2006年9月17日 「解説・入菩提行論」読書会 その3
ヨーガスクール・カイラス 勉強会より
2006年9月17日 「解説・入菩提行論」読書会 その3
※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。
はい。じゃ、ちょっと今日はだいぶ、時間が過ぎてきたので、あとは質問にしましょ。」
T君「あ、いいですか」
先生「はい」
T君「情って、無い方がいいんですかね」
先生「…、それはどう思うの。」
T君「○○○○」
先生「え?」
T君「情があると、本当の愛とか慈愛が沸かないっていうか」
先生「そうだね。情っていう言葉も曖昧なんだけど、あの、一般に言うところの人情。あのねぇ、恋愛、あの、リアルに言うと、恋愛感情、これは動物のカルマです。あの、現代的な恋愛感情ね。例えば、街を歩いていて、あぁあのこかわいいなと、お付き合いしたいなとか、あるいはもっと言えば、セックスしたいなとか。これはもう、動物のカルマです。
でなくて人間の情っていうのは、あの、もう、一人の異性に対する一途な想い。これが人間的な情だね。それから、もちろん、色んな友達とか、家族とかに対する、なんっていうかな、人間的な情がある。で、これは、人間のカルマだと。
で、これは、相対的に言えば、地獄、動物、餓鬼よりはいいと。つまり地獄のカルマっていうのは、憎しみだと。つまりその、みんなが嫌いと、みんなあっち行けと。あるいは、あいつを叩きのめしたいと。もう、できるだけ、あの、この憎しみを表現したいと。だからまぁ、まぁわかんないけどさぁ、わかんないけどイメージで言うと、あの、なんだっけ、なんとかおばさんっていたよね。あの、布団叩いているおばさん(笑)。」
みんな「アハハハ(笑)」
Tさん「引越しの人だね(笑)」
先生「引越しおばさん(笑)。まぁ、もちろん私、あの人に会ったことないから、実はあの人、超優しい人かもしれないから、わかんないけども、イメージで言うと、あぁいう感じなんです。
もうほんと、憎しみをばら撒くっていう。もう地獄だと。
この人とだよ、例えば、ほんと家族大好きと、友達大好きと、この人と比べたら、当然こっちの方が優れているし、幸せだし、いいわけです。だから例えばこの人が、なんかねちょっと話がずれるけど、仏教の間違いってあって、仏教の間違いっていうか、仏教の修行を間違える時ってあって、それは、例えばT君が、憎しみいっぱいあって、情もいっぱいあったとしますよ。で、この時にT君が、『俺は情を落とすぜ』とか言って、ちょっと憎しみを置いておいて、情ばっか落としたらどうなると思います? 憎しみだけの人になります。つまり地獄になっちゃったって感じ(笑)。
前は地獄と人間だったのが、人間を落としたら、地獄100%(笑)。で、最悪なのは、もしそこで死んだら地獄行きです(笑)。本当は、修行しなかったら、人間に生まれてたのに、修行したがために、地獄に落ちちゃった(笑)。だから下からキレイにしなきゃいけない。
そういう意味では、相対的に、地獄的なカルマと人間的なカルマだったら、まず地獄のカルマを落とすわけだね。あるいは、動物はさっきも言ったように、単純に情よりは、あの、快楽を貪るとか。あるいは、単純に色んな異性を求めるとか。あるいは、そうだな、怠惰さもそうだけどね、そういうのにとらわれている、そういうのが動物なんだ。
あるいは、餓鬼っていうのは、もう、なんでもかんでも自分の物にしたいと。自分が常に、あの、なんていうかな、それを一番得たいんだと。
このような、例えば、もう一回言うと、あいつ嫌いあいつ嫌いっていう憎しみ、それから、単純に快楽を求める生き方、あるいは何でも自分の物にしたいっていう発想、に比べたら、本当俺は家族を大事にするぜとか、俺は友達のためなら死ねるとか(笑)、そう言っている人の方が全然レベルが高いわけですよ(笑)。だからレベル的に言ったら、まずは低いのを落としていったらいい。
しかし、じゃあ次に人間を検討してみましょう。
人間の上にあるのは、仏教で言うと阿修羅なんです。阿修羅と人間の違いはまさに情なんです。人間には情があると。阿修羅は情がない。情がなくて知性がある。で、ここで、さっきT君が言ったような問題になるわけだけど、つまり情のデメリットっていうのは、…じゃCちゃん、情のデメリットは何があると思いますか。」
