解説「シクシャーサムッチャヤ」第一回(3)

はい。そしてそれを続けることによって、「未だかつて得ることのなかった喜びを得、その菩薩の素晴らしい至福はどんどん増大して減少することなく、最終的にブッダの最高の至福を得るべし」と。
はい。まずこの中で、そうですね、おそらく多くの人は、そうだな……このいわゆる法楽ね、法の喜びっていうのを感じたことがあると思う。どういうことかってというと、例えばまあこのカイラスでもいいし、あるいは一般の仏典とかでも、あるいはヨーガの本とかでもいいんだけど、それを読んだときの喜びだね。「ああ、素晴らしい」と。「ああ、わたしはなんかこの教えは正しい気がする」と。「ああ、わたしはやっとこういうものにめぐり合えたんだ」――っていう、こういう喜びね。これがスタートですね。ここから始まって、まあさっき言った、自分を教えに照らし合わせていく、あるいは過去の罪を懺悔していく――この繰り返しによって、だんだんだんだん心の雲が晴れていきで、で、そういった法の喜びをたくさん感じるようになるんですね。
それはまあいろんな場面であるでしょう。今言ったような、教えを聞いてバーッと歓喜になる場合もある。あるいは例えば、法友たちを見てね、「ああ、修行の仲間がいるっていうのは素晴らしいな」と歓喜するかもしれない。あるいは自分の修行の進歩を見てね、歓喜するかもしれない。あるいはそういうことではなくて、心の闇が晴れることによって、自分の中に眠っていた純粋さがよみがえってきて、理由のない喜びに浸るかもしれない。ああ、本当になんかわたしは幸せだなと。
で、これが減少することなく増大するんだと書いてある。つまりこれは理想です。理想。つまりそうならなきゃいけないんですね。つまり、減少しない。そして増大しなきゃいけないんです。
増大しなきゃいけないっていうのは、例えばですよ、まあ皆さんがね、例えばここで「ああ、本当に教えは素晴らしいな」って歓喜になったとするよ。その歓喜になった経験が、思い出になっちゃいけないんですよ(笑)。「そういえば昔、僕は歓喜になったなあ」と。「最近マンネリ化しちゃったな」とかね、それは駄目なわけです(笑)。つまり増大しなきゃいけない。増大するっていうのはどういうことかというと、「あれ? そういえば三ヶ月前に勉強会とかで歓喜になった経験あったけども、あれ今考えたら全然たいしたことなかったな」と。「最近の歓喜の方がもう素晴らしいな」と。それくらいになんなきゃいけないんだね。
これは前から何回も言ってるけど、わたしの修行経験もそうで、わたしは中学生ぐらいからヨーガとかの修行を始めて、高校生ぐらいに結構、なんていうかな、力を入れていろんな修行してたんですね。で、そのころっていうのは、まあある意味修行始めたばっかりだったからっていうのはあるんだけど、いろんな神秘体験があったんですね。例えば体が光に包まれたり、あるいはものすごく気持ち良くなったりとか、いろんなヴィジョンが見えたりとか。で、そのときは本当に自分としてはとてもびっくりした感じで、「おおっ、すごいな」っていう感じがあった。でもその数年後に、まあもっとね、いろんな修行をして、数年後にそのときのこと振り返ると、「あれ? 大したことないじゃん」と。つまりそのあとに経験したことの方がすごかった。で、またその数年後にそのね、数年前を振り返ると、やっぱり大したことない。これで正しいんです。つまりその時点の経験、例えば歓喜とかあるいは光とかいろんな経験はそれはもちろん素晴らしいんだが、例えばその後数ヶ月とか一年二年で、それを「そんなのはどうでも良かった」ぐらいに思えるぐらいの更なる経験、更なる喜びを味わえないようじゃしょうがないんだね。こういう感じで進歩していかなきゃいけない。
だからいつも言うけども、経験は経験として喜ばなきゃいけないんだけど、それにこだわっちゃいけないんですよ。こだわったらもうそれ以上の経験ができなくなっちゃうから。「おれはこんな素晴らしい経験をした」と。「ああ良かった」ね――例えばT君が「おれはこんな素晴らしい経験をしたんです」――まあそれは素晴らしいとするよ。「おお、そうなんだ、すごいね」と、みんなから言われると。で、わたしも「すごい経験したね」と言ったとするよ。で、例えばそれから日々が過ぎ、三ヶ月、半年、一年経ちましたと。で、一年経ってまだT君が「先生、一年前おれこんな経験したんです」――こんなこと言ってきたら、「えっ、まだそんなこと言ってんの?」と。「あそこからまだ進歩してないんですか」と、こうなるわけですね。だからとらわれちゃうと、「おれはこんな経験したんだ」と――まあ、これは何回も同じ例えを言っているけども、つまりそれは道しるべにすぎない。例えばお使いを頼まれてスーパーに行ってくださいと。で、そのスーパーに行くときに――まあちっちゃい子供がね――まずは魚屋さんを通って、美容室を通って、八百屋さんを通って、とか教えられて、で、その子がもうほんとに不安でキョロキョロしながら行ったら、まず第一の目的、魚屋さんが見つかったと。