M――使徒にしてエヴァンジェリスト 第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(5)
第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(5)
夕方の6時半。Mはタクル寺院でバクタたちと共に座っている。彼は今、瞑想をしているところだ。8時にコタムリトの朗読が始まった。テーマは「スワミジについて」。Mの要望で、スワミジに関する部分が最近何日にも渡って朗読にとりわけ選ばれている。話題は、喜びと苦しみである。
M(朗読の終わりに)「神を呼び求めることで、人は常に人生を幸福に感じるという訳ではない。それは喜びや苦しみとは無関係だ。このリーラー(遊戯)は、非常に理解し難い。概して人はそれを全く理解できない。
ビーシュマ・ピターマハー(長老)は、矢のベッドに横たわっていた。パーンダヴァたちは彼を見に行った。彼は泣いていた。シュリー・クリシュナもそこにいらした。彼が泣いているのを見て、アルジュナはシュリー・クリシュナに、『ピターマハー(長老)でさえも死を恐れて泣いている。』と言った。彼は知っての通り、大変偉大な形而上的真理のジュニャーニであり、その上、誠実であり感覚を征していた。――結婚することもなかった。シュリー・クリシュナは、ビーシュマに尋ねても良かろうと合図をした。彼は答えた。
『兄弟よ、私は死を恐れて泣いているのではない。私が泣くのは、おまえたちがみな神ご自身と共にあるのに、おまえたちの悲しみはつきないと考えるときだけだ。そのことを考えて、私は涙を流す。私は神のリーラーを何も理解してはいないのだ。』
「タクルがそこにいらしたにもかかわらず、ナレンドラは悲しみから逃れることができなかった。悲しみと悩みのたねは、人が体を持って生きている限り、そこに存在するものだ。それでも、あなたの心が神に留まれば、あなたはそれほどその痛みを覚えはしない。あなたは、神に心が向いていない人ほどおびやかされるはずもない。非常に多くの苦労を経て、スワミジはあれほど偉大な人となった。そういうわけで、スワミジはよく言っていた。
『彼らは悲しみや苦しみを経験してこなかった人たちか? 裕福であろうと、学識があろうと、90才であろうと、彼らは赤ん坊、小さな赤ん坊のままだ!』
彼(スワミジ)の人生は終始、困難と試練のうちに過ぎていった。彼は禁欲生活をするためにアルモーラーへ行った。腰を下ろすやいなや、彼は自分の姉妹が亡くなったという知らせを受けた。彼は姉妹のことが大好きだった。
また、かつて彼はリシケシで死の間際にいてひどく苦しんだが、決して泣き言を言わなかった。なんと勇敢な人だろう!
ヴェーダには、こう記してある。
『弱い者たちは真我を悟ることはできない。』
強い心を持つ必要がある。出来事の変転が心に弱さをもたらしたら、理想、つまり、タクルの偉大な教えを思い出すのだ。――特にそのテーマに関して彼がおっしゃったことを。悲しみと苦しみは、人間の体がある限り、そこに存在するものだ。スワミジ自身は貧しさを経験していたため、貧しい者たちに対して常に大変深い慈悲を抱いていた。それが、セーヴァ・アシュラマを発足した理由であり、ダリドラ・ナーラーヤナ(貧者の中の神)への奉仕である。
人生の目的を一つ持つことで、人は常にヨーガの中にある。さもなければ、真昼にトランプをしに隣人のところに行く。確固たる目標のある人には、他のことをする時間は全くない。昼も夜も。
悲しみ苦しむ折りには、スワミジのことを思い出すとよい。英雄の如く、人は困難に直面せねばならない。人はこう言わねばならない。
『来るなら来い。私には少しも害にならない。』
心が弱っていたら、母なる神に祈るのがよい。勇敢でなければ、悲しみや苦しみという外なる敵や、煩悩や怒りなどという内なる敵を、どうやって打ち破ろうというのか?」
ヒンドゥー歴1329年1月5日
西暦1923年3月19日
月曜日