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聖者の生涯 ナーロー ⑤(1)


2010.4.3 「聖者の生涯 ナーロー」⑤

◎二つの価値

 はい、今日は「聖者の生涯」のナーローね。
 このナーローは非常に難解な話でもあるのでなかなか進まなくて、ちょっとずつしかね、進んでないですけども。
 もう一回言いますよ、基本的な話ね。ナーローっていう、ミラレーパとかの系統のカギュ派の開祖っていうかね、大もとの大聖者ですね。この大聖者っていうのは本当に、いろんな密教の聖者がいるわけですが、その中でも本当にパドマサンバヴァとかと並び称されるぐらいのものすごい聖者の一人です。昔の人なのでそんなに詳しい資料とかは残ってないんだけども――その物語ね。だから、かなりレベルが余りにも高い話だと考えてください。
 だからこういった話っていうのは、特にこのナーローの話みたいな話っていうのは、実際にはストレートには学んだり解説することは不可能なんだね。不可能っていうのはなぜ不可能かっていうと、まずもちろんレベルの違いっていうのがある。このナーローの境地っていうのは、まあ恐らくその最後の最後の段階の話をいってるので、ちょっとわれわれとはレベルが余りにも違いすぎるってうのがある。
 もう一つは、こういったね、この一連のナーローが与えられた試練、で、それを乗り越えてく話っていうのは、ケースバイケースなんだね。ケースバイケースっていうのは、例えばわれわれがナーローと同じ境地に達したとしても、同じものが来るわけではないんだね。それぞれのカルマとか、引っかかりであるとかに応じて、全然別のテーマの試練がやってくるわけだから、そういう意味ではストレートに学んでもあんまり意味がないっていうかな。
 あともう一つ言えるのは――今、レベルの話、それからその修行者の性質が違うからっていう話をしましたが、もう一つはレベルっていうよりもムードというか、あるいはわれわれ側のね、段階っていったらいいのか――の問題もあるんだね。それはどういうことかっていうと、このね、最近学んでる部分の話っていうのは、われわれが本当に――少なくとも今ガチガチに固まっているこの現世の観念から一歩ちょっと足を洗ってね、ちょっと抜けて、もうちょっと深い所に入ってきたときの話なので、今こういう場で、いわゆる論理的知性をフル回転させても、理解できるような話ではないんだね、そもそもね。そういう部分もある。
 だからもう一回言うけども、これは実はストレートに学ぶことができる話ではないんです。ストレートには学べないんだけども、でも学ぶ価値はある。なぜ学ぶ価値があるのかっていうと、それは二つあります。その一つは、ストレートな意味ではないんだけども、当然そこにちりばめられているさまざまなヒントがあるので、それをちゃんとこうわれわれが理解すれば、まあわれわれなりのっていうかな、その段階なりのメリットはとてもあると思います。それが一つね。
 もう一つは、こういった伝記っていうのは、実際はただこういう聖者がいましたっていう話ではなくて、この伝記そのものが一つの経典なんだね。つまり、この伝記というかたちをとった、修行者の修行を進める一つの奥義書的な部分があるんですね。これはだから論理的にどうだっていえないんだけども、それを読むだけで何かわれわれが得るものがあるんだね。
 もう一回言いますよ。読むだけで得るっていうのは、一つめは論理的な納得っていうかな、例えば「ああ、この聖者はそういう生き方をしたんだ」と。「わたしもそういうふうに頑張ろう」。これはまあ論理的な納得だよね。そうじゃなくてもう一つは、論理的ではないんだがそれを読むことによって、われわれの中に何かがインプットされる。あるいは祝福がやってきたりとかね。そういった目に見えないメリットというのもある。
 だからもう一回言うけども、このナーローの話ぐらいになってくると、ちょっとストレートに言うと、われわれとは全くレベルの違う話であり、あるいは状況が違う話ではあるんだが、なにがしかの論理的にまず得るものがある。で、もう一つは、論理を超えた得るものもあるっていうことですね。

