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解説「彼岸に至る道の章」第一回(1)

2007年8月22日

解説「彼岸に至る道の章」第一回

 はい。今日は『スッタニパータ』の第五――「彼岸に至る道の章」っていうところですね。
 これはちょっと序文が長いので、序文っていうかこの前段階のストーリーをちょっと説明しますと、まずバーヴァリっていう修行者がいて。このバーヴァリさんっていうのは百二十歳ぐらいの長老――で、まあ仏教徒じゃないんだけど、バラモン教の聖者ですね。で、まあ、ある程度の悟りと、ある程度の力を身につけていたようなんですが、完全な悟りを得てるわけではない。そのバーヴァリさんっていう人がいたわけですね。
 で、そのバーヴァリさんのところにある修行者がやってきて、で、バーヴァリさんはそのやって来た修行者をもてなすわけですが、もてなしたときに、そのやって来た修行者はバーヴァリさんに対して、多額のお金を要求するんですね。つまり、わたしは偉大な聖者だから、多額のお金を持ってきなさいって言うんですが、このバーヴァリさんは、まあもともとお布施とかが大好きで、もうお布施をいっぱいしちゃってお金を持ってなかったんだね。だから、「いやあ、実はもうたくさんお布施してしまったところで、金品はわたしは今持ってないんです」と答えたら、そのやって来た修行者が「なんだと!?」と。「わたしに多額のお金を持って来ないんだったら、おまえの頭は裂けてしまうだろう」と。「頭が七つに裂けてしまうだろう」って言って、なんか呪文を唱えるような仕草をしたらしいんだね(笑)。で、それでバーヴァリさんは――まあつまりバーヴァリさんっていうのは、ある程度智慧はあったんだけど、まだ完全な智慧があるわけじゃないから、そのインチキ修行者のことが見抜けなかったんだね。だからそのインチキ修行者が「おまえは頭が裂けてしまうぞ」って言って呪いをかけたような仕草をしたので、それを信じてしまって、ものすごく不安になってしまった。不安になってしまって、夜も寝られなくなったわけですね。
 で、そうやって不安でいたら、ある神がバーヴァリさんのところにやって来て、「君は心配するな」と。「あの修行者はインチキ修行者だ」と。つまりただお金が欲しいからああいうことを言って脅してるだけだと。彼は――まあ、頭が裂け落ちるというふうに脅し文句を言ったんだけど――彼は頭がなんであるかについて理解していないし、頭が裂け落ちるということについても全く理解していない――っていうふうに、バーヴァリさんにそのある神が言ったんですね。で、そこでバーヴァリさんは、「じゃあ、誰が頭と頭の裂けることについて理解しているのですか?」ってその神に聞いたところ、その神様は、「それは釈迦族出身のゴータマ・ブッダ――つまりお釈迦様。お釈迦様という偉大な仏陀が今現われた」と。「彼こそが頭と頭の裂けるっていうことの意味について知っている」と。「だから彼に聞きなさい」っていうことを言ったわけだね。
 で、この当時、このバーヴァリさんは百二十歳ぐらいだったので、まあ大変なおじいさんだった。そしてそのバーヴァリさんがいた所とお釈迦様がいた所はかなり離れていた。だから自分で旅をしてお釈迦様のところに行くことができなかったんだね。ただ、バーヴァリさんには多くの弟子がいた。で、その中で高弟の十六人を呼んで、頼んだわけだね。「おまえたちはお釈迦様のところに行ってくれ」と。「お釈迦様という偉大な仏陀が現われたそうだから――そこに行って、頭と頭の裂けることについてたずねてくれ」と。そういうふうに頼んだわけですね。そこでこの十六人の弟子が、お釈迦様を探して会いに行くわけですね。
 しかしこの十六人はお釈迦様のことを知らなかったので、どうやってお釈迦様だと分かるのかっていう質問をバーヴァリにしたところ、まあ、よくいわれるところの、仏陀の三十二相ってあるわけですが――仏陀っていうことを表わす印がいろいろあるんだね。まずそれを見なさいと。で、お釈迦様はそれを全部備えてると。で、もう一つ、お釈迦様らしき人に会ったら、心の中で質問しなさいと。心の中で、バーヴァリのことについて質問しなさいと。もし彼が仏陀ならば、心を読んで答えてくれると。そういうことをその十六人の弟子に頼んだわけだね。そしてその十六人の弟子は、お釈迦様を探す旅に出るわけです。
 で、いろいろ長い道のりを経て、やっとお釈迦様のところにやってきました。そしてその十六人の弟子は、バーヴァリに言われたように、まずお釈迦様のいろんな体の相を見た。そしたら完璧にその仏陀の相を備えていることが分かった。で、次に、まあバーヴァリに言われたとおり、心の中で質問したわけです。それは、「バーヴァリについてその特徴を述べてください」と。そしたらお釈迦様はそれを読み取って――つまり誰も口では何も発していないのに、いきなりお釈迦様が、「いや、あなたたちの師匠のバーヴァリというのは百二十歳で、こういう教えを身につけていて、で、このような弟子たちがいる」っていうふうに答えたんだね。それでその十六人の弟子たちは、「ああ、この人こそお釈迦様である」と感動して、質問するわけだね。
 ここまでが序文です。ここから、今日の経典が始まります。