そこで当然喜ぶわけですね。それはオッケーなんです、もちろん。「あ、目印の一番目、魚屋さんが見つかった」と。「やったー、やったー!」と。で、問題はここでこの子供がそれに執着して、「おれの見つけた魚屋からは一歩たりも離れたくない」と言って、そこで魚屋で喜んで、喜び続けてたら、もう一生スーパーには到着しない。ね。つまりその到着したこと自体は喜ばしいんだけど、その時点でもう忘れて、さあ、いかに次の美容室に早く到着するかと、ここに次は目を向けるんですね。このような進歩的なっていうか、飽くなき探求心ね。飽くなき真理への探求心がないと、なかなか修行は進まない。
――っていうのはさ、われわれははっきりいうと、器が狭いんです。狭いっていうか、器が既定されてるんですね。われわれはそれぞれの、まあ魂っていうかな、心の器みたいなものを持っている。で、非常に狭い。狭いから、ちょっとでもそれを超える経験をするともう満足しちゃう心があるんだね。「おれはすごいな」って思ってしまう。でもそれは自分の器が狭いからそう思うわけであって、その修行全体あるいは仏陀の境地から見たら、全然本当に井の中の蛙だと。だからね、本当に飽くなき欲求を持たなきゃいけないんです。
これはいつも言っているけども、ラーマクリシュナもそうだし、お釈迦様もそうだし、いろんな聖者方が言ってますが、真理というもの、あるいは悟りというものに対しては、強い熱意、そして欲求を持たなきゃいけないです。
これも勉強会では何度も言ってますが、よく勘違いしてる人がいるわけですけども、欲求というのは、もちろんすべて悪いわけじゃないんだね。よく「欲を捨てなさい」とか言うけども、あれは欲の方向性が間違っているから捨てろと言ってるだけなんです。そうじゃなくて、正しい欲をわれわれは持たなきゃいけない。つまり欲っていうのは意志と言い換えてもいい。意志のベクトルですね。willですね。willのベクトルを持たなきゃいけないんだね。つまり「おれはこうしたいんだ」と。「こうするぞ」と。で、その方向性が間違っているのが多くの人だと。だからそれを捨てなさいと。じゃなくて、例えば「わたしは神を悟りたい」と。あるいは「真理を悟りたい」と。あるいは「衆生のために修行を完成したい」と――これはもう、飽くなき欲求を持たなきゃいけない。飽くなき――つまり「これくらいでいいか」っていう思いじゃなくてね。
なんでかっていうと、もう一回言うけども、われわれが「これくらいでいいか」って思うときっていうのは、われわれのキャパシティのいっぱいいっぱいのときなんです。で、その自分のキャパシティなんて大したことないんです、客観的に見たらね。つまりそれは自分のカルマが悪いから、なんていうか、適当なところで満足しちゃってるだけなんだね。だから仏教ではよく慙愧っていうんですが、簡単に言うと慙愧っていうのは「自分はまだまだだ」と、この思い、この意識を常に持ち続けるんですね。
「生涯一書生」っていう言葉があるけど、これはとてもいい言葉だね。書生っていうのは学生っていう意味ですけど、つまり普通はね、書生っていうのは、最初学生として勉強学び始めて、で、だんだん先生になって、で、だんだんお偉いさんになっていくわけですけども、そうじゃなくて「わたしは一生、一書生である」と。つまり、一生学び続けると。一生まだまだ、これで終わりなんていうのはないんだっていう気持ちですね。こういう気持ちが大事ですね。どんな境地に至ったとしても、まだまだ全然であると。もっともっと真髄を極めたいっていう気持ちを持ち続けなきゃいけない。
はい、で、そのような気持ちを持って、飽くなき努力を続けることで――ここに書いてるように、素晴らしい至福は減少することなく、どんどん増大するんですよと。逆に言うと、減少してると思ったら、それはまずいと思わなきゃいけない。わたしは悪いカルマが出てきて、ちょっと修行が後退してるなと。あるいは変な方向に行ってるなと。
だからまさにこれも同じね。シャーンティデーヴァの『入菩提行論』とかを日々読んで、自己チェックしなきゃいけないんだね。いつも言うように、魔的なものっていうのは、いつどんなかたちで自分に入り込んでくるかわかんない。「ああ、最近わたしはちょっと修行者として甘くなってたかもしれないな」とか、あるいは「以前に比べて真理っていうものに対する歓喜がなんか薄くなっているな」と。「これはまずいな」と。あるいは「以前はもっとこう真剣だったのに、ちょっと怠惰になってるな」とか。そういうのを自分に発見し、修正する日々の努力が必要なんですね。はい。それによって、「素晴らしい至福はどんどん増大して減少することなく、最終的にブッダの最高の至福を得るべし」と。
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