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龍樹版スートラ・サムッチャヤ 一.序

龍樹版スートラ・サムッチャヤ

はじめに

 ナーガールジュナ(龍樹)の著作である可能性がある作品の中で、「十住毘婆沙論」は、いまだに謎の多い作品である。現在、漢訳のみが存在し、サンスクリット原典や、チベット語訳は見つかっていない。
 この作品は詩と散文で成り立っているが、最新の研究では、少なくとも詩の部分に関してはナーガールジュナの作であろうという意見が主流のようである。

 またこれは、長年、「十地経」の解説書であるという説が一般的であったが、最近の研究では、そうではなく、大乗菩薩道について、ナーガールジュナが様々な経典を引用しつつまとめたものではないか、という説も出ている。

 ところで、チャンドラキールティはその著作の中で、ナーガールジュナの作品一覧を載せているが、その中で「スートラ・サムッチャヤ(経集)」という作品が出ている。そしてこの「スートラ・サムッチャヤ」がこの「十住毘婆沙論」なのではないかという説も、一部にある。

 ところで、シャーンティデーヴァの「入菩提行論」の中に、次のような一節がある。

「またシクシャー・サムッチャヤは、必ず繰り返し見るべきである。何故なら、正しい行法がそこに詳しく示されているから。
 あるいは簡単に、まずスートラ・サムッチャヤを見よ。そして聖ナーガールジュナの作を、第二に努力して読め。」

 この一文は意味が取りにくく、謎とされてきた。しかし「スートラ・サムッチャヤ」という作品に、シャーンティデーヴァ作のものとナーガールジュナ作のものがあったと考えるとつじつまが合う。

 つまり、まとめるならば――これは今のところ、おそらく私だけの説であるが――シャーンティデーヴァが「入菩提行論」で読むことを進めている「スートラ・サムッチャヤ」には、シャーンティデーヴァ作のものとナーガールジュナ作のものの二つがあり、そのナーガールジュナ作のスートラ・サムッチャヤこそ、この「十住毘婆沙論」なのではないかと、私は推察している。

 シャーンティデーヴァの作とされるほうのスートラ・サムッチャヤは、すでに「菩薩道の真髄」という本に抄訳を収めているので、今回新たに、この一般にはあまり知られていない「十住毘婆沙論」の詩の部分を、「龍樹版スートラ・サムッチャヤ」として、わかりやすい日本語としてまとめてみたいと考えた。

 ただし私は学者ではないので、学術的な正確さよりも、わかりやすさや、真の意味の伝わりやすさに重点を置き、まとめていくつもりである。その基準において、通説よりも、私自身の修行経験を基準とすることもあるので、ご了承頂きたい。
 また、わかりにくい部分や、今回必要ないと思われる部分は独断でカットしたり、言葉を付け加えたりするつもりなので、学術的に正確に訳された「十住毘婆沙論」を読みたい方は、新国訳大蔵経などを参照して頂きたい。

龍樹版スートラ・サムッチャヤ

一.序

 すべての仏陀方と
 無上の大道と
 および堅固な心で十地に住する諸々の菩薩方と
 「私」「私のもの」という思いなき、声聞・独覚とに
 礼拝し奉ります。
 今、仏陀の所説に随順し、十地の意味を説こう。

 世間は哀れむべきである。
 常にみな、自利において一心に富楽を求め、
 誤った見解の網に堕し、
 常に死の恐れを抱いて、
 六道の中に流転する。
 大悲ある諸々の菩薩方でも、彼らをよく救うことは希である。

 衆生に死がやってくるとき、
 彼をよく救済する者はなく、
 深い暗闇に没入して、
 煩悩の網に縛せられる。

 もしよく大悲の心を発願する者があれば、
 彼は、衆生の重荷を背負うという、重い責任を負う。
 もし人が、決定心をもって、一人諸々の苦しみを受け、精進に励み、
 それによって得られる安穏の果報を、すべての衆生と共に受けるならば、
 彼は諸々の仏陀方に称賛せられる、第一の最上の人である。
 また彼は希有な者であり、大いなる功徳の蔵である。
 
 諸々の功徳ある人は、種々の原因と条件をもって、
 衆生に利益を与えるは大海のごとく、また大地のごとし。
 世間を求めることなく、ただ衆生への慈悲によって世間に住する人
 彼の生は最も貴いものとなる。

 私は、自らをよく見せるために、文章を荘厳することはない。
 また、現世的なメリットを貪りたいがために、この論書を作るのでもない。
 私はただ慈悲によって、衆生に利益を与えたいがために、この論書を作るのである。
 それ以外の理由で、この論書を作るのではない。

 ただ仏陀の経典を読むだけで、究極の意味に通達する者もいる。
 善き解釈を読んで、実際の意味を理解する者もいる。
 人には、荘厳された美しい文章を好む者もいる。
 詩を好む者もいれば、
 たとえ話や、物事の因縁の話を好み、それによって理解を得る者もいる。
 このように人は様々なので、私は誰のことをも捨てることはない。

 もし大いなる叡智のある人がいて、仏陀の経典を聞くならば、
 さらなる解釈を聞かなくとも、十地の意味を理解するだろう。
 しかし経典だけでは理解を得がたい人でも、
 詳しい解説書を作るならば、彼には大きな利益があるだろう。

 このように考えて、私は深く善の心を起こして、この論書を作る。
 そしてこの法の灯火を燃やすことで、仏陀への無比なる供養をする。

 法を説いて法の灯火を燃やし、
 法の旗をたなびかせる。
 この旗はこれ賢聖の
 素晴らしきダルマの印相なり。
 
 私は今、この論書を作ることで、
 真理と放棄と滅と智慧との
 この四つの功徳を、自然に修め集めるだろう。

 私はこの論を説き、その心は清浄を得る。
 深くその清浄なる心を貪るがゆえに、私は精進して飽きることがない。
 もし人がこの教えを聞いて、心清浄になるならば
 まさにそれは私の願うところであるがゆえに、私は一心にこの論書を作るのだ。

 

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