第五 彼岸に至る道の章

1、序

(前略)

 アジタが言った。
「バーヴァリは、頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。
 先生! それを説明してください。
 仙人よ! われわれの疑惑を除いてください。」

 ゴータマ・ブッダは答えた。
「無明が頭であると知れ。
 明智が、信と念とサマーディと決意と努力に結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

 はい。もともとこの、偽修行者が言った、「おまえは頭が裂け落ちるぞ」――これは、なんていうかな、古代のバラモン教というか、インドのいろんなそういう教えの中で、よく出てくる言葉らしいんだね。「こういう悪いことをすると頭が裂け落ちる」とか、そういう表現っていうのはね。で、まあそれが、よく言葉としては使われてたんだけども、誰もその真の意味っていうのを理解していない。つまり単純にそれはここに頭があって、その頭がほんとに落ちるっていうことではないんだと。もちろんこれは実際は、ほんとに頭が落ちることを指してたのかもしれないけど、それをお釈迦様が逆手にとって、真理を説いたのかもしれないけどね。
 で、ここでお釈迦様が見事に答えたのが、まず「無明が頭であると知れ」と。そして、明智――つまりこれは無明の逆だね。「明」、これが「信と念とサマーディと決意と努力に結びついて、頭を裂け落とさせるものである」と。
 『スッタニパータ』って、いつも言うように、非常に原始的な経典なので、解釈はいろいろできると思います。つまり、のちのちの、いろいろほんとにきれいにまとめられたものではなくて、かなり原始的な部分が残ってるので、いろんな解釈ができると思うね。だから今日もちょっと、わたしの解釈も入れつつ説明したいと思いますが、「無明が頭であると知れ」と。これは単純に、頭が裂けるイコール無明が破壊されると引っ掛けたって考えもできるけども、わたしはもうちょっと深い部分があるんじゃないかと思います。つまり、無明が頭であると知れ。逆の言い方すると「頭は無明であると知れ」と(笑)。
 つまり、われわれが、この――いつも言うけど、われわれの、なんていうかな、意識の本性っていうのは、もちろんこの大脳には由来していない。つまり大脳を超えた本質っていうのはあるわけだけど。じゃあ大脳ってなんなんだっていう話がある。だって実際問題として、生命学上は大脳の動きによってわれわれは思考活動を行なってるみたいだと。わたしは、大脳っていうのはやっぱりハードだと思うね。ハードっていうのはコンピューターみたいなもので。コンピューターのいろんな、まあCPUであるとか、それがまあ大脳であって。で、それを使ってる、もっと奥にいる、その主人みたいなものがいる。でもわれわれは、この単純に入ってきた情報を処理してる、この大脳っていうコンピューターを、まあ「わたし」と考えてる。「わたし」が今考えてるんだとか、「わたし」が今こういうふうに思ったんだっていうふうに思っちゃってるよね。これが、いってみれば無明の始まり。
 つまりこれは、ほんとはわれわれの、物事をありのままに見る智慧――いつも言うけど、物事をありのままに見る智慧っていうのは、これがここでいう明智っていうものですが。明智っていうのは、経験に左右されないんです。つまり、「こういう経験したから、ああ、これは嫌だな」とか、「いいな」とか、「ああ、この人はいい人だ」とか、「悪い人だ」とか、そんなんじゃないんだね。もうストレートにありのままに見る力なんだね。でもこの脳っていうのは、あくまでも記憶領域だから。経験を蓄えて、で、そこで「ああ、いいな」「嫌だな」っていうのをいろいろ考えたりする。で、それによってわれわれは本質からどんどんどんどん外れていく。だから、無明が頭であると知れ、っていうのは、まあ逆にいうと、「頭が無明であると知れ」っていうような意味もあるんじゃないかなっていうふうに思うね。
 そしてその、単に経験にとらわれて、どんどん迷妄に入っていくその無明を裂けさせるもの――それが明智だと。これが明智だっていうのは当たり前の話なんですけど。明智っていうのは無明の逆だから。つまり、無明が晴れて――ヴィディヤーっていうわけですが、悟りの、智慧の光が輝きだした状態だね。

