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解説「菩薩の生き方」第十六回(6)

 「けがれのない感官を完全にそなえ」っていうのも同じで、つまりこれも別に目が見えなくても耳が聞こえなくても修行はできるかもしれないよね。でもやりにくいですよね。目が見えなくても当然音で修行できるかもしれないし、耳が聞こえなくても目でなんとかなるかもしれない。でもやりにくいことはやりにくいね。うん。で、目と耳もちょっと駄目だったら、まあそれでもいろいろ点字とかでできるかもしれないけど、やりにくいですよね。で、こういうのも考えればキリがない。で、われわれは少なくとも、一応はちゃんと使える五感を得たと。で、これはもちろんそのような聖なるもののために使わなきゃいけない。体もそうですよ。例えば蓮華座というのは素晴らしい気を上げる方法であると。でもわれわれがもし障害があって足がなかったりしたら、蓮華座組めないよね。もちろん蓮華座組めなくても解脱はできる。しかしシステムとして、この蓮華座っていうシステムができないのはまあ非常にマイナスであると。そういうのを一個一個考えていくと、なんて恵まれてるんだと。われわれは蓮華座組める足があるじゃないかと。あるいは経典を読める目があるじゃないかと。あるいは教えを聞ける耳があるじゃないかと。これ以上何を必要とするんだと。ね。あるいはいろんなかたちで修行できるだけの――もちろん皆さんも体が不調だとかいろいろあるかもしれないけども、不調とはいえ一応は修行できる体をもらってると。あるいは不調っていうのは、例えば肉体的不調は、それはそれでカルマを浄化する受け皿ですから、そのカルマを浄化する受け皿として肉体を与えてもらった――これも大変な喜びであると。あるいはわたしは手が動くじゃないかと。この手が動くことによっていろんな奉仕もできるし、あるいはいろんな修行もできるじゃないかと。ね。
 で、だから逆に、もちろんわれわれはこの現世で仕事をしたり、あるいは現世的なこともいろいろやらなきゃいけないわけだけど、でも本末転倒にはならないようにしなきゃいけない。つまり、われわれはこの世を楽しむために五感と五体をもらったわけじゃないと。修行し、そして奉仕し、そして神の道具となり、菩薩として働くために、手をもらい、足をもらい、頭をもらい、目をもらい、耳をもらったんだと。そのためにまず使うのがメインであって、しかし一応カルマによっていろんなことやんなきゃいけないから、それはサブとしてもちろんやると。もちろん修行以外に使っちゃいけないってわけじゃないよ。会社でこうやって(笑)、修行用ですからって、そこまでする必要はない。うん。もちろん会社の仕事は仕事として、あるいは家庭その他の仕事もそれはそれでいいわけだけど、しかしあくまでもそれはサブであると。メインというか、われわれがこの五体と五感と、あるいは知性も含め、いろんなものを今神からもらったのは、聖なる修行、あるいは聖なる実践のためにもらったんだと。
 で、繰り返すけど、それも、なんていうかな、普通のことじゃないんだと。これはほんとに幸運なんだと。つまり普通に目の見えない人はたくさんいる。耳の聞こえない人もたくさんいると。繰り返すけど、別に修行がそれでできないってわけじゃないんだけど、でも障害がないことの喜びはちゃんと感謝して味わわなきゃいけない。それ、いつどうなるか分かんないからね。それもね、リアルに考えてもいいかもしれないよ。だって今、リアルにあり得ますよね。あり得るっていうのは、病気あるいは怪我によってさ、いきなり皆さん目が見えなくなるかもしれないよ。そしたら後悔するよ、きっと。もっとちゃんと経典読んでおけば良かったと。もっとこの目に教えをちゃんと味わわせるべきだったと。あるいはこの目によって、もっともっと暗記するぐらいに教えを読むべきだったと。