Cさん「………………、うーん………、情に、流されて………、正確な判断ができない」
先生「お、そうだね、その通りだね。情っていうのは正確な判断を狂わせてしまう。まぁ、うちの子に限って、っていうのが一番いい例だね。うちの子に限ってそんなことするわけがない、と。で、子供は陰で『べー』とかやってる。こんなことしてたらこの子は、凄い悪い子にそだってしまうかもしれない。あるいは、まぁ、会社とかで、まぁこれはこの間も、同じような話をしたけれども、あの、さぁ誰を次の部長にしようかと。ね。Aさんは誰が見ても能力がある。Bさんは、みんなが見ると全然能力ないんだけど、社長がBさん大好きだった場合、なんかねぇ、能力あるように見えてしまう。ね。で、ちょっと見誤るわけだ。で、本当は、会社にとって何の利益もないようなBさんを、情によって登用してしまった場合、それによって会社が潰れるかもしれない。これが、人間的なパターンだね。
で、阿修羅っていうのはねぇ、阿修羅にも問題があるんだけど、阿修羅は知性が高いが情がまったくない。だから、例えば、もう十年間付き合ってきた友達ですと。本当お前、俺とお前は一心同体だとか言いながら、あぁリストラ、しなきゃいけない、じゃあお前ダメねって(笑)。まったく情がない(笑)。はい、お前さよならって(笑)。
もう、目の前の現実で、正しいと思ったことだけを遂行するのが阿修羅なんだ(笑)。こういう人って人間でもいるけどね。そういう人は、だからそういう人は人間界では冷たく扱われる。でも実はレベルが高いんです。情がなく、スパスパってやることやる人ね。いやあの人は情がないと、だから織田信長みたいな人かもね。もう、あるいは、中国でもそういう皇帝とかいたと思うけど、目的を達成するためには、あの、本当に自分の部下であろうがバンバン切り捨てる。
ね、あるいはその、一般的に酷いと思われることでも、それはやってしまう。ね。それが、この、これをやるには、唯一正しい道だと、信念を持ってやると。これが阿修羅の性格っていうか、発想なんだね。ただまぁ、そういうことをやれとはいわないけど、情に偏らずに、真実を見極める目をつけていかなければならない。それが人間から阿修羅に、あの、えー、移行する、道ですね。だからその、修行っていうのは段階的だから、情はいけないんですかったら、それはいけないよってなるけど、全体から見たら、だけど段階的にいかないといけない。
もう、私は、かなり、地獄、動物、餓鬼がなくなってきたと。で、今、一番困っているのは、情だと。こういう時はやはり情の…、もちろん全部一緒にやるんなら、それはそれでいいよ。地獄、餓鬼、動物。つまり憎しみ、貪り、それから無智、そして情と。これはまず、全部、生活の色んな場面でそれぞれ直していきますよと。これはまぁ一番いいやりかたですね。
情に関しては、あぁ私は常に情によって、あの、物事を見誤ってしまうと。情を入れずに、まぁそれはね、あの、情と慈愛の違いとかもあるんだけど、慈愛っていうのは、本当の意味で相手に幸福になるようなことをやってあげる、のが慈愛なんだね。
で、情っていうのは、本当は相手には幸福じゃないと。ね。例えば例をあげると、あの、まぁ、そうだな、例えばだけどね、Cさんが、よし、私は菜食します、と言ったとするよ。で、宣言して菜食の修行を続けたとするよ。でも、『うぅ肉食いてえ』とか言ってたとする。で、Tさんが、陰から寄ってきて、『ちょっとちょっとCさんCさん、内緒よ』って言って(笑)、」
みんな「アハハハハ(笑)」
先生「焼き鳥をあげたとするよ。」
みんな「アハハハハハ(笑)」
先生「アハハハハ(笑)。まぁ別に、焼き鳥食うぐらいどうでもいいんだけど、つまり、この例えで言うと、本当はそこで、決めた修行を遂行させてあげるのが、愛なんです。かわいそうだけども、あの、それが、本当の成長につながると思うなら、冷たいこともやらないといけない。でも、情があると、あの、一時的な喜びを与えてしまう。ハハハハハハハハ(笑)。
まぁ何でもそうだけどね。かわいいこには旅をさせろっていうのもあるけど、あの、情っていうのは結局ねぇ、自分の、自分中心なんです、本当は、きれい事言っても。自分の中の思いを優先させるんだね。『あぁかわいそうだねぇ』とかそうだし、『あぁかわいいかわいい』っていうのもそうだし。ただ自分が自己満足しているっていうか。そうじゃなくて、自分は辛いんだけども、あのー、あとは相手も辛いかもしれないけども、本質的に相手に幸福が、得る道は何かなって考えてやってあげるのが、本当の愛なんだね。
