解説「菩薩の生き方」第二十七回(7)

「常に寂静の心を保つ。」
これもさっきの不動、心を動かさないっていうのと、まあ同じようなものですけどね。われわれは心を寂静にすることによって、なんていうかな、善い思い、あるいは正しい選択をしやすくなると。じゃなくて心が動いてたり、あるいは怒りや執着やいろんなもので濁ってたりすると、当然選択を間違えますよね。よって常にこのベースとして、つまりシャーンティだね、シャーンティ、寂静なる安定した心をベースに常に保つ努力をしなきゃいけない。
だから逆の言い方をすると、なんか今、自分の心が怒りでちょっと苛立ってるなとか、あるいはなんらかの執着でちょっと落ち着かない状態にあるとか、そういうときは、「これはまずい」と思ってなんらかの修行、あるいは教え等によってそれを寂静に戻す修習をね、しっかりとしなきゃいけない。
「愚者の意味のない欲望を見ても意気消沈することなく、彼らも煩悩の魔に巻き込まれた哀れな者たちだと、慈悲の心を持つ。」
はい、これはちょっと前提としてこの本文を見ると、つまり、「(衆生を)なだめることに専心し」ってあるね。「なだめる」っていうのはちょっとあいまいな言い方だけど、つまり衆生を救うと。あるいはできるだけ衆生の、いろんな意味でね、助けとなると。いろんな意味でっていうのは、最終的には衆生を解脱させる、これが菩薩の願いであると。でもまだ相手がその段階じゃない場合は、ある程度教えを話せる範囲から話してあげたりとか、あるいはそこまでもまだ行っていない場合は、いわゆる安らぎ、いろいろ苦しんでる人に、まだ法を説けないとしても、安らぎを与えてあげるとか、いろんな段階があるわけだけど、そのように衆生の幸福のために働くと。それに専心すると。
でもそうやってると、ここにあるように、皆さんからするとですよ、つまり真理の教えを学んで頑張ってる皆さんからすると、「愚者の意味のない欲望に倦んで飽きる」、つまり意気消沈することがあると。
こういうのは皆さん経験あるかもしれない。つまり皆さんはカルマが良くて今修行してるわけだから。その観点からするとですよ、例えば皆さんにとっての家族だったり、友人だったりっていうのが、「またなんでそんなことで怒って」とか、「そんなことでお金使ったってしょうがないじゃない」とか、いろいろあるよね(笑)。あるいは「えー、またそんなことやってんの」と。あるいは「そんなことで悩んでもしょうがないって言ったじゃん」と。で、そこで呆れた気持ち、あるいはため息、あるいは意気消沈とか出る場合がたぶんあると思うんだね。つまり、もう一回言うけども、例えば、ある程度もうそういう道に入ってる後輩だったらいいよ。後輩だったら、「おお、君、修行の道に入ったのか」と。「え、どれくらい修行やってるの」と。「あ、そんな頑張ってるんだ」と。「でもまだそこができないんだ」と。「それはわたし、こうだったよ」って体験を話してあげたりして、「こういうふうにしたらもっと頑張れるよ。頑張ろう」と。これは爽やかな後輩ですよね(笑)。爽やかな後輩っていうか、ね、お互いに心が明るくなるような、救済の対象であると。そうじゃなくて、全然もう箸にも棒にもかからないような、「何やってんの、あんた」と(笑)。でも縁が近かったり、自分しか救えないと思っていろいろ教えを言ったりとかするんだけど、もうほんとに駄目であると。そうすると皆さんは「はあ……」と、意気消沈すると。「もう、なんなの」と。でもそれはさ、自分だってそうだったわけだからね、ほんとはね。つまり過去世、それはどれだけ前か分かんないけど、皆さんが、過去世のどこかで修行を始めましたと。その前は、その前の段階の皆さんは当然、先輩方、偉大なる先達たちにそういうふうに面倒を見てもらったわけだね。そのときそう思われてたかもしれないよ。「こいつほんと、もうわけ分かんねえな」と。ね(笑)。で、そこでさ、過去の先達たちが皆さんを諦めてたら、皆さんはまだ聖なる道に入ってなかったかもしれないよね。
だからわれわれは、そこで意気消沈してはいけないんだと。だって、わたしもそうだったんだから。そして皆がこの大いなる流れの中にいるんだと。
