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解説「ラーマクリシュナの福音」第二回(1)

2010年4月10日

解説「ラーマクリシュナの福音」第二回

 はい。今日はこの間の続きで、『ラーマクリシュナの福音』から、「師と弟子」という、いわゆる導入の部分の物語をテーマにしていきたいと思います。
 もう一回復習すると、この『ラーマクリシュナの福音』と呼ばれる書物は、まあ非常に分量の多い、分厚い本なんですけども、非常に貴重な書物です。何が貴重かっていうと、ラーマクリシュナはね、まあ皆さんも知ってのとおり、インド三大聖者の一人といわれるぐらいの、なんていうかな、かなりの、インド、あるいは世界中にも影響を与えた大聖者の一人ともいえる。
 で、そのラーマクリシュナっていう方が、まあ百数十年前まで生きてたわけですけども、その弟子の一人の、通称Mといわれる、マヘンドラナート・グプタという人が、まあ大変頭のいい人だったみたいで、足しげくラーマクリシュナのもとに通って、その日の、ラーマクリシュナがしゃべったこととか、あるいは実際に起きたいろいろなこととかを記録し、で、それを全部まとめて出版したのが『ラーマクリシュナの福音』なんですね。ですから、それだけの大聖者といわれる人の語ったことや、あるいは行なったことが、そこまで克明に残ってる記録っていうのは世界に類を見ないわけだね。だからそれだけ貴重な記録っていうことになります。
 で、そのM、作者であるMといわれる人が、初めてこのラーマクリシュナの所を訪ね、そしてまあ、会話をしたときの話がこの「師と弟子」といわれる導入の部分になりますね。
 で、前回までをちょっと復習すると、この初めての会話の中で、まず、いくつかの打撃をMは受けるわけですね。つまり普通に話してたんだけども、自分のプライドを粉々に崩される打撃をラーマクリシュナから受けるわけですね。で、前回やったのは、まず――まあ、さらっと言うと、「おまえ、結婚してるのか?」とラーマクリシュナに聞かれるわけだね。で、Mという人は、まずその当時のインドの中ではかなりのエリート。まあ非常に、言ってみれば高学歴でいい大学を出て、で、その当時インドっていうのはイギリスに支配されてたわけだけども、その欧米の多くの学問を学び、で、英語も流暢に話し、で、ある程度の、なんていうかな、社会的地位を得ていた人ですね。で、結婚をして、子供もいて、社会の務めも果たしていた人なわけだね。だからある程度自分の今の立ち位置っていうものに対してすごくプライドがあったわけだね。「わたしは立派にやってるぞ」と。で、ラーマクリシュナに出会って、ラーマクリシュナに一番最初に「結婚してるのか?」って聞かれて、普通に「ええ、してます」って言ったら、「なんだって!」と(笑)。「おまえ、結婚してるのか!」と(笑)。で、それだけじゃなくて、なんか近くにいた弟子をわざわざ呼んで、「こいつ結婚してるんだって!」と言われて(笑)、いきなりMはドキドキするわけだね。「おれはなんか悪いことをしたんだろうか?」と。そしたら今度はラーマクリシュナが、「子供はいるのか?」と聞くわけだね。Mはもう超ドキドキして、「え! やばい!」と思いながら(笑)、「ええ、子供もいます」と答えたら、「子供までいるのか!」と。ね。
 これはまあ、前回にも言ったけども、もちろん一般論ではありません。一般論ではなくて、つまりMに対するラーマクリシュナの巧妙な、なんていうかな、会話なわけですね。
 ここでの意味は、まあ、二つあったと思う。一つは、実際にMのプライドを打ち砕くっていう要素。で、もう一つは――前回も言ったけども、ラーマクリシュナの弟子っていうのは二つのタイプがいて、一つは若者。この若者っていうのは十代とかそこらの若者たち。で、これはもうほんとに、なんていうかな、ラーマクリシュナは彼らには、「おまえたちは世俗の仕事も一切するな」と。で、もちろん「異性とも付き合うな」と。「ひたすら神のためだけに生きろ」って言った人たちなんだね。で、もう一方はそうじゃなくて、もうすでに仕事もあり、社会生活も、まあ家族もあり、社会生活を立派にね、送ってる人々。この人々にはラーマクリシュナは、「しっかり自分の義務を果たせ」と。「社会的義務を果たしながら、神から心を離さずに立派に生きていきなさい」と。で、実際もちろん経済的に、あるいはいろんな意味でね、社会的にラーマクリシュナの教団を支えたのはその後者の方の人たちなわけですけどね。ですからそういう役割がそれぞれあったわけだけども。
 で、Mっていうのはそういう意味ではその中間みたいな感じだった。つまり年齢的にも、この当時、まあ二十七、八ぐらいの年齢で、なんていうかな、性質的にもそういった、世を捨てた修行者的な要素と、もうすでに社会、家庭を持ってるっていう要素と両方あったわけだね。だからまあラーマクリシュナとしては、ほかの十代ぐらいの弟子たちと同じような目でMを見て、でも実はもう結婚して子供もいるっていうので驚いたっていう部分もあったのかもしれない。
