。全員誠実さ、あるいは神への献身、あるいはしもべの道っていうものをベースとして生きてるんだね。これは後々で出てくると思うけど、敵であるラーヴァナとかもそうなんだね。ラーヴァナもそうだし、全員そうなんです。全員それがベースなんです。そのベースの上にいろんな役割があって、なんか表面的にああだこうだ闘ったり、いろんな感情的な物語があるわけだけども、ベースとしてはもう全員そのしもべの道、献身の道、誠実の道をこう行ってるんだね。これはとても素晴らしい物語だね。
だからいつも思うっていうか、言うんだけど――この『ラーマーヤナ』がどれだけ今現代でインドで扱われてるか分からないけど、こういう物語に、こういうドラマにしろ、本にしろ、漫画にしろ、触れられてるインド人っていうのは、大変恵まれてると思うね。
つまり何度も言うけど、表面的な「こういうことがありました」とかいう話っていうのは、いくらでもいろいろ作れますよね。でもその根底に流れる観念っていうかな、思想ってあるじゃないですか。それが『ラーマーヤナ』とか、あるいは『マハーバーラタ』っていうのは非常に素晴らしいんだね。もう完全に投げ出した思想っていうか、誠実を極める思想っていうか。こういうのに触れられてるっていうのはとても素晴らしいね。だからこれもぜひ――アムリタチャンネルでもいいし、あるいは今作ってる『アディヤートマ・ラーマーヤナ』とか、あるいはもう出てる『要約ラーマーヤナ』もそうですけども、いろんな形で――『マハーバーラタ』もそうですけどね――こういった物語系の聖典っていうのも、ひたすら何度も繰り返し読むことで、そのベースに流れている生き方の思想っていうかな、これを皆さんが自分のベースにそれをしっかりと重ね合わせるっていうか――ことができたら、すごく価値のある経典だと思うね。普通に読んだらただの物語なんだけどね。普通に読んだらただの面白い物語なんだけど、皆さんみたいにちゃんと教えを学んでる人が読むと、とてつもなく素晴らしい物語なんだね。
◎ストレートな教え
はい。じゃあこの辺で『日々修習する聖者の智慧』の方に入りましょうね。『日々修習する聖者の智慧』の『母なる神』。今日はですね、ちょっと変わったというか、いつもと違うやり方で・・・・・・この「たとえ自分の一部が……」っていうところありますね? この部分から一回ちょっとみんなで一緒に読んでみましょう。みんなで声合わせて。読みますよ。
【本文】
たとえ自分の一部が明け渡しを決めていても、別の部分がためらって、自分流の道を歩んだり、自分流の状態を打ち出したりしたのでは、人はそのたびに、神の聖なる恩寵を、自ら退けることになってしまう。
献身と明け渡しの陰にこっそりと自分の欲望や自分の利己的要求などを忍び込ませたり、これらをもって嘘偽りなき真の切願の代わりとしたり、混ぜものとしたりしたのでは、それらを「神の聖なるシャクティ」の前に差し出したところで、神の聖なる恩寵を招来して自らを変容させていただくことは、不可能である。
はい。この経典っていうのは、もちろんこういう感じで普通の本のように読むっていうのもいいんだけど――まあこれもかなり瞑想的聖典でもあるね。つまりひたすら読んで、自分に当てはめ、考え、そしてインスピレーションを得て、っていうところがありますね。
で、今日はちょっと古典的なっていうか、古代インド方式に則って、ちょっと皆さんで各自でちょっと少し読んでみましょう。読むといっても、一段落だけ。「献身と明け渡しの陰に」から「不可能である」のところまでね。これをですね、各自で読んでみてください。声に出してね。で、各自で何度も何度も繰り返しこの一段落だけまず読んでいきます。はい。では少しいきましょう。
【本文】
献身と明け渡しの陰にこっそりと自分の欲望や自分の利己的要求などを忍び込ませたり、これらをもって嘘偽りなき真の切願の代わりとしたり、混ぜものとしたりしたのでは、それらを「神の聖なるシャクティ」の前に差し出したところで、神の聖なる恩寵を招来して自らを変容させていただくことは、不可能である。
(各自で読誦)
