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「存在の認識」④

 友よ! 顕現の中の対象を見よ。

 それらすべては、生起したことが一度もない、空の次元です。

 けれどもその多様なイメージは、鏡の中の現われのようなものです。
 
 それらは、鏡の表面の輝きと同様なのです。

 こちら側の、認識を取り入れた心を見よ。

 心とは空のようなもので、すべての肯定と否定から独立しています。

 ――雲は、空に現われ、そして消えていくでしょう。
 しかし空という魔法は、二つとしてないものであり、ただ純粋にとどまるでしょう。

 したがってそれは、本質的で汚れのない、根源的なブッダフッドなのです。

 ――それは創造されることはなく、
 始まりから純粋なものであり、そして心は二つとして存在しないのです。

 拒絶と受容の二つは存在しません。
 肯定も存在せず、否定も存在しません。

 そこには一切、自主独立のリアリティはありません。
 それ自身で存在しているものは、存在の空の次元です。

 顕現が変化するのと同じように、
 対象であるものについては、無常なる様相で存在しています。
 したがって智性は、固定的な内容を持っておらず、そして限界がありません。

 これは絶対的な完全性であることを知ってください。

 したがって、顕現と虚像、輪廻とニルヴァーナのすべてにおいて、
 
 過去の事柄は、もう過ぎ去ってしまったので、空です。

 未来の事柄は、まだ来ていないので、空です。

 現在の事柄は、とどまることがないので、空です。

 時間のその三つの様相は、基盤や根本がないので、空という意味において一つです。

 すべては始まりから、完全なる広がりなのです。

 顕現と虚像、輪廻とニルヴァーナは、心のイメージにすぎません。
 ――この心はそれ自身、空のように広い経験の連続体です。

 この空はそれ自身、想像できないほどの時間の後にも消滅することはなく、
 それ以外の他の何かに変化することもないのです。

 ――それ自身の不変性は、根源的なニルヴァーナです。

 ――存在としては、それは、明智と完全なる叡智と共にあるサマンタバドラです。

 この根源的な領域は、顕現と空性の不可分性の中にあり、
 それは一つでも多数でもなく、
 客体になることはできません。

 ――それは、あらゆる定義・概念から解放されています。

 この自由なる同一性と平等性は、その中に分裂もなければ、区分もありませんし、
 顕現と同一のものであり、空性と同一のものであり、
 真実と同一のものであり、虚偽と同一のものであるのです。

 存在と同一のものであり、非存在とも同一のものであり、
 虚像を超えたものともずっと同一のままのものです。

 それは、始まりからずっと純粋のままとどまり続ける連続体なのです。

 分別的知性によって仮定されたものはすべて、本質的なものが欠けています。

 ――あらゆる「名前」は付随的なものであり、
 「本質」は、名前を持ちません。

 真実と虚偽という二つは存在していません。
 対象と心は関係がありません。

 絶対的存在は、他のもので覆い隠されています。
 そこには本来、とらえられるもの(客体)も、とらえるもの(主体)も存在しないのです。

 しかしちょうど鏡の中に実体のない像が現われるように、
 実体のないイメージは現われるでしょう。

 そのように、対象を認識する「感覚意識」という特質が生起するでしょう。

 ――このようにして何かを認識することによって、あなたは、渇愛と嫌悪の架空の世界で迷子になるでしょう。

 あなたが念入りに観察するならば、
 心はそもそも、対象へと外出していってはいなかったということ、
 そして、対象を認識する特質は、そもそも心に生起していなかったということを見つけるでしょう。

 感覚意識もその対象も、お互いに対して真実には何ものでもないので、
 それらは、二つのものとして成立できないものです。

 あらゆる対象はすべて、非本質の中において一つであり、同一のものです。

 そして分別的知性はすべて、具体的に理解せられる際に一つであり、同一のものです。

 顕現と心は一つです。
 それらは、始まりから純粋であるものであるときに一つであり、同一のものです。

 そこには、選択する必要、そしてあれもこれもととりとめなく試す必要はありません。

 それらは、それらの基盤であった解放の中で一つであり、同一のものです。

 輪廻とニルヴァーナは、二つのものとして存在していません。
 それらは心の領域の中で一つであり、同一のものです。

 ――さまざまな川は、海の広大さの中では、一つであり、また同一のものです。

 すべてのものはそれに似ていて、
 経験との一体性の中では一つであり、同一のものです。

 元素のエネルギーの変化、変換は、
 宇宙にしてみれば、一つであり、同一のものです。

 心の肯定と否定は、存在の空性の中では、一つであり、同一のものです。

 それ自体で存在しているもの、本質的に解放されているものは、二つとして存在していません。
 ――それらは、それらの純粋性の中では、一つであり、同一のものです。

 波の浮き沈みは、水の広がりの中では、一つであり、同一のものです。
 
 このようにしてそれを理解できる人は、賢者です。

 多様性の中で存在するものはすべて、真実には具体的につかみどころがなく、
 二元性としては存在してないイメージなのです。

 善も悪なく、受容も拒否も適用されない場所で、戯れてください。
 概念的知性と二元性が出会うことがない場所で、幸せに生きていきましょう。

 特有の対象を客体化しようという自我意識の欲求がない
 心の放浪の最終地点である純粋意識
 それは、絶対なる完全性は今ここにあるということです。

 つまり、すべての平等性を悟ることによって、
 概念的知性の働きから自由になったその領域は、
 自我意識の欲求とは無関係な領域なのです。

 無限に広がる純粋意識が、奴隷のように束縛されることによって、疲弊しきった衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。

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