解説「菩薩の生き方」第二十八回(1)

2019年2月23日
解説「菩薩の生き方」第二十八回
はい。では勉強会に入りましょう。
いつも言うようにこの『菩薩の生き方』はシャーンティデーヴァの『入菩提行論』という聖典の解説書ですね。聖典を解説した本なので、その勉強会ですので、さらに、なんというかな、細かく全体像をね、見ていく感じになります。
はい。ちょうど今日ね、歌った、入菩提行論の歌のパート2の、後半の部分に当たりますね。「正智の守護」の後半ですね。
【本文】
肉を貪るハゲタカによってあちこち引き回されながら、何ゆえに(死者の)身体は、なんらの抵抗も試みないのか。
心よ。何故に汝は、この集積(身体)を自己のものとして守護するのか。もし汝とこの身体とが別のものなら、それ(身体の被害)によって、汝に何の損失が及ぶか。
ああ、愚かなる者よ。汝は清潔な人形を自己のものとしているのではない。何ゆえに汝は、この汚物で作られ、悪臭を放つ機械を守護するのか。
まずはじめに、自己の思念の力によって、この皮膚なる覆いをはがして考えよ。次に智慧の刃によって、骨組みから肉を切り放て。
さらに、一つ一つの骨を離し、中にある髄を見よ。そして、そこに何か本質的なものがあるかどうかを、自ら考察せよ。
かように努力をもって探求しても、汝に本質的なものは認められない。(それなのに)何ゆえに未だに身体を守護するのかを説け。
汝は不浄物を食うこともできず、血を飲むこともできない。また腸を吸い取ることもできない。身体は、汝に何の用があるか。
それは、(ただ)ハゲタカ、山犬などの餌食となるために守護に値している。この身体は、人間にとっては行為の用具である(に過ぎない)。
汝がかように守護しても、無慈悲な死神は、身体を奪い取って、それをハゲタカに与えるであろう。そのとき、汝はいかになしうるであろうか。
召使が「家にとどまらないであろう」と考えられる場合に、主人は彼に衣服等を与えない。(召使のような)この身体は飽食した後に去り行くであろう。何ゆえに汝はそれのために浪費をするのか。
心よ。彼に賃金を払い、その後に、今、自己の利益となることをなせよ。なぜなら、雇い人の利益のすべてが彼に与えられるべきではないから。
行き来にそれを利用するから、身体を船と考えるべきである。そして衆生の利益を成就するために、身体を思うがままに行かしめよ。
【解説】
お釈迦様は老人、病人、死人を見て世の無常を悟り、修行の道に入ったといわれますが、現代の日本においては、家族などが亡くなった場合以外、なかなかリアリティを持って死体と向き合うということはなくなっていますね。
インドのヴァラナシなどでは今でも山積みにされた死体が焼かれていく光景や、その横には死の寸前の人たちが死を待つ小屋などもあります。チベットには鳥葬の伝統がありますね。現代のインドで、街中で死体を見かけるということはあまりないかもしれませんが、このシャーンティデーヴァ在世時のインドでは、そういうこともたびたびあったと思われます。
そのようにリアルに死体というものを観察すると、それはハゲタカに食われても、焼かれても、何をされても、何も抵抗をしません。つまり当たり前のことですが、肉体そのものにはそもそも意志はありません。我々が心と呼んでいるものと肉体とは、そもそもが別のものです。
そもそも別のものなのですから、たとえばこの肉体がダメージを受けても、本来、心には関係がないではないかというのです。これは、つまり、強すぎるこの肉体への執着(有身見)を取り除くための観想の仕方が、このあともいろいろと続いていくわけですね。
この肉体が単なる機械仕掛けの人形だとして、それが非常に清潔で美しいならば、それに執着してしまうこともまあ理解できるでしょう。しかしこの肉体という機械は本来、非常に不潔なのです。中は糞尿で満ち、あちこちの穴から汚物が流れ出します。皮膚からは垢やふけが出ます。こんなものに執着する価値などないではないかというわけですね。
そして瞑想によって、解剖学的に、自分の肉体の内部を観察していきます。現代では皆さんある程度人体の解剖学の知識はあるでしょうから、皮をはぐと、筋肉があり、脂肪があり、筋があり、内臓があり、骨があり・・・といったことを観察していくわけですね。そして身体の支柱ともいえる骨、その骨の中の髄を観察しても、どこにも「私」と言い得る本質的なものは発見できません。そういうことを観察し、納得していくわけですね。
はい。このパート、「正智の守護」といってるわけですけども、この正智っていうのは、いつも言うように、正確には念正智、つまり正念正智っていう言葉がありますけども、まず正念っていうのがあって、正しい念ですね。その正しい念がちゃんとできてるかどうかをしっかりと観察してチェックすると。それが正智であると。だからこの正念と正智はセットになってる。
で、その正しい念、正念とは何かっていうことになるけども、これが、何度もね、このテーマで話してるけども、かなり多様性があるんだね。で、この念っていうのは、まあパーリ語でサティ、サンスクリット語でスムリティといって、これを英語に訳したときに、いわゆる今流行ってるマインドフルネスね、マインドフルネスって言葉をあてたわけだけども。で、現代では、ちょっと現代的にいろんな人がいろんなこと言って、マインドフルネス瞑想とかが流行ってるけども、本来のマインドフルネスは、今いわれてるようなものではない。ただ、さっきも言ったように、かなり多様性がある概念であることは間違いないね。
で、その中の一つ、例えばそれは念っていった場合、例えば日本でも念仏とかいいますけども、これも一つの確かに念の一つなんだね。つまりブッダを念ずると。ひたすらブッダだけを念じ続けたら、それはブッダへの正念ってことになる。そういうふうに単純に聖なるもの、正しいものにずーっと心を向けることも念っていうんですけども。
念の修行における基本的なものの一つとして、いわゆる四念処ってのがあるわけですね。四つの念の修行というかな、その一番基礎として一番最初に来るのがこの、ここでテーマとして出てくる、身体、つまり肉体に対する念っていうのが最初に来るんですね。
つまりわれわれは、自分の心の本性、つまり自分っていうのは――これは仏教だけじゃなくてヨーガでも、というよりヨーガの方が結構そういうこと言うわけですけど、ジュニャーナヨーガとかでは特にね――「わたしとは何か」と。われわれが「わたし」って言ってるこの「わたし」、どこにあるんだと。「わたし」の本質を探っていくわけだね。で、最もまずわれわれが一番最初に「わたし」とものすごく錯覚してるっていうか思い込んでるのが、この肉体だと。で、この肉体はわたしの本質とはなんの関係もないんだよと。そういう悟りというか理解を得ない限りは、われわれは、なかなかこの肉体から解放されないと。あるいは肉体のカルマから解放されない。肉体のカルマから解放されないっていうことは、イコール、この生まれ変わりの世界、輪廻から解脱できないっていうことです。
われわれがどんなに嫌がっても、何度も何度も――もちろん人間とは限らないよ。動物かもしれない、地獄の住人かもしれない。どっかの肉体を持つ者のところにまた生まれ変わってきちゃうと。なんでかというと、われわれが肉体こそわたしだと思っちゃってるから。ほんとは関係ないんだけど、思っちゃってるから、また死んだあと、肉体を求めどっかに生まれ変わっちゃうわけだね。
だからまずわれわれは、この肉体というものは全くわたしの本質とは関係ないんだよということを、いろんな角度から、理解し分析して悟らなきゃいけない。その一端がここにはいろいろ説かれてるわけですね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第二十七回(10) -
次の記事
ヨーガ講習会のお知らせ(広島・沖縄・福岡)
