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三つのヨーガ

 今朝、インスピレーションが沸いたので、簡単にまとめてみたいと思います。

 ヨーガにしろ仏教にしろ、その修行法の真髄は、以下の三つのヨーガにまとめられるのではないかと思います。そしてもちろんこれらはすべて同時に進められていかなければなりません。
 ※各ヨーガの名前は、便宜上、私が今考えたものなので(笑)、実際にこういう名前のヨーガが経典等にあるというわけではありません。

1.ダルマ・ジュニャーナ・スムリティ・ヨーガ
  (学習と思索と正念のヨーガ)

2.サンニャーサ・サマーディ・プラジュニャー・ヨーガ
  (放棄と瞑想と智慧のヨーガ)

3.バクティ・カルマ・カルナー・ヨーガ
  (帰依と行為と慈悲のヨーガ)

 それでは、一つ一つ簡単に説明してみましょう。

1.ダルマ・ジュニャーナ・スムリティ・ヨーガ
  (学習と思索と正念のヨーガ)

 最初のヨーガは、正しいダルマ、すなわち正しい教え、正しい真理の概念的情報にかかわっています。
 このような教えをまずしっかりと学習します。それは本を一回読むというレベルの話ではなく、まあ極端に言えば、口から自然に経典の内容が出てくるくらい、教えを繰り返し繰り返し、頭と心にインプットするわけです。
 そしてそのインプットされた教えに思索を加えることによって、それはより強く心に根付きます。
 さらに日々、その教えを心から離すことなく生活する訓練をします。
 ここにおいて、多くの失敗があるでしょう。自分の心の汚れに気づかされたり、自分の理解が机上の空論に過ぎなかったことに気づかされるでしょう。それはそれでかまいません。実生活で教えを実践しようとして成功したり失敗したりした経験をフィードバックし、再び教えを学び、経験を元に思索することによって、心の修正を図るのです。そして再び実生活での教えの実践にトライしていくのです。これにより、自分の心・言葉・行為が、すべてダルマと自然に一致するような状態を作っていくのです。

2.サンニャーサ・サマーディ・プラジュニャー・ヨーガ
  (放棄と瞑想と智慧のヨーガ)
 
 これは仏教的に言うと戒・定・慧ですね。
 私たちが本当に智慧を得るためには、サマーディに入らなければなりません。
 そしてサマーディに入るには、それを邪魔する雑念、煩悩、エゴを、放棄しなければならないのです。
 ラーマクリシュナはそのために、『女と金に少しでも心が向かう者は神を悟れない』という、厳しくもシンプルな教えを説きました。
 お釈迦様やパタンジャリは、五戒や十戒などの戒律によって日々の生活を縛ることで、放棄の状態を作り上げようとしました。
 現代の欲楽に満ちた日本の生活の中で完全な放棄というのは難しいかもしれませんが、それでも日々、放棄ということを念頭において生きるべきですね。一切のものを必要とせず、ただ与えられたものに満足し、心に執着も怒りもこだわりも持たず、ただ前述のようなダルマの教学と思索と実践の繰り返しに励むのです。
 そうすると徐々に、サマーディの力がついてきます。最初はそれは、教えの概念的理解と同時進行で進んでいくでしょう。そして徐々に、概念を超えたサマーディへと進んでいきます。
 そしてそこには必ず、至福があり、心の寂静があり、光があります。この三つのどれか、あるいはどれも生じていないとしたら、それはまだサマーディの入り口にも至れていないといえます。どのような瞑想であれ、成功すればそれは必ずこの至福、寂静、光は生じるのです。
 そしてサマーディによって真実の世界にアクセスし、浸り、その深奥から発する智慧の光に触れ、それを自分のものとしていくのが、智慧の修行といえるでしょう。
 そしてこのヨーガの真髄は、いかにこのサマーディと智慧を、日常において持続させるかです。
 まずは座った状態でサマーディや智慧の経験を深め、そしてそれを日常のさまざまな活動をしながらも持続させるようにしていくのです。
 普通は、日常のさまざまな概念的思考、しかもそれは汚れを多く含んだ概念的思考によって、私たちはサマーディからはじき出されます。だから基礎に、日ごろからの放棄の心と実践が必要なんですね。
 言い換えれば、放棄とはストイックなものではなく、最高の大楽とサマーディと智慧を常に味わうために、それを邪魔する低級の心の喜びを捨てる訓練ともいえるでしょう。

3.バクティ・カルマ・カルナー・ヨーガ
  (帰依と行為と慈悲のヨーガ)

 喜びも苦しみもすべてを神(如来)の愛と見て受け入れ、神に感謝して生きるバクティ・ヨーガ。
 神(如来)の僕として、神の『ただの道具』として、できるだけ神の意思に違わずに、神から与えられた使命を全力で生きるカルマ・ヨーガ。
 衆生の苦悩を哀れみ、衆生の悟りのお手伝いのために人生をささげ、奉仕する慈悲の実践。
 この三つは同一です。
 なぜなら神の意思とは、すべての衆生が悟りを得、純粋な真理・智慧・至福の世界に帰ることであるからです。
 このヨーガの実践においては、未来に期待や不安を抱くことなく、過去の後悔や思い出に浸ることなく、ただ今この瞬間、神や如来に対して、完全に心を開き続けることが重要です。
 それにより、成功にも失敗にもとらわれず、好きも嫌いも超越した心の状態で、ただ神の意思である慈悲の実践に励むのです。
 この実践こそが最高の道であり、ヨーガや仏教の最初であり最後であり、最高の至福をすべての衆生にもたらす道であるといえるでしょう。

 正月からこのようなインスピレーションが沸き、皆さんにこのように伝えることができることを、すべての如来方と、グル、イダム、ダーキニーたちに感謝いたします。

 世界が限りなく純粋でありますように。

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