◎基本的な二つの発想

 はい、まあそういう観点でね、進めていきたいと思いますが、物語のまたちょっとだけ復習をすると、簡単に言いますけどね、ナーローといういわゆるインド一の仏教学者みたいな人がいたわけですが、それがダーキニー、修行を助けてくれる女神の勧告を受けて、「今のままではわたしはある段階には達したけども、真の悟り、真のこの教えの意味というものを分かっていない」と。「それを分かるためには、縁のあるグルであるティローという聖者に弟子入りしなきゃいけない」と。それを悟ったナーローは、そのグル・ティローを探しにいくわけですね。
 そのティローを探す旅の途中で、まあいってみればさまざまな幻影ね、イリュージョン、幻覚というか幻影というか、それに会うわけですね。もちろん客観的に見るとそれは幻影なんだけど、ナーロー自身は幻影だとは思っていない。つまり普通の日常の出来事としていろんな場面に遭遇するわけだけど、その中でさまざまな失敗をする。で、それは実はすべてグルがあらわした幻影であるっていうのが答えなんだけども、グルが表わしている幻影であると同時に、ナーロー自身の心のけがれ自体もあらわしてるわけですね。 
 はい、これは何回もこの部分は言ってますけども、この部分が論理的にね、まずわれわれが学ぶことができる部分だね。つまりこういった密教の観点からいうならば、まずすべてはもちろん自分の心のあらわれであるいえる。自分の心――例えばさまざまな悪い現象、あるいはちょっとけがれた現象とかね。そういったものはすべて自分の心のけがれのあらわれであるし。それと同時に、すべての現象がグルの仕掛けであると。つまりそこにはグルしかいなくて、グルが自分を導くためにいろいろやってくれているだけなんだっていう発想ですね。このふたつの発想、すべては自分の心のあらわれである、そしてそれと同時にそれがすべてグルの仕掛けなんだっていう発想ね。これがここから学べる基本的な密教のスタンスですね。
 はい、で、いろんな失敗をしつつ再び旅を続けているところですね。

◎弓矢

【本文】
 われにかえったナーローが再び旅を続けていると、猟犬の一群を引き連れ、弓矢を手にした男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、この弓矢で、あの鹿を殺してみよ」
と言いました。しかしナーローが断ると、男は空に舞い上がり、こう言いました。

『猟師よ。私は矢をつがえたことがある。
 欲望から解放された化身の矢を、燦然と輝く最も本質的な光の弓に。
 私は、あれやこれやと思いの定まらぬ、逃げ回る鹿を殺すのだ。
 自己を信じる身体という山の上で。
 明日は湖に魚釣りに行くとしよう。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。

