解説「菩薩の生き方」第二十五回(7)

はい。そして最後、ここはとても重要なところですけども、つまり、「自らの行為において、『このようにすべきである』と自分自身に指示を与えた後に、それがそのとおり行なわれているか、チェックしなければならない」と。
はい。この辺も言葉の問題になるわけだけど、つまり、まとめて言うとね、まずわれわれは教えを学びましたと。で、教えによって具体的に、自分で「このように生きよう」と考えると。で、実際に、そうですね、リアルに日々生きてると、当然、そうじゃない、つまり自分の煩悩が出てきたり、あるいは自分のけがれた思考や行動が出てきたりするよね。これで自分の課題がまずわかりますよね。はい、そこで、つまり真剣に修行しようとしてる人はそこで、当然教えによってそれを調御しようと思うわけですよね。つまり、「慈愛、慈愛とか言ってるけど、わたし今日いっぱい嫉妬しちゃった」と。あるいは「批判心が出た」と。「駄目だ、駄目だ」と。「今日からわたしは一切人を批判しないようにしよう」と。あるいは「人を嫉妬せずに人のいいところを称賛するようにしよう」と。例えばですよ。例えばこのような、教えに基づいて、自分に対して具体的な、「指示を与える」って書いてあるけども――指示を与えるっていうその発想は、これも何度か言ってるけどさ、修行の発想っていうのはさ、つまり、自分は「心」じゃないんだよ。この心っていうのは、調御されるべきやつなんです。ね。修行者の意識っていうのはもうちょっと奥にあるんです。これをまあブッディといってもいいんだけど。ヨーガ的に言うとね。その修行者としての理知、つまり理性っていうかな。一般的な、われわれが心っていってるのは、これはヨーガではマナスといって、あるいは動物意識といったりもするけども、つまり動物も持ってるような、カルマから生じる感情の働きにすぎない。これを理性によってコントロールしなきゃいけないんだね。つまり修行者が「おれは」とか考える、これは理性です。しかも修行者の理性です。修行者の理性によって、この、ね、カルマによって動き回ってる感情の意識、これをコントロールする。
それはまさに、ばかな、そして駄々っ子な子供を教育するようなもんです。だからその自分の心に対して、そのように指示を与えるんだね。「おまえ、こうじゃ駄目だよ」と。「おまえ、今日こんなに悪い心ばっかり持ってたけども、悪い表現ばっかりしてたけど、駄目だよ」と。「教えではこうだから、これからはこうしなさい」と、指示を与える。そして当然、自分で頑張ってそうしようとすると。
はい。しかし、ここでその人の真剣さが足りないと、すぐに、気付かぬうちにまた悪い心が出ると。あるいは悪い行動に出ると。よって、監視員を置くわけだね、監視。これが、言葉上でいうと「正智」っていうことなんだね。
もう一回簡潔に簡単に言うけども、念っていわれる言葉は、これは英語にするとマインドフルネスって訳されちゃってるんだけど、もうちょっと実質的に言うと――あとこの念っていう言葉は、メモリー、つまり記憶っていう意味もあります。つまり正しい教えを記憶すると。そしてそれを心に根付かせる。教えどおりの正しい思いを持ち続ける。簡潔に言うとそれが念といってもいい。それで心をいっぱいにすると。しかしそれは理想だけども、そうならないですよねと。すぐまた悪い心になっちゃいますよねと。よってこの正しい念が持続されるように、監視する存在を自分の心に置くわけだね。この監視することを正智といっています。
はい、そしてその監視は、自分の修行者としての意識で監視するわけだけど――「わたしの心は変なふうになってないだろうか?」と。それが、さっきの話につながるけども、ここにグルや仏陀や神への恭敬があれば、自分でももちろん監視するんだけども、グルや仏陀や神にも見られてるという感覚が生じると。それによってその正智、つまり、自分が心に与えた正しい命令、これが遂行されてるかどうか、ずれてないかを、見続けることができるっていうことだね。
よく言ってるけどさ、実際だからこのプロセスにおいては、特に初期は、緊張でかまいません。緊張ね。よく仏教でも、あるいはスピリチュアルでも、「はい、そんなにガチガチにならないでもっとリラックスしましょう」とかよく言うけども、そんなのは先の話です。最初は緊張でかまわない。別の言い方すると、まだそんなリラックスしていい状態じゃないだろうと。そんな甘いもんではない。まずは緊張でかまわない。つまり、「さあ、わたしの心はおかしくなってないだろうか?」と。「すぐにわたしは駄目な心が出るから、絶対にそれを許さないぞ」と。これ、緊張でしょ? ガチガチに緊張する。で、その果てにですよ、その果てに、さっき言ったような、自然にそれが起こる。リラックスの、何も考えずとも自然にエネルギーが正しい方向に向かい、意識が正しい方向で固定され、一切のやって来る現象に自然に正しく向き合える、このような状態が生じると。
例えば武道のイメージでいうと、ある種の達人になって、最初は「こう来たらこのように拳を出さなきゃいけないよ」とか、あるいはそのような一連の動作を身につけるために型を学んだりとか、いろんなことをやんなきゃいけない。で、それは最初は緊張してやんなきゃいけないよね。「あ、また、ここでほんとは怖がって顎を引いちゃいけなかったのに、また引いちゃった」と。「駄目じゃん」――この繰り返しですよね。でもほんとにその人が達人になってくると、つまり単純に型が身に付いただけじゃなくて、あるいは単純に試合を重ねて、あるいは戦いを重ねて強くなっただけじゃなくて、その武道が指し示してるある種の境地を身に付けてしまったら、もう自然であると。つまり相手の動きに合わせて自然に体が動き、何も考えてなかったけど全員倒れちゃったみたいな。ジャッキー・チェンの映画みたいな感じですよね(笑)。ああいうのに出てくる老師みたいな感じで、何も考えてないけど笑いながら全員倒しちゃったりと。で、それが、ちょっと話を戻すけども、教えの実践において、あるいは正しい心を持ち続けることにおいて、この世で生きながら、全くなんの問題もなく、常に正しいアウトプット、答えを出せると。これがもう理想ですね。でもそうなるまでは、繰り返すけど、われわれは緊張しなきゃいけない。徹底的に自分の心を見つめて、「自分の心がおかしくなってないかな?」と、監視し続けなきゃいけないっていうことですね。
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