例えばお釈迦様の時代も、若者がたくさんお釈迦様の下に出家して、で、お母さん、お父さんお母さんがお釈迦様に、あの、抗議したっていう話があるんだけども、で、実際に連れ戻されたとかいう、話もあるんだけども、まぁもちろん、お父さんお母さんが仏教とか、お釈迦様の教えを知らない場合は別だけども、あの、当然その、お釈迦様の教えをしっかり学んでいた場合ね、あぁ、私は寂しくてしょうがないが、私がここで別れて、この子がそういった情のカルマを切って、修行に励むことが、この子にとって最大の幸せなんだなって思ったら、もう、本当に、スパっと別れられると。そういう、その、なんっていうかな、情なき愛がなければならない。
例えばねぇ、そういえば、ビンビサーラ王っていう王様がいて、これはお釈迦様の弟子の大様の中でも、一番帰依があったって言われるんだけども、あの、この子の、この子じゃないや(笑)、この王様の妃で、ケーマーっていう人がいたんだね。で、この物語ってちょっと、あの、色々あるんだけど、まぁちょっとかいつまんで言うと、ケーマーって絶世の美女だったんだ。絶世の美女で、あの、で、旦那さんのビンビサーラ王は、お釈迦様に帰依していたから、その奥さん、あ奥さんっていっぱいいたんだけどね、そのうちの一人だったんだけど、そのケーマーも、お釈迦様に会わせたいと思っていたんだ。
でもケーマーはお釈迦様に会いたがらなかったんです。なんでかって言うと、あの、お釈迦様は無常を説くって知ってたから、ケーマーは自分の美しさに執着していたから、あの、お釈迦様に会ったらきっと、それ、それふけるよとか(笑)、あの、なんかがあってグジャグジャになることもあるよとか、あるいは、君の体は臭いよとか、色々こう、なんていうか、捨断の教えを説かれると思ったんだね。
だからそんなんは嫌だと思って、会いたがらなかった。で、ビンビサーラ王はちょっと作戦を練って、あの、おぅケーマーと、実はあの、どこどこの庭園っていうのがあって、その庭園は凄いと。素晴らしい庭園で、行くだけで気持ちいいんだから、お前行ってみたらいいよと、言ったわけだね。それで興味を持って、ケイマー王女は、そうなんですかぁっつって、あの、馬車に乗って、行ったわけだ。で、あ、ここがその庭園か~って言ったら、そこにお釈迦様がいた。まんまとはめられたわけですね(笑)。で、お釈迦様と出会ったんだけど、ここでお釈迦様は、神通力による教化をしたんだね。
何をしたかって言うと、あぁお釈迦様だって見たら、お釈迦様の隣に、見たこともないような美女がいたんだ。それは人間とは思えないような、もう天の女神かと思われるような美女が、お釈迦様の隣に立ってた。え………。で、ケーマーはそれにもう惚れ惚れしちゃって、なんて美しさだって見てたら、その美しい女性が、ほんの数秒間の間に、ぐぅーーーってホラー映画みたいに老いていって(笑)、老人になって、バタっと倒れて、体から臭い液体を出して、でウンウン言って、歯も抜けて、頭もボサボサになって、苦しんでいた。
で、その光景を見せられて、ケイマーはハっとしたわけだ。恐怖に襲われて。元々その、前生からお釈迦様との縁があったんで、そこでもう目覚めたんです、心が。私はバカだったと。やっとその無常の真理を悟ったと。お釈迦様、ありがとうございますと。それは、お釈迦様が神通力で作り出した幻だったんだけどね。で、そこでもうお釈迦様に帰依して、いや帰依したどころか、あの、やっぱり縁があったから、あの、王様の下に戻って、王様、私はお釈迦様の素晴らしさがよく分かりましたと。で、その、修行の素晴らしさもよく分かりましたと。だから私は今日から出家したいですと。言い出したんだね(笑)。
そしたらビンビサーラ王は何の躊躇もなく、それは素晴らしいと、行けと(笑)、何の執着もなく(笑)、自分の奥んなのに、奥さん絶世の美女だから、本当は執着するじゃないですか。でもこいつが、目覚めて、悟りのために出家したいんだったら、それは最大の喜びだと。それが本当の愛なんだ。これが情と愛の違いっていうの。
だから人間のカルマを切るには、やっぱりそういう形で、あの、情よりも智慧、あるいは情よりも愛っていう形で、あの、物事を見る訓練をしなきゃいけないんだね。
