yoga school kailas

M――使徒にしてエヴァンジェリスト(10)

第五章「神が最初、他のすべてはその後――”わたしをつかんで離してはならない”」(1)

 ミヒジャのアシュラム。Mはベランダの椅子に座っている。彼の側の木製の寝椅子に、サティヤヴァンとファニが座っている。遅れて、ムカンダとジャガバンドゥがやって来た。ブラフマ・ムフールタにベッドから起き上がり、早朝の瞑想と朝の沐浴を終えて、彼ら皆がベランダに集まった。このように、彼らは神の話を聞くために、ほとんど毎日この時刻に集まるのである。そうこうするうちに郵便物が届いた。現在は午前8時半過ぎである。

 サティヤヴァンとファニはラムプール・ハット・スクールの生徒である。彼らは15、16歳である。ムカンダはこの学校の校長である。M.Aに合格し、教職をとった。まだ結婚はしていない。おおよそ子供のころから、彼はMの信者である。彼は良い健康状態を保てていないので、心身共に休息するためにMとともにミヒジャへとやって来たのだ。1、2人の生徒が、ムカンダの世話をするために彼とともに滞在している。

 手紙が読まれている。小さいジテンが書いたものだ。

“今朝、聖堂に入ると、シュリー・シュリー・マハープルシャ・マハラジ(スワミ・シヴァーナンダ)が、南のベランダに座っていたサードゥに合掌して挨拶をされていました。”

 小さいジテンはとある事務所で働いていた。Mの指示で、彼は毎日、業務時間の後、コルカタからベルル・マトへ行って、そこで夜を過ごし、サードゥの集まりの中で瞑想していた。朝に彼は事務所に戻る。食事はコルカタの自宅でとっている。ほぼ毎日、彼は手紙でMにマトでの生活の報告を送っている。今日も手紙が届いたのだ。マハープルシャ・マハラジが瞑想しているサードゥに頭を下げられた話を聞いて、Mはこのように言った。

「瞑想しているサードゥは普通の魂ではない。タクルはよくこのようにおっしゃった。

『ガンガーが洪水のとき、用水路の中もまた水で溢れる。ガンガーにガンガーの水があるなら、用水路の中にもそれと同じガンガーの水がある。ガンガーに潮汐があるなら、用水路にもまた同じ潮汐がある。ここにヒルサ魚がいるなら、あそこにもまた同じヒルサ魚がいるのだよ。』(みな笑う)

 それゆえに、瞑想において、瞑想している人と瞑想の対象は一つになる。その理由でマハープルシャ・マハラジは頭を下げられたのだよ。そしてこの瞑想の最高点はサマーディだ。それから、瞑想者と瞑想されるものと瞑想の間の区別もまた消え去る。ヴェーダーンタ論者たちはそれを“トリプティ・ベーダ”――つまり三位一体の区別と呼んでいる。サマーディにおいて、すべての区別は消え去る。あの状態において、一と二の間の違いを見ることは絶対にない。心の働きは一斉に消滅する。これが純粋な心と呼ばれているものだ。純粋な心と純粋な真我は、タクルのおっしゃるところによると、同じものだ。

 マトで生活することによってのみ、人はそのような崇高な目標を思い描くことができる。あなたは何千もの本を読むことなど、どんなことでもできるかもしれないが、これは得ることができない。何千回説教しても得ることができないものが、マハープルシャ・マハラジの――瞑想しているサードゥに頭を下げること――というたった一つの行為――いや、一つどころか数多くの行為によって、得ることができるようになった。そのような光景は心にしっかりととどめさせておくことだ。なぜ頭を下げたのだろうか?  そして頭を下げたのは誰なのであろうか? マトの最高の僧院長ご自身だ! マトに賛同し、マトに足しげく通う人が、この貴重な宝物を全部獲得することができる。足しげく通うだけでいい。バクタがマトを訪問できるように、神は直行の汽船便を与えられた。人は自由にそこへ行って帰ることができる。一晩そこに滞在することで、朝夕の瞑想を見るという恩恵にあずかることができる。さらに人は夕暮れのアーラティも朝のアーラティも目の当たりに見ることができる。人は瞑想の最中の厳粛な時にサードゥを訪ねなければならない。そのときにのみ、サードゥの行なっていることを自分もしたいという欲求が心に生じるだろう。
 バーブ(紳士)たちは口には葉巻、手には杖をもち、政治または新聞のニュースで節度のない話をするために軽薄な気持ちでそこへ行く。だから、彼らを理解するための最高の時は、彼らが内観的な気分にあるときだ。もし偶然にサードゥが何かほかのことを話すのに忙しくしていたら、彼らに頭を下げて、木の下に座るべきだ。
 たとえ心が一瞬下に降りたとしても、彼ら(サードゥたち)は意志の力だけで再び心を上昇させることができる。だが、バーブたちがそのようなことをするのは難しいだろう。よって、サードゥには最高の時間に会うべきだ。高度な生活――つまり霊的生活の理想のすべてを見出すことができるのは、そこだけだ。聖なるガンガーでの沐浴、聖なるドッキネッショルを一目見ることや、サードゥとの日々の交わりは、実にまれな特権なのだ!」