はい。じゃあいったんやめて。続いてこの一文を心で思索してください。見ながらでもいいし、ちょっと覚えて目をつぶってでもどちらでもいいので、あるいは見たりね、目をつぶったりでもいいです。この一文について思索して考えてください。
(思索)
はい。じゃあいったんやめて、ちょっとだけね、解説に入りましょうね。
この話っていうのは、特にこの第一章目っていうのは、同じことをね、いろんな角度で繰り返し説いてるので、あまり新しく解説することはあまりないんですけども、この経典の素晴らしさっていうのは、非常にストレートなんだね。つまりヴェールに包んでないっていうか。あるいは段階的にオブラートに包んだことから言っていない。本当にバクティの道を歩むんだったら、っていう本当のことを言ってるわけですね。
この献身の道、あるいは明け渡しの道っていうのは、まさに百ゼロでなきゃいけない。百ゼロじゃなきゃいけないっていうのは、ここにも書いてあるように――「混ぜものとしたりしたのでは」とか書いてあるね。つまり、混ざってちゃいけないんです。エゴというもの、あるいは自分の欲望や利己的要求などが混ざっていてはいけない。
◎混ぜものなき明け渡し
で、ここでね、「こっそりと自分の欲望や自分の利己的要求などを忍びこませたり」って書いてあるよね。これを表層的に――つまり自覚を持ってやる人もいるかもしれないけど、まあ実際それは少ないのかもしれない。実際は自分ではあまり自覚がない場合ね。つまりエゴが自分自身をも騙すような感じで、忍び込ませるんだね。自分の利己的要求や欲望というものを忍び込ませる。 つまりこれはエゴというもの、つまり自分の深い意識というものが、まだ本当の意味で覚悟を決めてないというか。つまり頭では教えを学んだりして――あのね、そもそもこういう教えに出合えること自体が非常に高度というか、すごいことなんだけどね。
教えにはいろんな教えがある。で、まあいろんな教えがあっていいと思うんです。それぞれのフィーリングに合った、あるいはカルマに合った教えに巡り合って、道を進んでいくと。特に日本っていうのはさ、昔は違ったと思うんだけど、現代は西洋的な教育の影響を受けて、やっぱりちょっと自我が強くなっちゃってる。だからこのバクティの教えってなかなか理解されないっていうか、受け入れられがたいんだね。
いつも言うけどね、わたしは仏教も好きなわけだけど、仏教も本来はバクティなんです、本当はね。でも現代の日本人っていうのは理性的なふりをしたがるので、いろんなことを合理的にとらえたがる。もしくは、エゴというか、自我というものを強調するんだね。つまり「わたしの考え」とか、「わたしは自立しているんだ」とか。「わたしがこの考えによって、このようにこれを実践するんだ」とかね。
そうじゃなくて、完全に明け渡しっていうのは、――でも皆さんは分かると思うけども、実際は相当強い人じゃないと、明け渡しはできない。相当強いっていう意味は、張りぼての強さじゃなくてね、本当の心の内側から――これは投げ出して生じる強さなんだけど――投げ出してることから生じる、偽物じゃない心の奥からの強さがないと、このバクティの道を歩めないんだね。
だからこのバクティの道にまず出合えるっていうことがすごいんだけど、で、それをもし皆さんが頭でちょっとでも、「あ、いいな」って思えるとしたら、それはもう素晴らしいです。おそらく多くの人は逆に理解できません、こんな教え。「え? 投げ出すってなんですか、それは?」「もっと【わたし】っていうのを大事にしたほうがいいんじゃないですか?」って人の方が多いと思うね、現代ではね。もうこれ自体まず理解できないから。
でも皆さんのうちの多くは、まあ頭では理解できてる。「やっぱり投げ出すしかないですね」と。ね(笑)。「やっぱり明け渡しですね」と。「やっぱりしもべの道――神のしもべとなり、自己を滅却するしかないんですね」ということの真の意味がうっすらとは理解できてる。あるいはその中の一部の人は、理解してるだけじゃなくて、志としてその道を歩もうと思ってる。しかし長年連れ添ってきたわたしのこの深い意識は、まだ覚悟が決まってないんだね。うん。頭は覚悟が決まってたとしても、心は覚悟が決まってない。決まってないからひたすら逃げようとするわけだね。ひたすら「エゴを叶えたい、エゴを叶えたい」と。でも頭ではこの道を歩むことを決めてしまっていると。でもエゴは逃げたいと。よって、いろんな詐欺的な感じで、自分さえも騙す感じで、忍び込ませるわけだね。エゴ的なものをね。
