解説「菩薩の生き方」第十二回(4)
そしてもう一つ、ジュニャーナヨーガ的に考えるならば、これも実はジュニャーナヨーガでも分かる。何を言いたいかっていうと、よくこれも何回か言ってるけどね、よく最近の仏教界では、学者にしろ、お坊さんまで、輪廻転生を否定したりする人もいる。「いや、輪廻なんてないんですよ」とか、「死んでも生まれ変わらないんですよ」とか、「地獄とかもないんですよ」とか言ってるお坊さんとかもいてね、まさに世も末って感じですけども(笑)。それははっきり言うと、いつも言ってるように、まず修行が足りないっていうのはあるよね。だからほんとに原則から言ったら、坊さんなら死後の世界を見るぐらい修行をしろと。ね(笑)。坊さんじゃないならいいんだけど、坊さんなら――今のチベットはどうか知らないけど、昔のチベットはそうですからね。昔のチベットではよく、真面目なお坊さんとかはね、例えば誰かが死んで、「じゃあ、この人の葬儀をやってください」って言われると、ちょっと躊躇するっていうんですね。なぜかというと、葬儀をやるっていうことは引き受けるってことですから。その相手の魂を――もちろん相手のカルマがあるから、ちょっと手伝うくらいしかできないんだけど、でも少なくとも手伝えるくらい、ちょっと相手を引き上げられるくらいの力量が自分にないといけないんだね。それには当然修行によって、現実的に、リアルに死後の世界のことが分かってないといけないし、そして分かってるだけじゃなくて相手を引き上げ、ちょっとでも引き上げ――まあ相手のカルマにもよるからね。地獄に落ちるはずだった魂を動物ぐらいまでに引き上げるとか、その程度だとしても、引き上げられるくらいの力量とパワーと力がなきゃいけないと。だからそれを検討するっていうんだね。「わたしの修行でこの人を引き上げられるだろうか」と。だからそれだけのものがほんとはなきゃいけないんだけども。
ちょっと話を戻すけど、でも修行不足だから死後の世界も分からないと。で、そういったクンダリニー的な、あるいは霊的な修行がまだ追いついてなかったとしても、実はジュニャーナヨーガ、つまり正しく教えを分析するだけでも、実は分かります。皆さんがほんとに智性的に――ただ、いつも言ってるようにジュニャーナヨーガっていうのは現代で難しいんだけども。難しいけども、もしほんとに智性があって、で、教えもしっかりと心に根付いていて、で、深い意識で教えを智性的に分析できたら、われわれが解脱しない限りは輪廻っていうのがあって、で、地獄も確実にあって、そして今のわたしの生き方でこのまま今死んだらかなりまずいなっていうのは、ジュニャーナヨーガで分かります。つまり分析で分かるんだね。
はい、で、ちょっと話を戻すけども、だからいずれかの方法、もしくはまあすべてを包含した方法でね、その意味では自分を追い込んでいかなきゃいけない。「わたしは一体、正しい生き方をしてきたんだろうか?」と。「いや、してない」と。
いつも言ってるけど、お釈迦様の原始仏典をひも解いてもそうだからね。お釈迦様の言い方っていうのは、この全大地の砂粒。そして、指の上に乗せたわずかな砂粒。これが、人間が死んで、少なくとも人間以上に生まれ変わるか、地獄・餓鬼・動物の三悪趣に生まれ変わるかの確率であるっていうんだね。相当な確率ですよね(笑)。地球全土の大地の砂と、指の上の砂の違いであると。意味分かるよね。つまり、ほとんどの魂は地球全土の大地に比されるぐらいの確率で地獄・餓鬼・動物に落ちると。ほんとにわずかな魂のみがやっと人間か天に至ると。これはまずお釈迦様が説いた一般論です。これが一般論。