あるバクタ「ところで先生、日々の祈りと礼拝に関して、タクルは何とおっしゃっていましたか?」

M「タクルは、規則正しい伝統的なサンディヤーを申しつけていらした。日々それらを実行することによって、人は、目に見えない生き物たちに対して犯した知らず知らずの暴力から生じる罪を償う。そしてそれは聖なる目覚めにも導く。それに加えて、ただサンディヤーのために座ることで、われわれが日々為す善業と悪業が明確となる。サンディヤーは三度の交わりの時間――夜明け、日没、そして正午に行なう神の礼拝を意味する。彼はよくこのようにおっしゃった。

『ガーヤトリーはサンディヤーより偉大であり、ガーヤトリーよりも偉大なのはオームカーラ(聖音オーム)だ。』

そしてこうつけ加えられた。

『サンディヤーはガーヤトリーの中に消え、ガーヤトリーはオームカーラの中に消える。』

 つまり、絶えずガーヤトリーを繰り返すことで、人はもはやサンディヤーを必要としなくなるということだ。そして、不断の決意でそれ(オームカーラ)を繰り返すことで、ガーヤトリーは不必要なものとなる。彼は、『たった一度オームと言うことで、お前はサンディヤーの一クローレ(一千万)の利益を得る』とおっしゃっていただろう。そして、ブラフマンを悟り、サマーディに到達した者には、一切何も必要なくなる。

 オームカーラの礼拝、ア・ウ・ム――アウムの三つの音は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュ(シヴァ)に相当する。

 またそれらは人間の三つの心の状態であるジャグリト(目覚めている意識)、スワプナ(夢見の状態)、そしてスシュプティ(夢を見ない状態)を表わしている。

 またヴィシュワ(粗雑)、テージャス(知性)、プラジュニャー(精神)――つまり小宇宙の体、すなわち個我も象徴している。

 そしてさらに彼らは大宇宙、すなわち遍在する真我の三つの部分――つまりヴィラート(粗雑)、ヒランニャガルバ(集合的な知性)、そしてイーシュワラ(礼拝される者)を象徴している。

 オームカーラのそれら三つの音は非永遠なる形(アパラマルタ・ルーパ)を象徴しており、第四のもの(トゥリーヤ)だけが永遠(パラマルタ・ルーパ)を象徴している。

 さらに、ラヤ・チンタナ(思考を融合させる瞑想)がある。“ア”は“ウ”の中に溶け込み、“ウ”は“ム”に溶け込む。他の言葉では、粗雑(ヴィラート)は微細(ヒランニャガルバ)に溶け込み、ヒランニャガルバは原因(イーシュワラ)の中に溶け込む。原因は大原因(マハーカーラナ)に溶け込まさねばならない。

 粗雑は微細の中に帰して、微細は原因の中に、原因は大原因、すなわちブラフマンに帰する。タクルもまたまさにこのラヤ・チンタナについて話していらした。これは“アヌローン・チンタ”、すなわちブラフマンに連続的に没入する瞑想と呼ばれている。

 『私はブラフマン――すべての限定を超越した者である』と瞑想することで、人は救済される。ヴェーダーンタ論者たちは、まさにこのようにして瞑想している。

 絶え間なくディヤーナ(瞑想)とジャパ(御名の復唱)を実践する者には、もはやサンディヤーの必要はない。タクルはよくお歌いになった。

“トリ サンディヤー ジャイ ボレ カーリー プージャ サンディヤー セ キー チャイ
 サンディヤー タル サンダネー ピレー カブ サンディー ナヒー パイ”