で、もう一回言うけども、「混ぜものじゃ駄目ですよ」と。普通さ、混ぜものじゃ駄目って、そんな厳しい話ないよね? だってもともとエゴだったわけだから。だんだんだんだんこう「まだエゴもあるけどちょっと明け渡しました。これでもいいじゃないですか」って考えるかもしれないけど、「駄目」って言ってる。ね(笑)。「混ぜもの一切禁止」と。純、百パーセント――まあ蕎麦とかみたいにね(笑)。十割蕎麦じゃないと駄目だと(笑)。一切、混ぜものが一パーセントでも入っていたら、それ受け付けられませんと。
まさにだから――変な例えだけど、十割蕎麦みたいなもんだよね。蕎麦大好きな人がいて、「十割蕎麦」と。ちょっと食べてみたら、「ちょっと親父さん」と、ね(笑)。「これ入ってるでしょ?」と(笑)。ね。ちょっとでもそういうの入ってたら、神はそれを受け取ってくれない。これがここに書いてある、「そんなものを差し出したところで、神の聖なる恩寵を招来して自らを変容させていただくことは、不可能である。」と。
これがまあ、ずーっとこれで言われてるテーマですね。そのテーマっていうのは、神の祝福とか恩寵といった場合、それは神から与えられる恩寵のこの愛の手と、それからこっちが切望して伸ばす手の両方がないと駄目なんだね。まさにそれはそういうシステムになってるっていうか。
だからわれわれは崖下に落ちようとしてるようなもんなわけだけど、神の手が伸びてたとしても、それをつかむこっち側の手がないと駄目だと。
だから例え話で言うと、われわれは今、別のものをつかんでるんだね。別のもの――お金であるとか、プライドであるとか、いろんな執着してるものをつかんじゃってる。神の手をつかむにはこれを離さなきゃいけないんだね。これは非常に重いので、これを持ったままでは神に手を伸ばせない。だから離せと。しかもそれは百パーセント離さなきゃいけないんだよ。小指だけで持ってるとか、例えば薬指で持ってるとか、それじゃもちろん駄目なわけだね。
例えば今の話っていうのは、すごく現実的な話と受け取ってください。現実的な話っていうのは、実際に例えば崖に落ちようとしてる人がね、手を伸ばさなきゃいけない。これは現実的ですよね? 現実的って何を言ってるのかっていうと、思い込みじゃ駄目なわけでしょ? ね。落ちようとしてるのに、「ちょっと伸ばしてるつもりなんですけど」とかね(笑)、それは駄目なんです。実際に伸ばしてなきゃ駄目なんです。それと全く同じ発想が、われわれの修行っていうか、この人生にもあるんだね。つまり思い込みじゃ駄目なんです。あるいは実際にそれがなされてないと駄目なんです。エゴを放棄するっていう現象ですね、まさにね。現象としてそれが起きてなきゃ駄目なんです。「頑張ってる」とかね(笑)、「そういうつもりだ」とかじゃ駄目なんだね。実際にそれが起きないと、自分が神への手を伸ばすっていう現象は起きないから。それでは神からの恩寵とそれがドッキングするっていうかな――これは起きませんよって言ってるんだね。
それは非常に厳しい話ですけどね。厳しい話だけども、原則そうですよと。それはわれわれのエゴに対して、だからこの経典っていうのは何度も言うけどもストレートに、つまり甘くなく答えを言ってくれてるので、すごくわれわれはこれを肝に命じる必要がある。
例えばY君が学生だとしてね、東大に入りたいとして、偏差値40ぐらいしかないとするよ。で、塾の先生がね、「まあ頑張ればなんとかなるんじゃない?」とか言って、適当な指導だけしてたら、Y君自体は楽しいけど、でも入れないよね、東大なんてね(笑)。そこでだからはっきり言ってくれる先生の方がいいわけだよね。「これで入れると思いますか?」と、ね(笑)。偏差値40でね。でも入れないことはない。それには相当な努力が必要だと。相当死にもの狂いに一日二十時間くらい勉強する、しかも一切集中を途切れさせずにね、一日二十時間くらいやる必要がありますよと。つまり東大のために、もし本当に入りたいんだったら、一年間一切の遊びやその他の自分の時間を捨てるぐらいの気持ちは必要ですよ――と言ってくれる人じゃないと駄目なわけですよね、当然ね。「まあいろいろ遊びながら適当にやってれば入るんじゃない?」みたいな先生は駄目なわけだね。だからそういうところがこの経典にはとてもあるんですね。