もちろんばかにしたり、なんていうかな、卑下っていうか、悪く思ってもいけないよ。それは段階にすぎないからね。そのようなカルマがまだないと。で、それは、卑下、あるいは侮辱、侮蔑の対象ではなくて、慈悲の対象なんだと。つまり彼らはまだそのカルマがないんだと。まだそのような、真理に気付く、あるいは心がそれにピンと来る、縁やカルマが熟していないんだと。だからこの輪廻で苦しまなきゃいけない。なんて哀れなんだろうと。それは全く侮蔑の対象じゃないでしょ。慈悲の対象でしかない。ましていわんや、怒りの対象ではないと。
まあ、これは皆さん、特に家族とか、近い人にそういう感情湧くと思うけどさ、つまり真理を学んでいない家族とか友人たちが、わけ分かんないエゴを爆発させて、バーッていろいろやってくると。そうするとこっちもちょっと怒りが出るかもしれないよね。「何言ってんの、おまえ」と。「もうそれ、エゴじゃないか」とバーッて出るかもしれないけど、でもよーく考えたら、彼は怒られる対象ではなくて、慈悲を持たれなきゃいけない。だって、逃げ道がないわけだから。われわれは教えがあることによって、この輪廻からの脱却の糸口をつかんでると。でもそれをつかんでない人たちがいる。これは哀れ以外の何ものでもないと。だからそのような慈悲の思いを持って、そのような救済の対象、特にまだそのような縁がない人々に対して、そういう目を持って見なきゃいけない。
「倦んで飽きることなく」っていうのは、これも何度も言ってるように、そのような、なんていうかな、つまり――いつもさ、一つの大義名分のように、スローガンのように、「一切衆生をこの輪廻から救おう」みたいな、「それが菩薩である」っていうことを言うけどさ、それはもちろんものすごく大変なことなわけだね。つまり今も言ったように、まだ縁がない魂もたくさんいると。そのカルマがない魂がいっぱいいると。そのような魂に何度も何度も教え込んで、引っ張って引っ張って――で、あの観音菩薩の話にもあるように、引っ張っても落ちるかもしれないよ。これは仮の話としてね。例えば皆さんが一生を懸けてね、ある一人の人を育てたとするよ。自分と縁があって、「あなたに一生懸命修行させたい」と。もう一生懸けて、自分の全人生を懸けて、なんとか引っ張って、なんとか引っ張って、なんとか、修行者の卵みたいな状態まで持っていったと。――ラーマクリシュナが言うようにさ、仮に一生懸けて一人でも救えるならそれは素晴らしいと。もちろんかっこよくさ、バーッて「一万人ぐらい解脱させた!」――これはかっこいいよ。でもそこまでいかなくても、泥臭く、全人生を懸けて一人救いましたと、これでも最高の価値ある人生です。だからそういう思いで一人を、もう全人生を懸けて引っ張りましたと。で、自分が死ぬちょっと前くらいにその一人が、修行をやめましたと。「おまえ、おれの人生なんだったんだと」(笑)。でも、そう思ってはいけない。意気消沈してはいけない。なぜかっていうと、そういうもんなんです、もともと。もともとそういうもんです。落ちるの当たり前なんです。でもそれでもまた諦めないでやんなきゃいけない。で、次の生もそいつと出会っても、諦めちゃいけないよ(笑)。次の生、生まれ変わって、「またおまえか!」と(笑)。「おまえ、過去世のことを覚えてるか」と。「覚えてないだろうけど、おまえのために一生を棒に振ったんだ」と(笑)。でもまたやんなきゃいけないよ。「あーあ」とか思っちゃいけない(笑)。また人生を懸けて彼のために――もちろんその人だけじゃないけども、ね、何度相手に裏切られても、何度相手が自分の期待を裏切っても、全く、ある意味、精神的にも意気消沈してはいけないと。そして飽きることなく、つまりカルマヨーガ的に、「さあ、次から次へと、目の前の自分がやるべき実践に全力で取り組んでいかなきゃいけないんだ」と。その菩提心、救済の心を決して萎えさせてはいけないんだということですね。
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