 この一連の一つ一つのエピソードっていうのは、すべて分かりにくいっていうか謎が多いわけですけども、この部分は特に短いので――エピソードがね――短いので、非常にある意味、謎の部分だね。だからこれはちょっと曖昧な感じで読み取っていくしかない。
 はい、まずこれはずっと前から勉強してる人は分かると思うけども、この一連のヴィジョンは、一つはナーローの心のけがれを表わし、そしてもう一つは、逆にそのナーローへの一つの修行の指示というか、その方向性の指示をしてる。その二つの両義性があるわけだね。
 で、まずそのけがれの現われって意味でいうと、ここは猟師っていうのが一つのキーワードになってくるわけですが、これはわれわれの飽くなきその執着、エゴからくる執着の恐らくの象徴だと思います。何度も言うように、ナーローっていうのはこの時点でもうかなりの悟りには達しています。かなりの悟りには達しているけどもまだ完全ではない。だからまだ心の奥に、執着とかエゴとかが少しではあるけど残っているわけですね。それがこの猟師という一つのヴィジョンとして現われる。
 つまり猟師っていうのは、自分の腹を満たすため、もしくは金を稼ぐっていう理由によって、同じ衆生である生き物である動物達を追いかける。そして追いかけて、で、動物は逃げるわけです。逃げても追いかける。そして弓を引き、矢を射ると。で、当らないかもしれない。当らなかったら、何としてでもまた追いかけると。徹底的な渇望、渇愛によって何かを追い求め、で、誰かがそれによって苦しもうが傷つこうが、あるいは自分が得ることによって誰かが足りなくなろうが、その執着の対象をちょっと狂ったように追い求める。これがわれわれの心の執着の正体ですね。
 つまりこれはいつも言うように、修行者っていうのは――まあそうですね、いろんな修行のやり方があるわけだけど、途中までは平和に美しく、楽しく修行を進めることができます。ここで言う「途中までは」っていうのは、まあかなり途中まで。かなり途中までっていうのは、つまりそのやり方でただ世界に美しいものだけを見て、ただ美しい法だけを実践し、喜びと共に修行を進めることは可能です。それによってある段階の聖者になることはできる。しかし、ある段階以上を目指そうと思ったら、まあもしくはスピーディなこういった密教とかの道を選んだ場合は、そうではないわれわれのけがれの本質にいきなり切り込むわけだね。
 そうすると、つまり何を言いたいかっていうと、わたしは今執着があると。でも、わたしは執着ではなくてみんなの幸福を考えて、みんなのためにこれをあげますとか。あるいはわたしはこの執着を果たそうとすると誰かが悲しむという現象があるから、わたしはそれを諦めますとか。こういう非常に美しい法があるわけですね。でもこれはまだ非常に浅い自己認識の段階なんだね。そのもっともっと自分のその執着とかの、まあ怒りとかもそうだけど、奥の方をグワーッとこう開けてみると、もうそんなきれいごとではない。非常にドロドロとしたものがある。
 言っていること分かるよね? もう一回言うよ。普通は、執着があるんですと。執着があるけども、でもあなたの幸福のためにこの執着を捨てますと。ね。つまりここでいう執着っていうのは、まあ逆にいえばですよ、いってみればそんな悪い奴じゃないように見えるわけですよ。だって執着出てくるけど、相手の幸福を考えて自分を捨てることができるやつだから。この執着ってやつはね。だからそんな悪いこともないような感じもする。だからこの観点でいうと、よくそういう人がいるわけだけど、「いや、別にある程度執着や怒りを持ってても、持ちながら社会生活を営みながらも修行はできるんですよ」っていう考えも出てくる。いや、そんな執着をゼロにするとかそんな必要はないと。ある程度執着はあったってそれは悪いものではないと。あるいは、ある程度人に対する怒りがあっても、例えば人に対してバッて怒っちゃうことはあるけども、それでなんかその人に死ねとかは思わないし、ものすごく憎しみが満たされるわけでなくて一時的にバッて出ることがあるぐらいだから、それぐらいは別に問題ないですよ――っていう気がするかもしれない。でもそれは、まだ自己認識が浅いだけなんだね。
