yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第二十三回(2)

「苦しみを滅ぼし安楽を得ようと、彼ら(衆生)は天空(のごとき輪廻界)をさまようが、全く無益である。それはこの神秘な諸法の根源である心が堅固に修められていないからである。」

 はい、これは歌にもあるけども、これは修行者にしろ修行してない人にしろ、当然、すべての人は苦しみを避けたいと思う。そして安楽、つまり喜びを得たいと思ってる。その一つのベクトルによって生き、そして死に、また生まれ変わりを繰り返してると。で、普通の人っていうか修行とかダルマに出合ってない人は、当然、カルマの法則であるとか、あるいは心の秘密を知らないから、当然エゴの赴くままに執着を増し、苦しみの因を増し、つまり、ね、さっきの「Maitri」の歌にもあったように、幸せを求めて生きてるはずなのに、自分で自分の苦しみの因をどんどん増大させると。これは一般的なパターンだね。
 で、修行者の場合、そうではなくて、「いや、ほんとの幸せっていうのはこうですよ」と。「その輪廻の中には幸せはない」と。「真の幸せを得る道がありますよ」と。これを教わり、そのとおりに修行したり、そのとおりに生きることはできるんだが、その根源である心が堅固に修められていないと。つまり心の訓練がしっかりできていないがゆえに、修行には出合ってるけども、全くその修行の効果を生かせず、何度も何度も生まれ変わってしまうと。
 だから結局結論としては、何度も言うように、心がすべてであると。まあ、もうちょっと言えば、念正智がすべてであると。念正智、つまり、いかに心が真理から、あるいは聖なる生き方、聖なる教え、聖なる真理から離れていないか、あるいは離れていないだけではなくて、強烈にそこに没入し続けられるか。集中し続けられるかね。それがすべてなんだと。
 よって、この結論に来るわけだね。

「私は心をよく支配し、よく守護しなければならぬ。心を守護する誓いのほかに、他の多くの誓いに何の用があるか。」

と。
 この「心を守護する誓いのほかに、他の多くの誓いに何の用があるか」っていうのは、意味わかりますか? つまり――まあ、意味わかるよね。つまり、いろんな素晴らしい誓いがあると。しかしもしこの、今言った、集中した、念正智された、素晴らしい心っていうのがその道具として働かなければ、どんな誓いも、あるいはどんな願いも、一切は無駄になっちゃうわけだね。だから結局大事にすべきところ、集中すべきところはここであると。つまりこの、集中された、とらわれなき、念正智された、正しい心をいかに保つかと。
 繰り返すけど、それがもし保たれていなかったら、その人がどんな素晴らしい志を持っていようが、誓いをしていようが――だって、崩れるよね、念正智の教えがなかったら。よってそこに、力を注ぐというよりも――これはずーっとこの『入菩提行論』系の、あるいは心の訓練系の教えで言ってるテーマでもあるけどね――つまり、同じことの繰り返しになるけども、一切の修行の中で、一番大事なのがこの心の訓練であると。あるいは念正智であると。なぜならば、それは一切に浸透するものだから。
 この念正智が――念正智っていうのはつまり、わかると思うけど、「さあ、この修行をしましょう」とか、「さあ、この教えを今回は取り入れましょう」とか、そういうもんじゃないんだね。そうじゃなくて、それを実践する上での話なんですね。実践する上で、「さあ、どれだけ集中してできますか」と。「どれだけ、その心がそのやろうとしてる教えに没入した状態を保ち続けられますか」と。この部分だから。だから、枝葉の何をやるかっていうものではなくて、その大もとの、われわれの心のスキルの問題であるんだね。
 繰り返すけど、どんな修行をしようが、心が念正智、つまりしっかりと集中し、没入し、十分にその教えを実践できるっていう心の状態ができていなかったなら、一切は無駄に終わってしまうと。よってこの心の確立こそが、もちろん最も大事なんだっていう話だね。
 逆に言うと、さっきの『ヨーガスートラ』のサンヤマの話のように、もしこの心の状態が確立されるならば、どんな修行をやろうが、それは非常にスムーズに、あるいは効果的に、それを自分のものにすることができるということですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする