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解説「菩薩の生き方」第二十六回(7)

 「私の心は、所得と尊敬と名声を求め、あるいはまた従者を求め、奉仕を求める。」

 はい、これは今度は、ちょっと慢心が出てね――つまり修行者っていうのは常に、なんていうかな、バクティヨーガ的な言い方をすると、木のように、一切の苦難を喜んで耐え、自分は何も求めず、そしてただただ一切に果報だけを与えると。そういう存在になんなきゃいけないわけだね。
 わたし前に、これもなんかブログとかに書いたけど――夢の中で「樹の瞑想」っていう瞑想を指導してる夢を見たっていうのを書いたときがあったと思うけど。その樹の瞑想っていうのは、自分が樹になったというイメージをすると。つまり樹というのは、みんなからおしっこをかけられても怒らないと。ね。枝を折られても怒らないと。蹴られても怒らないと。あるいは自然災害として、雨に降られても、風に吹かれても、雪に積もられても、全く心を動かさないと。それどころか、そのような害を与える人に対しても、暑いときには木陰を与え、あるいは果物を与え、あるいは花を咲かせて美しい花によってみんなの心を和ませると。
 つまりそれが修行者とかバクタの理想なんだね。あるいは菩薩の理想なんだね。つまり自分は何も求めないと。ただただみんなのためになるものであって、そしていつも言うように、菩薩は特にでくのぼうのような、みんなからばかにされ、あるいは嘲笑――ね、さっきの逆で、嘲笑われたり批判されたりしても、全く問題がないと。うん。逆に大いにそういうのが来てくれと。それくらいの、なんていうかな、投げ出した――自分の人生、自分の存在を、主の御心のままにと。あるいは一切衆生の幸福のためにと、投げ出す存在でなきゃいけない。
 しかしそのような最初の理想があっても、繰り返すけど、いろいろ例えば皆さんがちょっと偉くなったり、ちょっと修行が進んでみんなから称賛されるようになると、ちょっとそういういろんな、前は考えたこともないような傲慢さが出るかもしれないんだね。
 ただ、もちろんここで書いてあるのは、さっきから言ってるように、その当時の出家修行者とかの話でもあるので、皆さんの環境とはちょっと違うかもしれないけど、昔は、だからある程度――現代のお坊さんとかもそうだけどさ、ある程度、出家の僧院で、ちょっと偉くなると、当然召使いがついたりとか、あるいはいろんな、「なんとか和尚」とか位がついて、で、名誉に恵まれて、「所得」ってあるけども、実際には昔の出家修行者は金銭は扱わないけども、ただいろんな、ね、服とか、あるいは必要品とか、そういうのを蓄えたりすると。
 つまり最初の初心――つまりわれわれは、わたしは無一物であると。修行者なんだから何もいらないんだと。あるいは、ね、ラーマクリシュナもよく言うように、神のしもべの、足の塵のそのまた塵でかまわない、ぐらいの気持ちでなきゃいけない。
 で、そのような初心はあるんだけども――繰り返すけどね、逆に修行が進むことによって環境が良くなっちゃって、そうするとこのような慢心ね。所得を求め、尊敬を求め、名声を求め、あるいは従者を求め、奉仕を求める。こういうことになっちゃうと。はい、だからこれも一つの具体的な事例としてね、そのような慢心に陥らないようにっていうことだね。

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