この経典っていうのはオーロビンドっていう人がもともと書いたもので、もともとあったものです、もちろんね。もともと存在してて、でも日本ではあまり知られてなかった。で、日本で最近出版されたんですけど、非常にマイナーな本なのでほとんど見かけない。ほとんど見かけないけども、ちょっとわたしがたまたま買ってきて、しかもその本ってすごい分厚い本なんだね。分厚い本で、ほとんど普通難しい本です。難しい本の一番後ろの方に付録として書いてある(笑)。そんな素晴らしい内容が、非常にマイナーな本の一番後ろの付録にあったと。で、これにたまたまっていうかな、巡り合って、皆さんにこうして提供してね、で、皆さんがこれを学べるチャンスがきたっていうのは、まさに神のつじつま合せっていうか、皆さんへのプレゼントだと思うんだね。だからこの教え、この考えをどれだけ皆さんが取り入れ、そして実践しようとするのかは、それはもちろん自由です。自由だけども、答えというか、「こうなんだよ」っていうありのままのものが、皆さんの前に提示されたって考えたらいいね。皆さんが本当の意味でバクティの道、あるいは神の道、バクティ・ヨーガ系の神の道を歩みたいと思うんだったらこうですよっていうことがズバっと説かれているんだね、ここではね。
◎代理人の権限を預ける
若干話がずれるけど、今インターネットの方でね、ラーマクリシュナの弟子のギリシュ・チャンドラ・ゴーシュの生涯を連載してて、さっき最終回をアップしたんですけども、そこでも説かれてるんだけど。このギリシュっていう人は最初はね、大酒飲みでいろんな――まあ一般的にいう悪いことっていうか、修行者としては悪いことをいっぱいやっていて、で、性格的にもちょっとひねくれ者でっていう人だったんだけど。でも直感的にすごく、師であるラーマクリシュナへの信っていうのはもともとあって、それがだんだんだんだん磨かれていって、最終的にはヴィヴェーカーナンダさえも、「あんなギリシュのような人は見たことがない」と。「あそこまで自分を師に棒げ、師匠であるラーマクリシュナに没頭してる人は見たことがない」というぐらいの人になったわけですね。
で、このギリシュの最後の方のエピソードとして、最後ギリシュはひどい喘息で苦しむわけですね。まあ死んじゃうわけですけども、ひどい喘息で苦しんでるときに、「わたしが――兄弟弟子たちに言うんだね――わたしがこんな病気ぐらい治せないと思いますか?」と。「こんなものは簡単に治せますよ」と。どうやって治すかっていうと、ラーマクリシュナが住んでいたドッキネッショルのラーマクリシュナの部屋の前に行って、地面を転げ回ってね、ラーマクリシュナに『師よ! わたしの病気を治してください』って心からお願いすれば、こんなもの簡単に治りますよ、と。「しかし同時にわたしは師が、わたしの師ラーマクリシュナが大変慈悲深いことを知っている」と。
で、まあちょっと関連する話として、これは皆さん知ってると思うのであまり突っ込まないけど、ギリシュはラーマクリシュナに「代理人の権限を預けた」っていう話があるんだね。つまり代理人の権限っていうのは、ラーマクリシュナに、自分がどのようにして修行を進め、神の道を歩み、苦しみから脱却し、聖者になっていくか。そのすべてのキーっていうかな、権限――どのようにしてカルマを落とし、どのようにして成長していくかの代理人として、自分の師にすべての権限を預けた。これは何を意味してるかっていうと、その瞬間から、ギリシュの自分の人生に起きることはすべてラーマクリシュナの愛であると。ラーマクリシュナが自分のために、自分を浄化するために、自分を引っ張るためになしてることなんだっていうことなんだね。
