シュリーラーマチャリタマーナサ(3)「悪人の恩恵」
「悪人の恩恵」
わたしはまた、大恩ある人にさえ無法な敵対行動をとる悪人たちにも敬意を捧げる。悪人は、他人の幸せをつぶすことを自分の利益と思いこむ。人の不幸を見て喜び、他人の幸せには悲しみを覚える。悪人どもは、月をかじって月食を起こす悪魔ラーフに見立てられる。ヴィシュヌ神とシヴァ神という御威光という名の満月をやたらと食いかじる。ヴィシュヌ神とシヴァ神の御威徳がたたえられるところでは、どこであれ必ず邪魔だてをする。そのうえ、他者を誹謗することにかけては、千本の腕を持つ勇士サハスラバフにまさる勇猛を発揮し、アラ探しには千個の眼を光らせて狂弄する。幸福な生活をギーに例えれば、悪人の心はハエに相当する。ギーのなかに落ちこんだハエは、ギーを駄目にするばかりではなく自らも死んでしまう。悪人は身を滅ぼしてでも、幸せを妨害しようとする。
他人を焼くことにかけては猛炎にまさり、怒りにおいては閻魔大王をも凌ぐ。罪悪と背徳の資産を蓄えることにかけては、財福の神クベーラの上をいく。悪人の増長は、万人の幸福を損なう点で、不吉の兆候とされる彗星の出現と変わらない。そこで、彼らは一年に六ヶ月間眠るラーヴァナの弟クンバカルナのように、ひたすら眠り続けてくれることが望ましい。
雹は作物を荒らしまわったあと、自らも溶けてなくなる。悪人も他人の幸せを破壊するためならば、好んで身をほろぼす。荒々しい口調で他人の非を咎め、怒りの言葉を撒き散らす悪人を、わたしは千の口を持つ竜王様を敬うように崇めたたえる。また他人の悪事を聞くために一万の耳を欲しがる悪人を、神の賛歌を聞くために一万の耳を求めたプルトウ王と同じにみなして敬意を捧げる。
わたしはスラ(酒)をニク(愛好)する者、つまり酒に溺れる酔漢に対しても、天帝インドラと同じように敬愛を捧げる。天使の軍隊スラニクは、天帝インドラにとって実に心強い味方である。悪人たちは千の眼で他人の弱点を探し、天帝インドラの三叉鉾にも劣らぬ苛酷さで人の罪をなじる。敵、味方、中立を問わず、他人の幸せの話を聞くとイライラして心が燃えあがる。そのような悪人どもの本性を承知のうえで合掌礼拝し、愛をこめて恭謙の意を表明する。
わたしはいま、一方的に悪人どもに恭謙の意を示したが、彼らにはなんの影響もないだろう。どんなに深い愛情をこめて飼育しても、カラスはカラスである。カラスが肉食をやめることがあろうか?
聖人と悪人、この両者の足をわたしはともに崇めたたえる。人に悲しみを与える点では両者とも同じであるが、そこにはまた違いもある。聖人は離別するとき命を奪わんばかりの苦しみを残して去り、悪人は出会った当初から死にまさる苦痛を与えはじめる。
聖人と悪人はつれだって、この世に生まれてくる。とはいえ、蓮華と蛭のように、両者の役割はおのずと異なる。蓮華は見たり触れたりする人を幸せにするが、蛭は触れるが早いか血を吸いだす。
聖人は不死の良薬アムリタに似て人を死苦から解放して彼岸に渡すが、悪人は麻薬のような錯誤、陶酔、惑乱を生んで、魂を狂わせる。良薬も麻薬も世間という名の深海から生まれた薬という点では一致する。
聖人も悪人も、おのおのの所業にもとづいて、因果応報の果実をうける。良薬と毒薬、涼風と熱火、ガンガーとカルムナシ川、高徳の士と凶暴の徒、――これらの徳不徳、善悪吉凶の判別は一目瞭然であるが、人はみなそれぞれの因縁にふさわしい果実を自ら好ましいと思うのである。聖人は善果のみに、悪人は悪果だけに心を引かれる。
良薬の真価は生かすことにあり、毒薬は殺すことで本領を発揮する。悪人の罪業と背信、聖人の徳行と慈愛の深さは、ともに深海に似て底までたどりつくことはできない。ここにあげた徳行と罪業の事例はほんの一部にすぎない。聖人の徳行も悪人の罪業も、その本質を理解しなければどうにもならない。聖人も悪人もともに、創造神ブラフマー様の産物に違いないが、経典には徳行と罪業を明瞭に区別する。同時に、古書経典は、ブラフマー神の創造された徳と罪とは常に表裏の関係にあるとも説く。
福楽と悲苦、聖と俗、貴と賤、善と悪、生と死、王侯と乞食、聖職者と屠殺業者、無欲の行者と妄執の徒、聖河と罪の川、カーシー国とマガダ国、天国と地獄――これらはいずれも創造神ブラフマー様の創造の産物という点で変わりがないとはいえ、教典は両者をつねに並べて説くことを忘れない。
創造神ブラフマ様は、生命体・非生命体、動不動の万有で構成される現象を、善と悪を織り交ぜた世界に造りあげられた。そのなかで、聖者は悪の水を避けて善の水だけを飲む白鳥に例えられる。創造神から白鳥に似た識別力を与えられるとき、人はひたすら善事のみを求めるようになる。因縁、本能、幻影などの影響によって、聖人もときに道を誤ることがある。そんなとき、聖人はすぐに過ちを認めて悪事を離れ、ふたたび名声をとり戻す。悪人もよい縁に恵まれて善事をなすこともあるが、持ち前の不純な性情は、けっしてなおることはない。
