聖者の生涯「ナーロー」④(1)
20100313 聖者の生涯「ナーロー」④
◎智慧の完成を超えて
はい、もう一回ね、ちょっと前提的なことをいうと、このナーローの話っていうのは、ナーローが、インド一の大仏教学者の地位までのぼりつめたナーローが、あるね、お婆さんの姿をしたダーキニー――つまり修行者を助ける女神の勧告によって、「お前はまだ表面的な教えしか理解していない」と。「本質的な真の意味っていうものを理解していない」っていう勧告を受けて、その真の意味を理解するために、グル・ティローといわれる聖者を探しに旅に出かけるわけだね。で、その旅の途中でさまざまな――いってみればちょっと幻影的な出来事に出合い、その度ごとにさまざまな教訓を得て、いろんな失敗もしたりして次に向かうというのを繰り返されると。
で、この話っていうのは、じゃあナーローが大学の学長の地位を捨て、グル探しに旅立ったときっていうのはどういう段階かっていうと、これは一説によると、六波羅蜜つまり六つのパーラミターの、智慧の段階にあったといわれています。これはどういうことかっていうと、よくいわれる六つのパーラミターね――つまり、布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧という段階があるわけですが、これは六波羅蜜といわれるわけですが、この六つのパーラミターというのは――日本ではよくこの六波羅蜜という言葉が有名ですけども、実際にはこの後もあって、この後に方便、それから誓い、力、そして最後が叡智――ジュニャーナというんですが――完全な叡智といわれる四段階もプラスされて、実際には十段階なんだね。
この第六段階の智慧っていうのはこれは、この智慧のことを般若っていいます。つまり般若波羅蜜多だね。般若心経の般若波羅蜜多。この般若波羅蜜多が、智慧のパーラミター、つまりある達成段階であることは間違いない。でもまだ菩薩の最後の段階ではない。でもこの智慧の段階に達したナーローが、より高い完全な叡智の段階に達するためには、グル・ティローが必要だっていう話なんだね。だからものすごい高度な話をしてるわけですね。
われわれはまだその智慧の段階までも至ってないわけだから、まずは頑張って、布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧を修めていかなきゃいけないわけだけど。
◎至高者とのゲーム
ただね、ここで言いたいのは、レベルは全く違う、レベルは全く違うけども、ナーローに起きてる現象自体は、レベルの違いこそあれ、われわれにも起きる――というよりも、すでに起きている現象であるといえます。だからそういう意味で参考になるんだね。ナーローほど高度ではない。あるいはナーローほど極端ではない。しかし、この一連の物語で示される現象は、すでにわれわれに起きています。というよりも、その連続だということだね、われわれの人生っていうのはね。
もうちょっと噛み砕いていうと、これは何なのかっていうと、ここではね、仏教とかヒンドゥー教とかあまり関係なくざっくばらんに言うけども、まあ仏教ではあまり神という言葉は使わないんだけども、ざっくばらんに言うと、われわれと神との間の――ここで神というのは至高なる存在ね。クリシュナのような、そのような至高なる存在との間の、まず結びつきっていうのがあります。これはつまり、一生懸命過去生から神を想い続けたとか、修行したとか、供養をいっぱいしたとか、それによってその結びつきが強まってくると、その至高なる存在っていうのは、われわれをいろいろな形で導きだすんだね。いろいろな形で仕掛けをして、幻影を見せたり、あるいは自分のけがれに気づかせたりして、いろんなことを行ないます。このようなわれわれと至高者との、目に見えない、形のない、まさに遊戯ですね、リーラーといわれる、ゲームのようなものが始まるんだね。
で、ここにおいていわゆるグルといわれる存在、つまり生身の体を持った師匠といわれる存在は、その仲介役を果たします。仲介役というよりも、ちょっと別の言い方すると、つじつま合わせといってもいいのかもしれない。つじつま合わせっていうか、つまり何なのかっていうと、本来はその至高なる存在と修行者とのストレートな関係でもいいんだけど、その場合二つの問題が生じます。二つの問題っていうのは、まず一つ目の問題は、それが修行であると理解しにくい場合がある。本当はそれは、その人にとってのすばらしい気づかせるための出来事なんだけども、それが一般の普通の日常で起きてくると、ちょっと理解しにくい場合がある。そこで例えば師匠っていう存在が登場して、例えば師匠から与えられる何か課題であったりとか、あるいは師匠に帰依することによって生じるいろんな問題であるとか、そういう形で神の課題が現われるので、「あ、これは修行である」っていうふうに認識しやすくなるんだね。それが一つ目の意味というかな、師匠が必要な意味ですね。