あるいは神の絵とか、あるいはグルでもいいけど、その聖なるイメージをもっと目に植えつけるべきだった――それなのにわたしはいつもネットで変なものばっかり見てたと(笑)。この目で変なものを、変な情報を入れることにしか目を使ってなかったと。ああ、もっともっと聖なるものを入れるために使えば良かったと。もう今はなくなってしまったと。あるいは耳もそうだけどね。耳もだんだん聞こえなくなってきたと。ああ、もっと耳がちゃんと聞こえるうちに多くの説法を聞いたり、聖なる教えを聞けば良かったと。あるいは足もそうだけど、いきなり皆さんの足がなくなるかもしれない。もっと真面目に日々蓮華座組んどけば良かったと。ね。あるいは体全体もそうだけどね。もちろん皆さん年取るだろうし、年取らないまでも病気とか怪我でもう修行もできなくなるときあるかもしれないよ。それでも頭さえ残ってればなんとか精神的な修行はできるけど、でも皆さんの体がボロボロになったあとに、もっとちゃんと修行しとけば良かったと(笑)。ね。体がちゃんと使えるうちに、エネルギー的なものも含めてね、あるいは奉仕も含めて。奉仕なんかまさにそうだね。皆さん寝たきりになったあとに、「もっと奉仕しとけば良かった」とか言っても、それはもう後の祭りであって。だから繰り返すけど、この肉体を、あるいは五感を十分に使って、全力でわれわれは修行や奉仕に励まなきゃいけない。
 はい。ちょっとこれもまた広がっちゃってるけど、だから衆生がそのような、真理を十分にちゃんと実践できるような五感、清らかな五感を持ち、そしてさまざまな修行できない原因、条件を乗り越えますようにと。はい。そして、言い方を換えればしっかりと真理に巡り合って、正しい生活を送れますようにと。

 「行ないが自由自在となり」っていうのも、さっき言ったのと関わるけどね。つまりいろんな社会的条件に束縛されていないと。修行ができないような――例えば昔の、一時期の中国は、つまり毛沢東、あの中国共産党によって完全に宗教弾圧、ね。そしてチベットはそれによって苦しめられたわけだけど。チベットの人たちはそれによって、そうだな――チベットのほんとの高僧たちもたくさん捕まって、牢屋に入れられ、あるいはある人は拷問で殺され、ってことが実際にたくさんあったと。ただ高僧に関してはまだいいのかもしれない。つまり高僧はそれを修行ととらえるからね。で、拷問にかけられながらも相手の幸せを願って死んでいくと。あるいは、いろんな話を見ると結構のんびりした人もよくいてね。もう三年間ぐらい牢獄に入れられちゃったと。出てきたら、ある人は、「良かった」と。この牢獄に入れられたおかげで、ついに、観音様のマントラね、「オーム・マニ・パドメー・フーム」を一億回達成したと(笑)。一億回ね。一億回ってすごいよね。あれ計算すると一億回、三年ぐらいかかります。ずーっとそればっかり唱えててね。つまり三年間入れられたおかげで、「一億回唱えられました!」と。ある人はまあ別の修行を達成したとかね。つまり全然その苦境を苦境と思ってないと。そういう人ならいいんだけど。そうじゃなくて単純にガーッて弾圧されて、全部その聖なる、ダライ・ラマの写真とか仏像とか全部破壊されて、で、「おまえらはちゃんとこの共産主義で再教育してやる」って言われて、「これを聞かないと拷問だぞ」みたいに言われて、心が弱くて「分かりました、すみませんでした」ってなって、そうやって従ったりした場合ね、当然もう自由がないと。
 そうじゃなくてもともと――現代の中国はだいぶ、もちろんある程度自由になってるだろうけど、その当時の中国ね。もともと中国の本土にいた人たちも、当然そのように思想統制されてたら、なんか縁があってパッと真理へのあこがれが出てきたとしても、やっぱりそれは、それをする自由はないと。そんなことやってたら捕まってしまうかもしれないと。
