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解説「菩薩の生き方」第二十三回(1)

2018年5月12日

解説「菩薩の生き方」第二十三回

【本文】

 精鋭な心があればそれだけでブラフマンとの合一などを勝ち得ることができるが、心の働きが鈍ければ、言葉と体に助けられても、それらを得ることはできない。

 長期にわたってあらゆるマントラを唱え苦行をなしても、心が他に走り鈍重であれば効果はないと全智者は説かれた。
 苦しみを滅ぼし安楽を得ようと、彼ら(衆生)は天空(のごとき輪廻界)をさまようが、全く無益である。それはこの神秘な諸法の根源である心が堅固に修められていないからである。

 かようなわけで、私は心をよく支配し、よく守護しなければならぬ。心を守護する誓いのほかに、他の多くの誓いに何の用があるか。

【解説】

 仏教では我々の活動を身・口・意、すなわち身体の行動、言葉、心の働きの三つに分けます。
 修行において最も重要なのは心です。もし心に集中力があり、雑念がなく、透明でよく調えられていれば、それだけで、修行を成就し、悟りを得ることができるでしょう。もともと古典的ヨーガであるラージャ・ヨーガは、結局心の集中力による瞑想を第一においています。原始仏教も、心による瞑想がメインです。
 しかしそれだけでは修行を成就できないほど我々の心が堕落してきたので、肉体を使った修行、そしてマントラや詞章などの言葉を使った修行によって、心の修行が補助されてきたわけですね。
 しかし体の修行も言葉の修行も、あくまでも心を浄化し、鍛え、調御するという目的のために組み立てられているということを忘れてはいけません。もしその心という部分をおろそかにし、体と言葉の修行だけを続けても、修行の成就を得ることはできないでしょう。逆に、もし心が速やかに調御されるなら、体と言葉の修行がなくても、すべての修行を成就することができます。よって心こそが最も重要なのだ、というのがこの最初の詩の意味合いです。
 この「心がすべて」ということ、あるいは高度な念正智に主眼を置いた考え方がゾクチェンなどにはみられますが、ここにおいても我々は間違わないようにしなければなりません。確かに心のコントロールに成功すれば、他の修行は一切いらないということもできますが、現代においてそれが実質的にどれだけ難しいかということですね。もともとシンプルだったヨーガや仏教の修行が、人の心の堕落に対応してどんどん複雑化していったように、現代においては、様々な形で体・言葉・心のそれぞれからアプローチをしないと、なかなか実質的な進歩を得るのは難しいと思います。

 はい。ここはいわゆる「正智の守護」という章ですけども、これは、「入菩提行論の歌パート2」もこの第五章の歌ですけども、あそこでも何度も出てるように、結局、まずは心の重要性。つまり心がすべてであるっていうことをまず、いろんな角度から言ってるわけですね。
 ちょっと本文を見てみると、

「精鋭な心があればそれだけでブラフマンとの合一などを勝ち得ることができるが、心の働きが鈍ければ、言葉と体に助けられても、それらを得ることはできない。」

 これは面白いね、ブラフマンとの合一ってヒンドゥー教の教えですよね。シャーンティデーヴァはもちろん仏教の人なんですけども、あまりこだわりなくヒンドゥー教的な考え方を持ち出してる。とにかく、例えばヒンドゥー教におけるブラフマンとの合一、あるいは真我の悟り、あるいは仏教における心の本性の悟り、仏性の悟り等は、精鋭な心があれば、それだけでそれを勝ち取ることができると。精鋭っていうのはちょっと曖昧ですけども、つまり心が非常に優れた状態であったならば、言ってみれば、いつも言うように、超集中力、あるいは一切を忘れてそこだけに没入できるような心の状態があったならば――まあ、これが、何度も言ってるように、例えば『ヨーガスートラ』とかではそれをサンヤマといって、いろんなものに超集中力を向けることによっていろんな力が身に付いたり、あるいはいろんなレベルの悟りを得たりすることが書いてあるけども、それはそうですよね。われわれがそれをブラフマンに向けたならば宇宙の本性を悟るし、われわれ自身に向けたならば真我を悟るし、あるいは神に向けたならば、至高者、つまりバクティヨーガの境地に至ると。結局は心が、まあラーマクリシュナも言ってるように、どれだけ心が渇仰してるかであると。つまり、もう何も目に入らない、耳に入らない、神しかないんだっていうぐらいに心が集中したならば、もうやすやすと神を悟るだろうと。結局、すべては心であると。
 逆に、「心の働きが鈍ければ、言葉と体に助けられても、それらを得ることはできない。」――まあ、これは、この解説にあるように、われわれのこの生命活動を、まあ大きく分けて体・言葉・心と分けるわけですけども、もちろん体とか言葉も大事なんだけども、一生懸命、体と言葉が頑張っても、心が上の空だったら、あるいは心がまだ成熟していなかったら、なかなか、今言ったブラフマンなり真我なり、あるいは大いなるさまざまな境地を獲得することはできないんだと。