で、もう一つの問題点は、師がいない場合、これはいつも言ってるように、逃げ道ができるんだね。逃げ道ができるっていうのはつまり、神がストレートに自分にある課題を与えてくれたときに――まあこれもね、本当に自分の心が誠実で強かったら問題ない。しかし、われわれの心は弱いので、逃げ道を探します。で、これは非常に実体がないというか、とらえどころのない話なので、そのとらえどころのない試練とか課題から逃げても、別に誰も文句言いません。別にね。例えばTさんが「あ、これはまさに神の課題だ」と思って、自分でうーってやってても、それはみんなに関係ないから(笑)、Tさんが、「やっぱりもうわたしこれやめた! 逃げる!」と思っても、他の例えば同僚とか友達からは、「え? 何言ってんの?」と。「全然関係ないよ」っていう世界なんだね。でも例えばそこに師匠とかがいて、あるいは自分の尊敬する聖者とかがいて、はっきりと「はい、あなたこれやりなさいよ」とかね、あるいはもうはっきりと、もう本当に目に見える現象としてそういう設定がなされてると、そこから非常に逃げ出しづらくなるんだね。
まあ、そういう意味がある。そういう意味があるから、師っていうのは必要になってくるんですけど、でも実際問題としては、その修行者とね、それから至高なる存在とのやりとりというかな、ゲームなんだね。
◎われわれの人生でも
で、これはもう一回、何度も言うけども、実際みなさんみたいに修行の道に入ってる人にとっては、そのレベルの違いこそあれ、ナーローが経験したようなさまざまなこういったことっていうのは、実際起きています。もちろん、修行してない人にも起きています。しかし修行していない人の場合は、さらにレベルが違うと思ってください。
っていうのはその、ここでいう「修行していない人」っていうのは――まあ修行してないっていうよりも、あまりまだ真実とかを志向してない人ですね。例えば真実を知りたいとか、あるいは悟りたいであるとか、あるいは自分を本当の意味で向上させたいとか、そういう段階にまだ入ってない人は、神のそういったいろんな仕掛けも当然まだゆるい。ゆるいっていうか、どちらかというとそれはそっちの方向に持っていくような仕掛けがいろいろこう続きます。で、そうじゃなくて本気でその人が、「いや、わたしはもうこの人生、神を悟るためだけに使いたい」とかね、あるいはそこまでいかなくても、「わたしはいろいろ人生あるけども、一生懸命修行して、真実をこの目で見てみたいな」とかね、そういう気持ちが自分の中の何割かでも出てきた人にとっては、神は、まあいってみれば「よし、その段階に来たか」と。「よし、じゃあそういうシステムを発動させましょうか」っていう感じになってくるんだね。
こういう関係性が――もう一回言うけども――レベルは違うけども、このナーローが経験してきたことと同じことを、われわれは日常的に経験しています。ここで日常的に経験してるって言ってるのはつまり、おそらくみなさんはそのほとんどを気づいていない。ね。これはこのナーローの話見れば分かるでしょ? ナーローもほとんど気づかないんです。客観的に物語として読むとね、「なんでまたはまってるの?」と。「なんでまた気づかないの?」って感じがするんだけど、もうはまってるときは気づかないんだね。
ただわれわれの場合は、こんなにナーローほどダイナミックな話ではない。そうじゃなくて、非常に日常的な人間関係の中で、あるいは自分の人生のいろんな出来事の中で、われわれはこのナーローがはまってるような、何度もいうけど、レベルは違うけどもいろんな神が与えた仕掛けにはまるんだね。その中でいろんなことに気づきながら、自分を成長させていかなきゃいけない。
もちろん必ずしもそれで成長できるとは限らない。神が与えてくれた気づきのためのチャンスの連続ではあるんだが、そこで例えば自分の心が弱かったり、あるいは不誠実だったり、いろいろすると、当然それを見間違えてね、どんどん悪化していく可能性もあります。もちろん大きな意味でいうと悪化さえも神の計画ともいえるんだけども、でもまあ悪化せずにどんどんどんどんこう進んで行ければ、それは一番すばらしいね。
はい、だからちょっとそういうね、前提を持って聞いてくださいね。つまり何度も繰り返すけれども、レベルは違うが同じことがわれわれの人生に起きているんだってことですね。
はい、じゃあそういう観点でね、読んでいきましょう。