 はい。だからこれは別に作り話じゃなくてさ、歴史的にも近代で実際にあった話であって。で、実際にそういういろんな世界の歴史的にも、この今の中国の話だけじゃなくて、思想統制されてるっていうのは当然たくさんあったわけで。そうならなかったこともわれわれは今喜ばなきゃいけない。今そのようになってないことをね、喜ばなきゃいけない。そしてみんなもそのような状況ではなくて、しっかりと自由を得られる環境にあって、そしてさっき言ったようなさまざまな障害を乗り越えて、で、真理に巡り合い、そしてその真理に従って正しい生き方ができますようにと。これがまあ、まずここの願いですね。
 だから、繰り返すけど、こういったことを考えると、もちろんみんな衆生への願いでもあるんだけど、何度も言ってるように、自分自身を顧みてね、自分はちょっとぜいたくだったんじゃないかと。自分はこんなにすごい環境にいるじゃないかと。ここまで自由があって、で、いつも言うようにバクティヨーガや菩薩道といった最高の教えに巡り合い、そして多くの教えも受け、多くの修行法も教えてもらい、で、もちろん皆さん忙しいとか時間がないとかあるかもしれないけど、しかし、とはいえ時間あるよね。とはいえ、あると。ほんとに二十四時間強制労働させられてるわけじゃない。北朝鮮は、わたしもちろん行ったことないから分かんないけど(笑)、いろいろ聞くと、例えば北朝鮮とかで政治犯とかになると、そういう強制労働所に送られ、もうほんとに一日二十時間とか、もう朝から晩までただただ労働の毎日であると。もちろんそこでも労働しながらマントラとか唱えられるかもしれないけども、見つかっちゃったら拷問されるかもしれない。「オーム・マニ……」「あっ! おまえ今マントラ唱えてただろう」と(笑)。ね。冗談じゃなくそういう世界があるかもしれない。そうじゃなかったことにほんとに心から喜ばなきゃいけない。
 はい。だから、何度も言うけどさ、われわれはほんとにその気持ちを日々育ててね、朝起きたときから喜ばなきゃいけないんだよ。朝起きてパッと目覚めて、「あれ? おれ今人間界で、あらゆるものを超えて今修行できる人生じゃないか」と。「えっ、修行できるの? 真理に今巡り合ってる」――ね。いろいろ細かいトラブルとか苦しみとかあるかもしれないけども、もうそんなことはどうでもいいと。「こんな幸運に巡り合ったんだ! やったー! 今日も一日頑張ろう!」っていう感じで朝起きると。こういった、初心に返る気持ちをやはり忘れないようにしなきゃいけないね。はい。で、ここではそれを衆生に「そうでありますように」って願ってるわけですね。

 そして、「すべての衆生が、すべて手に宝を掌握し、すべての資具は限りなく、輪廻にある限りつきることがありませんように。」と。
 はい、これは完全な解脱とか菩薩とかじゃなくて、一般的な生きる上での必要なものね。つまり衣食住、あるいは宝ってあるけども、この世におけるいろんな富。あるいは例えば、細かく言えば医薬品とかいろいろあるわけだけど、つまり単純に「みんな解脱しろ!」とかじゃなくて、当然そういう――例えばリアルに言ったらさ、「さあ、あの人もあの人も幸せになってほしい」と。できれば、さっき言ったように、みんな菩薩になってほしいと。でも当然その愛の気持ちからいったらさ、ある程度のいろんな現世的なことも含めて幸せであってほしいって思うよね。例えば、あの人、偉大な修行者になってほしいなと。でも日々何も食えないとかね、着る物もないとか、それはどうでもいいよ――じゃなくて、できればちゃんと――まあ、われわれ日本で、いつも言うけど麻痺してるからさ、毎日おいしいもの食えて当たり前っていう麻痺した感覚があるけど、世界を見渡したらそうでない国もたくさんあると。だから少なくとも日々の衣食住に事足りて、ちゃんとその辺はベースとしてあって。そしてある程度の素晴らしい友人にも恵まれ、ある程度この世で幸せであってほしいなと。そして、さらにその上で修行し、解脱してほしいなと。そういう思いはあるよね。