でも、さっきから言っているように、これは若干高度になってくる。まず、我々が、一番最初にやらなければならないのは、憎しみ、それからまぁ、単純な快楽とかに流される無智、それから、自分の物にしたいっていう貪り、この三つは断固として排除しなければならない。仏教のね、段階的修行で言うと、まず第一段階は三悪趣の滅尽なんです。ね。つまり仏教の修行によって得る果報の第一段階は、もうこの人は地獄、動物、餓鬼には生まれないと。これが我々がまず達成しなくてはならないことなんだね。
人間になっちゃうかもしれないよ。でもそれはしょうがないとして、まず最悪、最悪その三つには行かないと。それにはその理由となっている自分の中のその、今言った地獄、憎しみ、貪り、無智を、あの、なくさないといけない。で、もう、三悪趣には行かないぞというくらいに持っていくんです。で、その次の段階で、人間や阿修羅や天のカルマを切っていくわけです。それによって、高い世界に行くようにすると。
もちろん最終的には解脱があって、まぁあるいは菩薩、の道があるわけだけど、だから、あの~、ま、そんな感じかな(笑)。まとめると、もちろん、情はあっちゃいけないんだけども、段階的な修行があるから、優先順位で言うと、まぁ、まだ後の方になるね。
で、阿修羅になると、阿修羅ならさっきから言っているような、プライドとか闘争心とか卑屈さとかそういう世界になる。で、そういうのをやめていかないといけない。
で、天になると、まぁ天っていうと、一応カルマ的には、いいわけですね。つまり、色んな、低い、汚れは少なくて、徳が多いと。しかしその、無智があるんだね。いつも言うように、意図的無智っていうか、天界的無智っていうか、つまりその、まぁカイラスも一歩間違ってそうなるからね。どういうことかって言うと、ほんとカイラス楽しいと。みんな徳があって心もだんだん清らかになってきて、ほんと楽しいと。ね。
例えば、カイラスはまぁ、修行もしっかりしているからいいけど、あの、例えば修行もしないでみんないっつも集まってワッハッハワッハッハってやってたら(笑)、そしたら天界かな~って感じがする(笑)。あの、インドのヨーギーとかサドゥーってそういう感じがあるよね。なんか私も色んなサドゥーとかに会ったんだけど、最初は聖者っぽくて、あの、うん、全ては愛だよとか、ピースとかハッピーとか言っているんだけど、一日見てると、ただずーーっとガンジス川とかで『ハッピーハッピー』とか言っているだけで、え、この人、修行してないのかなーって(笑)。
まぁマリファナとかやっている人もいるけど、マリファナやってなかったとしても、ある程度の徳とか、その、心の浄化によって得た、楽っていうかな、それは悟りではないんだけども、その、非常に幸せな状態に満足しちゃっているっていうか。それ以上頑張って修行とかしない状態。これは天のカルマ。
でも、天のカルマが現われるっていうのは、ちょっと条件がいるわけだね。ある程度修行が進んでいないとそれは、最初からそんな心配する必要がないっていうか(笑)、うん、修行が進んできてちょっと私は、昔みたいな、あの、煩悩的な怠惰さではないけども、ちょっと、悟りではないけども、ある程度の、修行で得られた喜びに、ちょっと満足しちゃっているなと、思ったら、いや、私はまだ悟っていないんだから、もっと努力しなきゃいけないと、そういう気持ちを起こさないといけない。
まぁ、そういう、段階的な、あの、浄化が必要だね。はい、他なんかあります。」
みんな「……………………」
先生「じゃあ、あと一個だけなんか質問なり、聞きたいことなり、聞いて終わりにしましょうか。なんかありませんか?」
T君「菩提心っていうのは、衆生を救うために自分がまず悟ろうっていうやつじゃないですかぁ。それも、情が動機じゃダメっていうことですか?」
先生「だからねぇ、ちょっと変ないい方だけど、情は悪いのかって言った場合、二つ考え方があって、情は悪いですよと。本質を見失いますよと。で、もう一つ考え方として、情を昇華しろっていう考え方がある。つまりその、あなた、この人好きなんだねと、いや好きなんですと、情ですね、切りなさい、ではなくて、だったら本当の意味で幸福を考えましょうと(笑)。つまりそのやり方をするなら、実は情の強い人の方が、愛も強まるんだね。