 この意味は、『カーリー、すなわちイーシュワラの御名を常に声に出して唱える者――彼にプージャーやサンディヤー、三度の儀式的な日々の祈りがどれほど必要であるのか?』というものだ。サンディヤー自身が彼を追いかけるが、両者が出会うことは決してない。

 これは霊的な完成、シッディの状態において起こることだ。

 初心者は日々、ディヤーナとジャパを決まった時刻に実践しなければならない。たとえおびただしい数のやらねばならないことがあったとしても、少なくとも朝と夜には祈りのために座らなければならない。ヴィッダシャーゴル・マハーシャヤはよく父親と兄弟たちのために食べ物を自ら調理していたし、また暇を見つけたときは勉強もしていた。実践はすべてのことを容易にしてくれる。五つのことを一緒に行なうことさえ可能だ。タクルはよくこのようにおっしゃった。

『人は朝の三時、そうでなくても四時には起きなければならない。四、五時間眠れば十分ではないか? 早朝の時間帯に起きて、人は瞑想しなければならない。ブラフマ・ムフールタに座れば、容易に瞑想に入ることができる。これはサードゥや悟った魂たち皆が瞑想に没頭する時間だ。そのときには、ある霊性の流れが湧き続ける。』

 もし夜に取る食べ物に気をつけなければ、早起きできなくなる。そのために、タクルはこのようにおっしゃった。

『日中は、大砲の中の火薬のように腹いっぱい食べてもよい。だが夜は、シンプルな軽食だけにしておきなさい。シャーンプクルの家で私はこう言った。

「ギーターを読みなさい。そこにお前は、綿密に検討された食物と活動についての指示を見出すだろう。ヨーギーの食物はしっかりと考えられている。多すぎず少なすぎず、シンプルで栄養があり、消化されやすいものだ。夜にはまさしくその正しい食事がとられなければならない。夜に食べ過ぎると、眠気に襲われ怠惰になる。腹はゴロゴロ鳴るし、心は休まらず、チッタは乱れ、集中を失って不幸を招く。そこの人々(サンタルの人々)はいくらかの豆ご飯、または緑色の野菜しか食べない。それなのに彼らがどれほど健康そうであるか見てごらん。」』

 食物は、霊的な実践や祈りに没頭する人々にとってほどよい最小限の量にするべきだ。その他の者とは違うのだ。スパイスや調味料は無用だ。食べ過ぎることは消化不良を招く。アナディ・マハラジは消化不良で5年の間苦しまれた。少量のギーとご飯を取ることで彼は回復した。ダル、つまりレンズ豆で十分だろう。ご飯にはせいぜい少量のギーを加えるだけでよい。病人または老人たちには牛乳ご飯と少量のギーで十分だ。ぜいたくを愛する人々の家ではさまざまな種類の食物が1時まで調理される。彼らは後に病気なって初めて、それらをはっきりと理解するだろう。

 ギーターの詩句を覚えているかね?

――食物と休養を節制する者、自らの行為を抑制した者、眠ることと目覚めることが調御された者には、悲哀を完全に滅するヨーガが生じる。(ギーター 第6章 17節)

 ごらんなさい。“ヨーゴー バヴァティ ドゥヒカハー”――つまり、これが神と一つになることでこの世俗の苦しみを征服するための真のヨーガである、と言っている。これが稀有なるものを得るための方法だ。――綿密に検討された食物や活動によってね。だが、誰がこれに耳を傾けるだろうか?

 『神は自ら、太鼓の音とともにそのようにおっしゃったが、自然は我々が耳を傾けることを許さなかった。』

 神は直接的に禁じることはなさらない。結果が物語る。過食、過度な着飾り、ぜいたくな生活! どうだ、それらは結局はひどい結果を生んでしまう。タクルはアダル・センに馬車に乗らないように言われた。しかし彼は馬車に乗って事故にあい、かなり苦しんだ。彼は手足を骨折し、ついには死んでしまった。彼が最初に馬車で軽い事故にあったとき、タクルは彼に警告なさった。

