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解説「菩薩の生き方」第二十四回(10)

 この例として、チベットの愚直者と呼ばれたある僧の話が有名ですね。この話は「虹の階梯」などに載っていて、私の日記でも紹介したことがありますが、この入菩提行論の解説のため、もう一度簡単に紹介しましょう。

エピソード一.

 あるときこの僧は、信者の家を訪ねました。しかし信者は留守でした。僧は信者からいつもお茶の葉を布施されていたので、勝手に失敬してもいいだろうと思い、お茶の葉の入った袋に手を突っ込みました。その瞬間、彼の心に「念と正智」がよみがえり、ハッとしました。彼は自分がとんでもないことをしようとしていることに気がついたのです。そこで彼は、「大変だ!泥棒だ!」と叫びました(笑)。声を聴いて駆けつけた信者たちに、僧は自分のことを指差して言いました。

「ここに泥棒がいます。この腕を切り落としてやってください。」

 はい。ここにあるエピソードはね、何度も出してる話なので、あまり突っ込んでは言わないけどね。面白い話だね。
 まず第一の話として、この僧は、ある信者の家に行きましたと。で、その信者はいつもお茶の葉を布施してくれてたんで、ちょっと、なんというかな、慢心というか、ほんとは当然、それはありがたく布施されたものなわけだけど、まるで自分のものかのような勘違いがあって、つい、お茶の入った袋に許可も得ずに手を突っ込んだと。で、ここ――つまりさっきの言い方で言うと、ここまでこの僧は念正智ができてなかったわけです。
 つまり二十四時間念正智してたら、もちろんそこにまでいきませんよ。つまり一瞬、「あ、いつも布施されてるからお茶の葉もらっても問題ないな」って思いが浮かんだ瞬間に、「おれは何考えてるんだ!」と。「そんなわけがない。これは慢心である」と。あるいは「これは泥棒である」と。仮にそれが全く許されるような間柄であったとしても、それは勝手にやったとしたらそれはまさに貪りであり盗みに値すると。それがすぐわかって、ちょっとでもその意識が出た瞬間にパッと消せると。
 で、そこまではできてなかった。グーンって感じで、手を入れるまでいっちゃった。しかしここでやっと気付いたわけだね。で、気付いただけではなくて、それがとんでもないことである――しかもここに書いてるような、「腕を切り落としてやってくれ」って言うぐらいの、つまりそれだけのまさに真剣さがあったわけだね。つまりこれはまさに――実際にイスラム教とかでは泥棒は腕を切り落とすとかね、なんかいろいろそういうのもあるみたいだけども、それくらい自分のその心の乱れ、けがれに対して、真剣に考えてるっていうことだね。
 これは、こういうのはさ、だから本人は超真剣、素晴らしい話なんだね。素晴らしいけども、客観的に見るとちょっと面白い、コミカルなエピソードに映ると。しかしそれはわれわれの心に、とても素晴らしいヒントを与えてくれる一つの話だね。

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