もちろん、ダルマに巡り合いました、あるいは修行に巡り合いました――この人はこの一般論の世界からこのわずかな魂に飛翔できるチケットは得てるんだね。チャンスは得てると。でもこれもお釈迦様の素晴らしい言葉だけど、「わたしは君たちに解放の道、解脱の道、救済の道を指し示した」と。「しかし、やる・やらないは君たち次第である」と。ね(笑)。これ、お釈迦様の有名な言葉だね。「わたしは指し示したが、やる・やらないは君たち次第だ」と。で、ここで無智な弟子、馬鹿な弟子は傲慢に陥り、「いやあ、わたしは偉大なお釈迦様の弟子になった」と。「いやあ、仏教の偉大な道に入った」――それはもちろん素晴らしいことだけど、しかし自分の悪業を顧みずに努力をしないと。あるいは切羽詰まった状態にならないと。そしてさらに悪業を積み続ける。こうして結局落ちていく。そして、「ああ、わたしはなんでお釈迦様の弟子なのに救われなかったんだ、お釈迦様の嘘つき!」って(笑)、地獄に落ちていく。でもこれはそいつが悪いよね、どう考えても(笑)。
お釈迦様はね、すごくね、厳しく言うんだね。厳しく、つまり今言ったように、「わたしは君たちを救えないよ」と。「教えるだけだよ」って言い方をしてるんだけど、実際はそんなことありません。実際は如来、あるいはそういった聖者方は、当然、救う力があります。でもそれも当然、これは『母なる神』とかにも載ってるけども、救われる側がいかに手を伸ばすかということとの相関関係なんだね。偉大な聖者が救いのロープをどれだけ下ろしてくれてても、こっちが全然手を伸ばさなかったら当然救えるはずがないよね。でも手を伸ばしてたとしても、もうこんな感じだったら(笑)、ここぐらいまで来てるのに、あんまり頑張らないでこんなことやってたら、それは駄目ですよね。だから自分としてもできるだけ努力して、帰依によって手を伸ばすと。
もちろん帰依っていうのは百ゼロの世界だから、ほんとにその人が百パーセントの帰依ができたら、もう距離関係ありません。どんなに地獄に落ちるような魂であっても救えます。これがラーマクリシュナが言ってることね。あなたがどんな悪業を積んでたって関係ないよと。完全にあなたがバクティを手にできれば、一瞬にして救われると。これは真実なんだが、でも逆説的に言うならば、そこまで自分を追い込める人はいない。つまり、わたしは――変な言い方すればね――わたしの悪業を考えたらもう完全帰依、百パーセント帰依で一発逆転するしか道はないと。ね(笑)。そこまで自分の悪業を認識できて、もうわたしにはすべてを投げ捨てて帰依するしかないんだって思える人がいたら素晴らしいけど、でもそれもなかなかいないね。繰り返すけど、多くの人はバクティっていう素晴らしい道に巡り合っても、自分の悪業のひどさ、あるいは心のけがれをあまり顧みずに似非バクティに落ちると。全然帰依してないのに、「いやあ、帰依しかありません」とか、「帰依してるから大丈夫です」っていう中途半端な状態に陥って、結局救われずに、「ああ、神の嘘つき!」ってなって死んでいくと。
だから、繰り返すけど、バクティの道を歩むにしろ、あるいはこの菩薩道的な教えにしろ、やはり懺悔っていうのは必要であって、そしてやっぱりわたし、いろんな人を見てると、懺悔がみんな足りない。懺悔が足りないっていうのは、過去に対する懺悔も足りないし、瞬間瞬間の自分のやってること、自分の考えてること、あるいは自分の言ってることに対する懺悔が圧倒的に足りないね。人の悪いところはよく見えるわけだけど。
まあ、これも仏典にありますけどね。お釈迦様の言葉で、「人は他人の過失はよく見つけるが、自分の過失はごまかしてしまう」と。ね。人の悪いところはすぐに見つけて攻撃したりするわけだけども、自分に関しては全く分からないと。周りから指摘されても分からないと。だからこれは過去のことだけじゃなくて現在も含めて、徹底的に懺悔、あるいは念正智して反省する心が必要であると。
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