『なぜだい! 駕篭で申し分ないではないか。それには危険はないよ。』

 アダル・センはそれを聞かなかったので、結局命を失ってしまった。

 あるとき、あるバクタが遅い時間にベッドから起き上がった。タクルは彼を叱ってこのようにおっしゃった。

『長く眠る代わりに、お前は早く市場へ行って、ラムラルを手伝ってやるべきだ。』

 このようにして、タクルご自身が人生の理想を示され、個人的な指示によってバクタにそれを教えられた。

 瞑想とジャパは常に実践しなければならない。それらに終わりはない。ある人がほんの少し瞑想とジャパを実践すると、それによって評判と名声を得ることができる。彼はもう十分に為したと考えて、それ以上何もしようとしない。だがそれはそうではない。タクルはよくこのようにおっしゃった。

『お前が前へと進むほど、より多くを得るだろう。それだからもっと先へとどんどん進みなさい。最初にお前はビャクダンの森に到着し、それから銀やダイヤモンドや真珠の鉱山などだ。それには終わりがないのだよ。』

 容器が大きければ大きいほど、収容できる量は増える。もし容器が小さければ、ほんの少ししか収容できない。大きな器をそなえれば、さらに大きな容器が必要になる。際限がないのだ。
 コシポルにおいて、タクルはこのようにおっしゃった。

『マーは多くのさまざまな境地を通して今もなお私を連れて行ってくださっている。彼女は今なお私を変えてくださっている。それには終わりがない。』

 いいかね、よく聞きなさい。アヴァターラである彼でさえ、『マーが今なお私を変えてくださっている』とおっしゃったのだよ。それには終わりがないのだ。ならば、ほんの取るに足りないことしか為していない普通の人間が、あらゆることを成し遂げたなどとどうして言えよう。
 タクルはよくこのようにおっしゃった。

『人生の目的は神を見ることだ。もし人が神を見ないなら、何も成し遂げることはない。』

 これが人生の理想であって人生の目的だ。それを放置してしまったら、すべてが無駄になる。神が最初で、他のすべてはその後だ。他のすべてが最初で神が後なんていうあべこべはダメだ。
 彼はただそのようにおっしゃっただけかね? いいや、彼ご自身がそれを為されたし、彼の近しい弟子たちもそうした。彼らも彼のお言葉に信を置いていた。そのために、彼らの人生もまた蜂蜜のように甘くなった。彼に信を置いている他の者もまた、その分け前を受け取り、平安を受け取っている。

 彼はよく無限なるブラフマンと対話をしていらした。無限なる無相のブラフマンと呼ばれる主を、彼はよく“マー、マー”と呼んでいらした。部屋が人でいっぱいになったとき、彼はこのようにおっしゃった。

『マーイリ ボルッチ マー アシュチェン――本当に、本当に、お前たちに言っておこう。やって来られるのはマーなのだよ。』

 現代的な快楽主義が、心の純真な信仰を破壊している。そのために彼はそのようにおっしゃり、そして彼女に話しかけたものだ。誰もが一方だけが話すことしか聞こえず、もう一方は目に見えなかった。

 ただ単に話をすることが信仰をもたらすかね?
 疑念は一歩ごとについてくる。ミルクのことを聞いたことがある人、見たことのある人、さらに実際に飲んだことがある人がいるのとまさしく同じように、信仰にも段階があるということを、タクルはよくおっしゃっていた。個々の経験は、他の経験を継承して、より高度になる。ミルクを飲んだことのある者だけが、完全な信仰を持つ。完全なのは、キリストやタクルのようなアヴァターラへの信仰だ。

『苦痛に満ちたこの世から抜け出したいなら、私に縋りつきなさい。』――これが彼のメッセージだ。彼は内輪の弟子たちにだけそのようにおっしゃった。全員がこの命令を受け入れることができたわけではないがね。

 それゆえ、彼の瞑想と礼拝を常に行なわなければならない。強く熱望し、人は独りで密かに泣かなければならない。

『わが主よ、ご自身を私にお明かしください。どうか私にお姿をお見せください。』

――そのように言うのだ。彼は、瞑想も礼拝もしない不調和な人を見ることに耐えられなかった。彼がそのような人たちの前にいるとき、水の中から外へ出た魚のように苦しそうに喘いでいらしたものだ。
 このように実践することで、人は主への愛を育む。愛はあらゆることを容易にする。もし人が主に近づくことができれば、非常に多くの平安を得る。主の恩寵によって主がご自身をお明かしになれば、それは完全な平安であり完全な至福なのだ。そうしてのみ、人生に完全な成功がやってくる。」

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