 でも実際には、ラーマクリシュナをはじめとしたこういった聖者の話っていうのは全部対機説法なので――対機説法っていうのは、目の前に現われたその弟子に対して最も利益があるように話す話し方をするので、まあ、Mのプライドを打ち砕くっていうのは一つの大きな目的だったのかもしれない。
 はい、そして二番目の会話は、今度はラーマクリシュナは奥さんについて聞くわけだね。「おまえの奥さんはどんな性質の人か?」と。まあ、ここでラーマクリシュナが使った正確な言葉は、「ヴィディヤーシャクティの人か、もしくはアヴィディヤーシャクティの人か?」って言うんだね。このヴィディヤーシャクティ、アヴィディヤーシャクティっていうのは、まずシャクティっていうのはこれはエネルギーとか力とか、この世界をつくり出す大もとのね、エネルギーのことですけども。ヴィディヤーっていうのは明、明智、つまり智慧のことですね。アヴィディヤーっていうのは、まあ無智とか無明のことだね。つまりこの世界っていうのはヴィディヤー、つまり例えば修行とか聖者とか教えとか、そういうすべてを明らかにする光のエネルギーと、それからアヴィディヤー、つまりすべてを無智にする無明のエネルギーでできている。で、人間の性質も、そのヴィディヤー、智慧の性質が強い場合と無智の性質が強い場合があるわけだね。で、ラーマクリシュナは、「おまえの奥さんはヴィディヤー、智慧の性質の人か、それとも無智の性質の人か?」って聞くわけだね。で、そこでまたMは普通に、普通の会話としてね、「ええ、妻は申し分ありませんが、でもまあ無智です」って答えるんだね。そしたらいきなりまたラーマクリシュナは怒りだして、「なんだって!」と。「それでおまえは自分は智慧があるというんだな!」と、いきなり怒るんだね。
 これは、なんていうか、客観的に見るとこれもちょっと、つじつまの合わない会話だよね。だって聞かれたんだから、ラーマクリシュナに(笑)。「どっち?」って聞かれたんだから、どっちか答えるしかないよね。うん。それで「まあ、無智で」って多分謙遜して答えたと思うんだけど、そしたら怒られた(笑)。「じゃあ、おまえは智慧があるというのか!」と。ね。これも分かると思うけども、ラーマクリシュナの対機説法なわけですね。で、ここでまたMのプライドが砕かれた。次に砕かれたプライドというのは、さっきも言ったようにMというのは大変な、まあインテリだった。多くの教養があった。で、それが智慧であるというちょっと勘違いがあったんだね。つまり本来の智慧っていうのはそんな知識とは関係がない。ね。で、自分はある程度知識がある。しかしうちの奥さんは無智で、みたいな雰囲気で言ったんだけども、でもラーマクリシュナとの対話によって、いや、智慧というのはそんなものとは全く関係がないと。神に目覚めてるかどうかのみが智慧があるかどうかなんだっていうことで、自分の持っていたプライドを打ち砕かれるわけですね。
 で、今日のところにつながるわけですけども、こういう感じでMは初めてのラーマクリシュナとの出会いで、自分の持っていた誤ったプライドや見解を次々に打ち砕かれ、ラーマクリシュナの真の弟子になっていくわけだけど。で、こういうのをね、ほんとのイニシエーションっていうんです。イニシエーション。イニシエーションっていうのは、まあサンスクリットではアビシェーカといいますけど、あるいは日本語では灌頂といいますけども、もともとイニシエーション、灌頂っていうのは、インドでね、新しい王子様が王様として正式に王位に就くときに、頭に水を注ぐ儀式があったんだね。まあ、そこから転じて、修行者が入門するときの儀式としてイニシエーションっていうのは行なわれるんですけども。このイニシエーションとかアビシェーカっていうのは実際に、まあヒンドゥー教でも仏教でもすごく形式化してね、例えばこの教えを受けるときにはこの儀式、イニシエーションを受けなきゃいけないとかあるわけですけども、本来のイニシエーションっていうのはまさにこのラーマクリシュナがやったようなことなんです。つまりかたちとかはあまり関係がない。今まだ世俗に染まっている、まだ聖なる流れに入っていない者を、この場合だといろんな対話によってプライドを打ち砕いたりして、その道に入れるように師が、なんていうかな、かたちを整えていくんですね。こうしてまあ、その道に入る準備が整うっていうか。これはまさにそういった生きたイニシエーションの一つの実例だね。
 はい、こうして二つの打撃を受けたMなんですが、まだその会話が続くわけだね。

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