「長期にわたってあらゆるマントラを唱え苦行をなしても、心が他に走り鈍重であれば効果はないと全智者は説かれた。」――これも同じだね。もちろん、長期に渡る修行、あるいは、そうだな、さまざまな修行の回数をこなすこと、これはとても素晴らしい。しかしそれも、わかると思うけど、どれだけ心が集中してるか、没頭してるかによって、その効果っていうのはもちろん全く違ってくるよね。
 例えば皆さんにも加行とかで、はい、このマントラ十万回唱えましょうと。あるいはこの瞑想を千回やりましょうとかいろいろあるけども、一応数は終わったと。でもどれだけ集中してたかと。
 たださ、いつも言うけども、カイラスっていうか現代の場合――まあ前にも何回か言ってるけどさ、チベット仏教とかあるいはヒンドゥー教とかでの厳しい考え方ではね、例えばマントラにしろ瞑想にしろ、数を数えるときは、ちゃんと、例えば聖なるっていうか清められた場所で、ちゃんと座って、集中した状態でやったのだけ数えるんだと。つまり集中してなかったときとかは数えないとか、あるいは普段、例えば歩きながら唱えたやつは数えないとかね、そういう厳しい考えもある。でもそれは、いつも言うけどさ、なんていうか、昔のチベットの僧みたいに、一日中を修行に差し向けられる人の話であってね、現代みたいに社会の中で修行する場合は、そういうやり方はちょっと、あまり意味をなさない。そうじゃなくて現代の場合は、もうとにかくどんなかたちでもいいから、この人生に修行をねじ込むと。ね(笑)。いろんなかたちで修行を隙間に入れていくような感じじゃないと、なかなかこなせないよね。だからそれはいいんですけども。
 だから皆さんの場合、現代の場合は別に、上の空っていうか、何かをやりながらマントラを唱えるとか、何かをやりながら瞑想するでも全く問題ないんだが、でもその大もとにある心の気持ちですよね。うん。もともとが例えばとても修行がしたくて、あるいは真理を獲得したくて、もしくはもっと、なんていうかな、単純に、与えられたものをしっかりやろうっていう気持ちがあって。で、そのような気持ちで、心を込めて、例えばちゃんと家で座ってやれるときはほんとに心を込めて行なうと。で、何かやりながら行なうときでも、それが本当に神聖なものであって、素晴らしい実践なんだっていう思いを込めながら行なうと。これなら問題がない。しかしそうじゃなくて、例えば座って修行するときも、ね、いろんなものに執着があり、いろんなどうでもいいことを考えながら、ただ口だけが動いてると。ね。あるいは体だけが動いてると。この場合、もちろんこれも効果がないというわけではない。しかしその力っていうのはかなり半減すると。
 はい。それから、もちろんこれは今言った身・口・意の働きでいってるけども、またもうちょっとその基本的っていうかな、外側のことを言うと、これはまた別パターンとしては、例えば格好を重視する人もいるよね。格好を重視するっていうのは、例えばよく欧米人とかが、東洋の禅とかチベット仏教とかヒンドゥー教とかのそういうね、オリエンタルなムードになんとなく憧れ、で、チベットの僧衣をまとったり、あるいは禅寺に入って作務衣とかを着たりして、あるいはヒンドゥー教のサードゥみたいな格好をしてその世界に入ると。まさに外的には、ああ、素晴らしい、修行者っぽいと。あるいは非常に、なんていうかな、そのシステムに入ったことによって何かを得たような感じがしてると。しかしこれも同じ。その人がどのような素晴らしいシステムに入ったように見えようが、あるいは偉大な聖者っぽい格好をしてるように見えようが、結局はその人の心が何を求め、そして何に集中し、そしてどれくらい、まあ浄化された純粋な心を持ってるかによって決まるわけだね。だから逆の言い方すると、そのような素晴らしい精鋭なる、あるいは純粋な心をつくるための修行、あるいはつくることに、われわれは力をかけなきゃいけないわけだね。
 心のけがれをほっといたまま、あるいは執着や怒りや、いろんな心の雑な動きをほっといたまま修行しても、効果が全くないわけではないが、非常に、例えばその一つ一つのマントラ、一つ一つの瞑想が、効果が半減すると。だからもちろんそのような定型的な修行をこなしつつ、日々の日常も含めて、教えどおりに心を磨いていくと。心のけがれを浄化していくと。執着を捨てていくと。こういったことが、まあ、もちろん必要になってくるね。まあ、それがもちろんこの「正智の守護」のテーマなわけだけど。

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