 実はそこで出てくる怒りとか執着とかの根っこをぐーっと引っ張りだすと、そこにはいつも言うように、ものすごいグロテスクな、ものすごい――何て言うかな――本当にもうここでさっきも言ったように、言ってみればその執着を叶えるためだったら誰がどうなっても構わない――ぐらいの、強烈なエゴが眠ってるわけだね。われわれの奥にはね。だから、その経験をわれわれが本当に高い段階に行こうとしたとき、まあもしくは高い段階ではないけども密教とかの方法によってスピーディに心の奥にこう切り込んでいったときは、経験させられるんだね。ドロドロとした自分の中の憎しみや執着の正体みたいなのものをね。
 逆に言うと、それをしっかりと経験しないと、さっきの例のように、それを落としたいという本当の気持ちが出てこない。「何かこのままでも行けるんじゃないか」っていう気がしてくる。
 いつも言うように密教とかの危険性がそこにあって――そこにっていうのは、密教とかをちょっとかじった場合、その言葉面だけを読んだ場合ね。例えば密教とかは、一見何か執着とか怒りとかそういったものを利用しているように見える。つまり肯定しているように見えるわけですね。つまり「執着は捨てないでいいですよ」とか言ってる。確かにそれは技法として執着は捨てないでいいっていうやり方がある。でも、そこで密教とかがいってる「執着は捨てないでいい」っていうものと、多くの人が誤解している「執着は捨てないでいい」ていう意味は、ちょっと違うんです。意味はね。
 もう一回言いますよ。普通の人が例えばちょっとかじってね、密教の本とか読んで、「執着は捨てないでいい」って書いてある。で、その人が読んで「おれは執着あるけど、別にそれでそんなに何か日々苦しんでるわけではないし、デメリットがあるわけじゃないから、うまくこれと付き合いつつ俺は修行していくんだ」っていうふうに考えるとしたら、それは大いなる勘違いなんだね。大いなるそれは誤解なんです。それは単なる自己認識が甘いだけなんです。
 そうじゃなくて、その人が本当の意味で執着の正体っていうのを知ったとき、おそらくその人は「もう一刻も早くそれから逃れたい」っていう気持ちになると思います。まあ、というよりも一種の絶望感に陥ります。絶望感っていうのは、「おれっていう存在は――つまりこの執着や怒りでできたおれっていう存在は、こんなにもどうしようもない、こんなにもグロテスクで、こんなにも救いのない存在だったのか」っていうことに気づくんだね。こう気づいたとき、その人は当然そこから脱却したいと心から思うようになる。で、その後の話なんだね、その密教の「執着を肯定する」とかっていうのは。その後にさらにそれに切り込んだときに、いつも言うように、でもその余りにもグロテスクな執着とかの正体、さらにその正体をいうと、実はそれは悟りの光であるっていうかなり高度な見解に辿り着くんだね。
 でももう一回言うけども、多くの人はその途中段階を経験することなく、最後の答えだけを言ってる言葉だけを分かったような気になってね、勘違いしちゃってる。だからそこに行くには本当はものすごく大変なんだね。
 もう一回言うけども、まずわれわれはこのわれわれの心が今持っている執着とか怒りとかいうものの正体を探らなきゃいけない。だからこれはね、みんなに今から言うことは一つの例だから、別にみんながその経験をしなきゃいけないわけじゃないんだけど、一つの例として言うと、例えば皆さんが過酷な状況に置かれたとするよ。過酷な状況っていうのは、例えば戦争が始まったとか。もう本当に戦争で食うものもないと。あるいは体中が戦争で怪我だらけでいろいろなところが腐ってたりとか。で、そこで例えば周りでいろんなエゴの衝突が起きてるとするよ。みんな周りが優しい人ばっかりじゃなくて、みんながエゴを剥き出しで奪い合ったり殺しあったりしていると。そういう過酷な究極状態に置かれたときに、ね、一日二日じゃどうでもないかもしれないけど、それを例えば一ヶ月、二ヶ月とそういう究極状態に置かれてると、当然そのいろんなエゴが噴き出してくるよね。で、今までもう曖昧な建前で何とかなってた人間関係とかが全部崩れてるから、もうそのウワーッていろんなものが出てくる状態があるわけですね。でもそれはもちろん前からあったわけです。前の平和で「僕はいい人ですよ」って言ってるときから、実際はあったわけだね。それが例えば、そういった究極な過酷な状況に置かれたときにバーッて出てくる。でもこれはその人にとってはとても幸せなことです。つまり、やっと本当の自分に出会いましたねと。ね。まあよくスピリチュアルとかでは「本当の自分を探そう」とかいうけども(笑)、本当の自分に出会ったらもう愕然とします(笑)