 で、それが、「信と念とサマーディと決意と努力に結びついて」って書いてるね。これはあの、ちょっと順番を入れ替えると、仏教の修行法でいうところの「五根五力」っていうのと同じだね。五根五力っていうのは、信と精進――努力ですね――信と努力と念とサマーディと、それから智慧なんですね。で、プラスここでは決意って入ってますが。
 これはね、『ヨーガスートラ』でもやったけど、『ヨーガスートラ』にも全く同じこの言葉が出てくるんです。だから当時のヨーガにしろ、仏教界にしろ、この修行における重要な項目として、この五つないし六つがあったんだろうね。
 だからちょっとこれ、順番をもうちょっと分かりやすく入れ替えると、まず信――強い信を持つこと。つまり修行に対する信、あるいは仏陀に対する信。あるいは自分は必ず智慧を悟ることができるんだっていうことに対する信。
 そして決意。つまり「わたしは必ず無明を打ち破るぞ」っていう決意。そしてそれに基づく努力ね。つまり信を持ち――つまり信っていうのは「信じてます」と。決意っていうのは「やるぞ」と(笑)。決意っていうのは、だから覚悟があるわけだね。例えば、「わたしは仏陀のことを、もう完璧に信じています。しかし修行はちょっとつらいからいいです」――これは、信はあるけど決意がない。だから信があって決意があるっていうのは、信があり、しかも「わたしは絶対にこの道を歩むんだ」っていう決意。で、それに基づき、当然努力がくる。で、念ね。念っていうのはいろんな意味がありますが、常に正しい思いを持ち続ける――簡単に言うとね。そしてそれらを土台としてサマーディ、ほんとの意味での瞑想状態に入り、そして最終的に明智――つまり正しい、明らかな智慧を得ると。はい、ここがまあ、お釈迦様の答えだね。
 つまりバーヴァリが偽の修行者の言葉に惑わされて、単純に「ああ、おれの頭は裂け落ちてしまうのか」って悲しんでるときに、お釈迦様は全然違う観点からビシッと真理を説いたわけだね。「無明こそが頭である」と。で、信と念とサマーディと決意と努力をもととした明らかな智慧を得ることによって、無明が裂け落ちるんだという、素晴らしい答えだね。

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