で、ギリシュは最初これをよく分かってなかったみたいなんだけど、よく分かってなくて、ただ「代理人の権限を預けた」っていう感じだったんだけど、だんだんそれがギリシュの智慧が高まるうちに――そのころはもうラーマクリシュナは死んでたわけだけど――だんだん理解できるようになってきたわけですね。で、それからはずっとギリシュはそういうふうに考えるようになった。つまり、どんなに苦しい――ギリシュは、ラーマクリシュナが死んだ後に、奥さんとか子供が死んじゃったりとか、仕事で大失敗したりとか、いろんな苦悩に巻き込まれるんだね。その度にギリシュは一切不平や文句を言わずに、「これこそがラーマクリシュナの愛だ」と。「だってわたしはラーマクリシュナに、師に、すべての権限を預けちゃったんだから」と。「どのようにしてっていうことは、わたしに言う権利はない」と。ね。「師が好きなように、一番いいと思うように、わたしを引っ張ってくれてるんだから」っていう絶大なる信があったんだね。これがギリシュのすごいところで、絶大なる信があった。
で、その思いがあまりにも強いので――ここでギリシュは「師の恩寵によって」って言ってますけど、「自分がそのように理解できたのは、師の恩寵である」って謙虚に言ってるわけだけど、つまりもう完全にそれを信じきってるわけだね、ギリシュはね。何が起ころうが師の愛であると。何が起ころうがラーマクリシュナの愛であると。ラーマクリシュナが一番早く、一番簡単に、一番苦悩が少ない形で、わたしを本当に幸せに導くように人生をセッティングしてくれているんだと。その思いがあまりにも強いんだっていうんだね。あまりにも強いから、わたしは自分の考えで、ラーマクリシュナに「病気を治してください」なんてとても言えないんだと。ね。そういう発想なんだね。
この素晴らしさっていうのは、つまり偽善的じゃないんです。偽善的じゃないっていうのは――普通の人が聞いたらさ、なんか言い訳してるようにも聞こえるよね。「いや、治るけど、本当は治るんだけどね。本当は治るんだけど、でもこれはラーマクリシュナがやってくださってることだからな」みたいな感じで、偽善的にも聞こえるわけだけど、そうじゃないんだね。つまりできないんです。これラーマクリシュナ自身もそうだったし、ヴィヴェーカーナンダも同じシーンがありましたけども、もう一回言いますよ、「すべての苦悩は――まあ喜びもそうなんだけどね――苦しみも喜びも、師であるラーマクリシュナがわたしのためにやってくれてることなんだ」と。「わたしは無智だからその意味が全く分からないが、全部わたしが幸せになるためなんだ」というその思いに完全に没入していたので、自分の考えで「この病気治してくれませんか」なんてとても言えなかったっていうんだね。だからこれがギリシュの晩年、そういう感じだったんですね。
ちょっと若干話は外れましたが、これも一つの明け渡しのパターンだね。つまり明け渡しっていうのはそこまでいってしまうと、「エゴが入らない」とかじゃなくて、「エゴを入れられない」みたいな感じだね、逆に言うとね。今の話で言うと、「体治してって言えない」と。「そんなことはとても言えない」と。つまりそこまで心が――まあさっきの言い方で言うと、深い意識が、覚悟決まってるっていうよりは、完全にそっち側を向いてるっていうかな。今のギリシュの話だったら、すべては師の導きであるということを、深い意識から完全に信じきってるので、あるいは深い意識も完全にその考えに明け渡しているので、エゴが入り込むとかじゃなくて、エゴをもし他の人が選べって言ってたとしても、とても選べないと。全然そっちに心が向かわないと。ここまでなって初めて「明け渡した」って言えるんだね(笑)。うん。これはなかなか抽象的な話でもあるので、こういった例を挙げるしかないんだけどね。
はい。これが、ちょっとでも混ぜものがあったり、嘘偽り、あるいは利己的要求などが忍び込んでいたら、それは明け渡しにならない。よってその恩寵は下らないっていう話ですね。
はい。じゃあ今日も一段落で終わりますけども(笑)、時間が大分過ぎたので、最後に質問が全体的にあったら質問聞いて終わりにしましょう。はい。じゃあ何か質問ある人いますか? ……特にないかな? ……では終わりにしましょう。お疲れ様でした。
(一同)ありがとうございました。