(一同笑)

 「えっ、これが本当の自分か」と(笑)。そんな美しいものじゃないんだね。「本当の自分? えっ、これが本当の自分ですか?」と。もう自殺したくなります。でも自殺してもしょうがない。これは冗談みたいな話なんだけど、解脱のみが自殺です。つまり自己、エゴを殺すと。肉体殺してもしょうがないからね。だって肉体っていうのはエゴの乗り物に過ぎない。だから肉体を殺してもエゴは死なない。だから本当の意味で自殺したかったら解脱するしかないわけだけど(笑)。でもそれくらいのものに気づく。
 今言ったのはちょっと極端な例だけども、実際はそれと似たようなことが日常――みんなの場合ね――この日常生活の中の修行で起きます。つまり皆さんが修行を進めてると、外的にはまあ今言ったような戦争とかね、そういうのは起きないけども、自分のいろんな心の葛藤が始まり、いろんな現象が起き、そして自分の心がどんどんどんどん以前よりもちょっとこう裸になってきて、隠していたエゴみたいなのがどんどん露わになってくる段階があるんだね。その段階で、それから逃げずにちゃんと教え通りに、教えによってね、それを調御していかなきゃいけないわけだけども。
 でもどちらにしろそのような、深く入り深く自分のエゴと戦うプロセスが大切なんだね。
 で、それはもちろん一回ではなくて、どんどん何段階にもかけてこう深く切り込んでいくことになる。
 だからこのナーローパももちろんさっきから言ってるように、この時点でもう相当な、われわれなんかが及びもつかないほどの大聖者なわけだけども、それでもまだ切り込まなきゃいけなかった。それでも完成者になるには、そのわずかに残ってるものすごい汚いエゴの塊みたいなのに切り込まなきゃいけないんだね。
 はい、ちょっと長くなりましたが、それが一つね。

◎秘密のサイン

 それから今度は逆に肯定的な意味、つまり修行のアドヴァイスという意味で言うならば、ここはかなり象徴というかサインが含まれていると思うね。
 こういった物語の難しさっていうのは、もう一つ加えると、今言ったサイン――隠喩っていうかな――サインで満ちてるっていうことですね。もともとストレートには言おうとはしてないんです。いろんな隠れたサインを散りばめてるんだね。それはだから、われわれに必要なときがくるまでは分からないっていうかな。だからとても分かりにくいんだけど、まあ曖昧に言うと、「欲望から解放された化身の矢を、燦然と輝く最も本質的な光の弓に矢をつがえた」と。これは「燦然と輝く最も本質的な光」――これはわれわれの心の本性の光といってもいいと思う。で、これは例えば光のヨーガとか、あるいはゾクチェンとか、マハームドラーとか、そういったものに通じる世界だよね。われわれの心の本性の光っていうものをあらわしていく。
 「欲望から解放された化身の矢」――これもまあ六ヨーガとか修行で出てくる化身ね。われわれのその肉体とは別の体をあらわして修行したりするわけだけど、それを表わしているかもしれない。
 「私は、あれやこれやと思いの定まらぬ、逃げ回る鹿を殺すのだ。自己を信じる身体という山の上で」。これも曖昧にしか説明はできないけども、まず「自己を信じる身体という山の上で」。これは分かりやすいかもしれない。つまりわれわれはこの肉体っていうものを土台として、「エゴ=わたし」っていう感覚を信じているんだね。これはもう強烈に信じてる。つまりここでいう信じてるっていうのは、例えば「あなたは創価学会を信じてるんですか」と。「でも創価学会ってこうですよ、こうですよ」って否定的なことを言われて、「やっぱり創価学会ってあんまり良くなかったかな?」――こんなレベルの信じてるじゃないんだね(笑)。あるいは、「僕はうちのお父さんは優しいと信じてる」と。でも何かいっぱいいじめられて、「何かあんまり優しくなかった!」とかね(笑)、こういう浅い信じてるじゃなくて、もう本当に疑う余地がほとんどないっていうか、もう完全に信じきっちゃってる。
 まあ例えば例をあげるならば、皆さんはさ、見たこともないのにね、地球が丸いって信じてるでしょ? 恐らくわたしがここで毎日毎日皆さんに「地球って四角いんだよ」って言い続けても(笑)――まあそうだな、素直な人だったら一年ぐらい言い続ければ「四角いのかな」って思うのかもしれないけど(笑)、でも普通は言われたってそんなことは信じないよね。これも不思議な話なんだけどね。見たことないんだけどね。見たことないんだけど「地球は丸い」ってもう完全に信じちゃってる。そんなのは当たり前ですと。議論の余地がないっていうかな。それよりもさらに強い信仰によって、「わたし」っていうのがあるんだと。つまりアイデンティティですね。「これがわたしなんだ」っていう非常に曖昧な感覚をすごく信じちゃってるんですね。で、その一番の土台となってるのが、この肉体なわけだけど。肉体っていう土台の上で「わたし」っていうのがあるんだと。
 つまり仏教とかヒンドゥー教もそうだけど――が言ってる最大の第一のテーマっていうのは、「わたしってないんだよ」っていう究極的なことなんだね。まあそれを無我とか非我とかいうわけだけど。あなたが今「わたし」っていってるその「わたし」って実はどこにもないんだよと。でもそんなこといわれたって、頭では「なるほど。哲学としてはそれは分かります」ってなるかもしれないけど、心は全く納得しないんだね。わたしっていうのはね。でもそれをわれわれはいろんな修行によって打ち砕いていかなきゃいけない。それが例えばここでは光のヨーガとかマハームドラーとか、あるいは化身を使ったヨーガとかが暗示されているのかもしれない。