 もちろん一番なのは、繰り返すけど、その人が真理と巡り合い、それが菩薩道であろうがなんだろうが、その真理の実践、あるいは真理の、神への道を誠実に歩むこと、これが最高です。これが一番っていうか、外せない願いです。でもできるならばそれを、みんな一般的な意味でも幸せなままやってほしいと。自分はいいんですよ。自分はみんなの苦しみを背負ってかまわないと。だから、「くそーっ、菩薩道! 苦しいけど頑張るぞ!」――これは自分はいいんだけど、みんなにはそれを押し付けちゃ駄目。みんなは幸せに菩薩道やってほしいと。みんなはほんとに楽園のような世界で(笑)、幸せな人生を送りながら菩薩の道を究めてほしいと。もちろん実際にそうなるか分かんないよ。実際にはそれは神のご意思、あるいはその人のカルマ、あるいはその人の使命によって変わってくる。実際には――まあ実際にはそうなるか分かんないっていうか、実際には逆になる場合が多いです、当然ね。菩薩道を行こうとした場合、その人を鍛えるためにいろんな試練がやってくる。で、それは分かってる。で、それはまあ仕方がないっていうか、それはそれで喜びなんだね。
 例えば誰々さんが菩薩道を歩み始めて試練に出合いましたと。それはもちろん、ああ、苦しそうだな、頑張ってほしいなって思うけども、できれば早くそこから解放されてほしいなって思うけども、でもそのような、菩薩として苦悩に立ち向かう――これは素晴らしいシチュエーションになるんだね。だからそれはそれで喜ぶと。それはそれで喜ぶけども、でもできれば幸せになってほしい。つまり、表面的な意味でも幸せであってくれたら、それはやっぱり最高だなと。自分はどうでもいい。自分は表面的に、あるいは現世的な意味で不幸だったとしても、そんなことはどうでもいい。ただただ誠実に真理を貫けばいい。でも、繰り返すけど、周りのみんなは――周りのみんなももちろん自分と同じなんだけど、同じように、ただただ精髄の真理にしがみついていてもらえればいいんだけど、でもできれば――ラーマクリシュナの弟子とかサーラダーデーヴィーとかもそういうこと言ってるよね。弟子たちが苦行したがるんだけど、「そんなのはおれたちがやった」と。ね(笑)。「おれたちがやったから、そこまで君たちはやる必要ないんだ」という言い方したりするわけだけど。
 だからそういうふうに、菩薩っていうのは当然、あるときは人を育てるために厳しくなるわけだけど、ベーシックには愛で満ちてるわけだね。愛に満ちてるから、まあ変な話、みんな苦しまずに解脱してほしいと。でもそう甘いもんではないと。甘いもんではないから、実際には苦悩の中に突き落とされなきゃいけないときもたくさんあるわけだけど。でも、それは現実はそうなんだけども、でも願いとしては、みんなこの世でも幸せに、そして菩薩になってほしいと。矛盾があるんだけどね。実際にはそんな甘い環境じゃ菩薩にはなれない。でもわたしが全部それを背負うから、みんなには苦しみなく幸せのまま菩薩になってほしいと。こういう願いもあるんだね。
 だからこの辺は完全に逆転してるんだね。みんなの方――みんなの方っていうか、ほんとにみんなに甘い。――甘いっていったら変ですけど(笑)、みんなにほんとにできるだけあらゆる意味で幸せになってほしいと思ってると。で、自分はもちろん究極の真理は追い求めるけども、それ以外の部分は自分はもうどうでもいいと。
 でも、繰り返すけど、現実的には当然すべての衆生がそのような多くの苦悩を乗り越えて偉大なる覚醒を得なきゃいけないんだけど、願いとしては、みんなあらゆる意味で幸せになってほしいと。

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