世間には浄らかな法衣をまとう偽善者が、聖僧と紛らわしい服装ゆえに敬われることがままある。しかし、偽善者にはいつの日か必ず破滅が訪れる。ちょうど、カーラネーミー、ラーヴァナ、ラーフなどの悪魔が、しまいに身を滅ぼしたように、欺瞞は最後には通用しなくなる。いかに姿形は醜怪であっても、熊の王ジャーンバヴァットやハヌマーンがそうであったように、真の聖者はやがて世間から尊敬される。
「良縁には善果、悪縁には悪果が伴う」――この道理は、経典でも世俗でも常識である。土埃も風に吹かれるときは空に舞いあがるが、低地に向かう流水に落ちればしまいに泥沼になる。信仰深い人の家に飼われる鸚鵡や九官鳥は『ラーム、ラーム』と神の称名を繰り返し、性悪な人間の家に飼われるものは、のべつ幕なしに悪口雑言をまくしたてる。悪縁によって真っ黒な煤となる煙も、良縁に恵まれれば経典を記録する神聖な墨汁に変わる。同じ煙が火水風の交わりを得て、大地を潤す恵みの雨ともなる。遊星、薬草、水、風、衣服などすべて、縁の善し悪しに従って良くも悪くもなる。賢くて思慮深い人は、この道理をよく弁えるがゆえに、そのような事態にも心騒ぐことがない。
月の満ち欠けには、白月と黒月がある。前半も後半も日数は同じであるが、創造主はこれに、光り輝く半月シュクラ、暗闇の半月クリシュナという、別々の名称をなぞらえる。
現世に存在するかぎりの有魂無魂の生命や物体、森羅万象いっさいにラーマ神が宿っておられることを認めたうえで、わたしは合掌してラーマ様の蓮華にも例うべき御足を礼拝する。善霊、悪霊、天人、人間、天龍、鳥類、死霊、祖霊、音楽神ガンダルヴァ、歌神キンナラ、悪魔ニシャチャルなどに敬意を捧げて、「なにとぞ、わたしにお慈悲を賜りますように…」と、お願いする。
卵生、湿生、実生、胎生の四種に分けられる八万四千の種族は、それぞれに水、陸、空に住んで世界に満ちている。わたしはそれらいっさいの生類をシーター様、ラーマ様の分身とみなして、合掌礼拝して敬意を捧げる。
わが身の知識の乏しさは承知のうえで、「恩愛の鉱山ともいうべきあなた方がこぞって、このトゥルシーダースをしもべと心得られて、どうか正しい方向にお導きください」と、敬虔の念をこめて祈願する。
さて、わたしはこれから比類なく尊いラーマ神王行伝について説くつもりだが、もとよりわたしの詩才は乏しく知識は貧しい。それにひきかえ、ラーマ様のご威徳は限りなく広大である。心力と知識の蓄えは、寄る辺なき孤児にも劣るのに、望みは王侯にもまさる。人格は卑賤、願望は尊貴、不死の良薬アムリタを求めながら、現実には乳酪を精製したあとの水っぽい残滓チャチさえもままならない。善男善女の諸兄弟よ! 身のほど知らずの無謀さには目をつぶっていただき、この未熟な試作を、しどろもどろの幼児語を親が面白がって聞くように、どうか愛情をもって聞いてくださるようお願いする。
そうは言っても、気短な人、ひねくれ者、気むずかし屋、他人への誹謗を身の飾りと心得る悪念の持ち主、そのような人々はきっとわたしの無謀を腹をかかえて笑うだろう。味わい豊かな傑作であれ、砂にも劣る味気ない駄作であれ、自作の詩に愛着を感じない者はいまい。それにひきかえ、他人の試作を素直に喜ぶような広い心の持ち主は、世間に稀である。
諸兄弟よ! この世には、ちょっと雨が降ればすぐに溢れて洪水になる池や川のように、自分の利益にのみ執着する人があまりに多すぎる。月の満つるのを見てさざ波を立てて喜ぶ海のように、他人の利益を無心に喜べる人物はきわめて少ない。才能の乏しさも顧みずに、わたしは途方もない大きな目標に挑んでいる。それでも、この物語を聞けば善人はきっと幸せを感じ、悪人は必ず嘲笑うだろう。
悪人に嘲笑されるのは、むしろ功徳になる。甘美な郭公の鳴き声でさえ、カラスは悪しざまにののしる。ちょうど鷺が白鳥を、蛙がほととぎすを笑うように、心の汚れた悪人は純粋な言葉を嘲笑うものだ。詩に興味を持たず、ラーマ様の御足に愛情を捧げない者にとって、この詩は恰好の笑いの種を提供するだろう。第一は詩句の組み立ての稚拙、第二は知識の貧困、これらの理由でこの詩は笑いに値する。もちろん、笑ったとしても彼らには何の罪もない。神の御足に愛情を寄せず、理解力にも欠ける者は、この物語を聞いても面白くとも何とも感じないだろう。世俗の悪論に惑わされない人、つまりヴィシュヌ神とシヴァ神の御足に平等に敬愛の念を注ぎ、両神に対していささかの偏見も、上下貴賎の差別意識も持たない信者なら、この物語を甘美に感ずるはずだ。
性質が穏やかで心の優しい諸兄弟よ! 願わくば、この物語をラーマ信仰という名の宝玉によって創られた美術品とみなして、善意をもって鑑賞してくださるよう希望する。わたしは詩人でもなければ、説話文学の名手でもない。学問や芸術にも、とんと無謀の野人である。世間には無数の詩がある。豊富な語彙、字義、修辞学、韻文の多彩な構成、深い詩想、情感、音調、さまざまな秀作愚作がひしめきあう。この種の詩に関する知識は、わたしには何一つないことを、ここに誓書にしたためて率直に告白する。
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