◎逃げ回る鹿を殺す

 はい、そして「あれやこれやと思いの定まらぬ、逃げ回る鹿を殺すのだ」。
 これもちょっとかなり曖昧な比喩的な表現だけども、つまりわれわれはもうこの時点で、というよりもこの人生そのものがまさに「あれやこれやと思いの定まらぬ、散漫としたエゴや習慣的な思い」の雑然とした中で生き続けてるんだね。そして修行というのは――というよりも瞑想というのは、基本、一点集中です。一点集中。そして言い換えるならば、雑念やあるいはさまざまなエゴの錯覚といったものを、徹底的に一つに縛りまとめ、そこに集中の矢を突き刺すと。
 これはちょっと経験上で言うしかないんだけどね。わたしの経験として何度かここでも言ってるけども、例えば本当にいい瞑想に入るときってどういう感じになるかっていうと、心ってもちろんいつもこうざわついているわけだけども、その心の中心みたいな所にグッて集中の矢を突き刺すような感じなんだね、実際にね。で、突き刺すのが成功したときに何が起きるかっていうと、まあちょっとイメージで言うしかないんだけど、ウワーッてこういろんな所にざわついている心があるわけだけども、突き刺すのに成功したときには、グワーッて集約されます、そこに。よく何度か言ってるヴィヴェーカーナンダの表現をすると、インヴォリューションってやつだね。インヴォリューション。つまりエヴォリューションの逆で、展開していたものが大もとに帰るって感じです。グワーッて帰る。というよりも、もともとなかったっていう感じなんだね、そんなものは。もともと出てたのは、われわれは集中力が無いから幻が出ていただけであって――まあだから、われに返るような感じなんですけどね。われに返ったときにはすべての幻が消えてしまう。そこにはただ一点の心の本性みたいのしかない、みたいな状態になるんだね。
 だからこれは単純にこう座って心が落ち着いてる状態とは全く違う。例えば心のエネルギーがそんなにざわついてない状態にあるとき、とてもいい瞑想に入れたりする。でもそれはただの静まった心に過ぎない。その静まった心ではなくて、その静まった心も含めてあらゆる心のいろんな情報とか展開をぐーっと集約させるんですね。これはちょうど、これは一つのね、ここの解説の一つの説だけども、「逃げ回る、あれやこれやと思いの定まらぬ逃げ回る鹿を殺す」っていうのにフィーリング的には似ている。
 もう一回まとめますよ。例えば化身を使ったヨーガ、あるいは心の本性の光を使ったヨーガ等を駆使して、心の本性にズバっと精神集中の矢を突き刺す――というよりもまず突き刺すのが難しいです。それはまさに逃げ回るから。心っていうのは逃げ回る。しかし、それに突き刺すのが成功したときに、一瞬にして何も無かったようにすべての幻が消えます。消えるっていうよりも、インボリューションというかね、もとにこう返ってくっていうかな――というのを表わしているのかもしれないね。

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