だからやり方っていうのは二つある。その、捨断か昇華。で、現代ではやっぱり昇華の方がいいと思うんだよね。 現代って多分ねぇ、色んな人を見ていて、自分もそうだけど、現代人って捨断って苦手なんです。なぜかって言うと、精神が甘いから(笑)。いや、ほんと、捨てろって言われて捨てられないんですよ。
いや、前も何回か言ったけど、あの、ラーマクリシュナの話でさぁ、あの、ある、ラーマクリシュナのね、その、友達の聖者がいて、って友達の聖者ってのも面白いけど(笑)、その人は火を拝んで悟りを得た人なんだけど、それによって全てはブラフマンであると。つまりその、全てはまったく区別がない、唯一の神の顕れであると悟りを得た。そういうことをみんなにも言ってたんだけど、ある時その、男がやってきて、その神聖なる火に、タバコを投げ込んだ。そしたらその、聖者が、カッと怒り出して、お前、なんてことをするんだと。ワーーーーって非難した。
そしたらラーマクリシュナが隣で笑ってて、あなたの、「全ては神である」はどこ行っちゃったんですかと(笑)。で、そこでハッとその聖者はしたわけです。で、ここが聖者の偉いところで、今の現象を分析したんです。それによって得た答えが、怒りは悟りを壊すっていうことに気付いたんです。で、さらに偉いのが、気付いたことによって、よし!俺は今日から怒りをやめた、っつって、一生怒んなかったって(笑)。
そういうね、覚悟っていうか、心の強さがあればいいんだけどね。例えば今日も話を聞いて、え?、今先生が言ったことは分かりましたと、憎しみ、貪り、無智、情、あとプライド? 捨てればいいんですねと。はい! 分かりました! っつって(笑)、明日から聖者になれたら、誰も苦労しないんだけど、なかなか捨てるのは難しいんだね。だから捨てるっていう要素も必要なんだけど、それよりもその昇華の方に持って行った方がいいかもしれない。
例えば私が、家族を好きなんだと。で、その家族を好きだっていうのをやめなさいとは言わないけども、好きだったら本当の意味での家族の幸福を考えなさい、情を愛に変えなさいと。そっちの道の方が現代には向いているかもしれない。
でもそうなってくるとねぇ、平等になってくるから、あの、そういう意味で昇華されてくる。平等になってくるってのは、愛っていうのは結局、その、なんっていうかな、条件によって左右されなくなってくるから。うちの家族だから、だけじゃダメになってくる。でもそれは、一つの、発想としては、一点から広げていく考え方なんだ。つまりその、よくあの、チベット仏教でも、母なる衆生っていう言い方があるじゃないですか。あれはつまりその、まずお母さんへの愛着とかをまず肯定するわけだね。お母さんは愛すべき、あるいは、恩恵を受けたから感謝すべき人だと、こう肯定する。でも、みんなお母さんだよと(笑)。前生とかも入れたら、みんなお母さんだよと。だからこれはちょっと昇華的な考え方だ。
はい、君はお母さんに執着してるの? 切りなさい、ではなくて、お母さんに執着しているんだろうけど、実はみんな変わらないんだよと。同じように私に恩恵を与えてくれたことのある魂なんだよと。だから母と同じように愛し、あと、恩を感じなさいよと。そうなると、この人は好きだけどこの人は嫌いとかだんだんなくなってくる。
情の悪いところっていうのをもう一つあげると、必ず裏側に、憎しみとか、嫉妬とか、汚い感情が出るところだね。愛ってそれはあり得ない。全ては平等だから。情っていうのは、この人好きだけど、この人嫌いだとか。あるいはこの人好きで、それを邪魔するこの人許せないと。だいたいねぇ、情の強い人って、あの、そうだな、例えばこういうタイプがいる。あの、仲間に超優しいと。敵には超えげつないと(笑)。これは人間界の一つのパターンなんだね。あの、情と憎しみの世界っていうか。
で、もちろんその仲間も、まぁ、あの、かわいさ余って憎さ百倍っていう言葉もあるように、ちょっと条件が変わると、もう物凄い憎しみの対象に変わってしまう。で、そういうなんていうかな、情とその裏側の憎しみに、グジャグジャになった世界が、人間界なんだね。でも、それをちょっと利用して、情のいい部分を利用して、それを愛とか四無量心に昇華させるっていう方法がある。
はい、他になんかあるかなぁ。……はい、なかったら今日はこの辺でおしまいにしましょう。」
みんな「ありがとうございました」
-
前の記事
2006・9・3「解説・入菩提行論」読書会 その⑥ -
次の記事
ギッジャクータ(霊鷲山)