M――使徒にしてエヴァンジェリスト 第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(2)
第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(2)
ある男子学生は、アシュラムで暮らしており、日雇労働者から物を買っていた。いま、会話がその話題に移った。
M(一人のブラフマチャーリに)「一方には恐らく盗まれたであろうもの、もう一方には嘘の報告。その値段を尋ねた時、彼は『12アナです』と言った。しかし、その本当の値段は4アナと運搬費の2アナだと聞いた。サンスカーラというのは、そのようなものだ。この石炭を使って調理するのは、道理に合わない。それは心をけがす。どうだ?
ブラフマチャーリ「はい、先生。決して使うべきではありません。」
M「如何なる贈り物も受け取らないと述べ、どんな人からも受け取らないと誓うブラフマチャーリは非常に多い。ゆえに、それにもかかわらず、盗んで得た石炭で調理するとはもってのほか、とんでもない!
(微笑みながら)たった6アナのために地獄行きなど、駄目だ、絶対に! なぜそんなに易々と地獄行きに? どうだ?
全能のスワミジにさえ、タクルは『おまえはまだその状態にない』とおっしゃったことがある。コシポルの庭で、最後の療養中のことだ。タクルは彼を傍らに呼び、『ちょっと食べさせてくれ』とおっしゃった。スワミジの手に支えられ、彼(タクル)が食べ物を口に入れようと手を持ち上げると、それはそれなりに高く上がったが、口の2インチ下でこわばってしまった。タクルの手はそれ以上はどうしても上がらなかった。彼がそうおっしゃったのは、そのときだ。タクルが霊的に偉大な人として選り抜いたスワミジにもこのようなことが起こりえるなら、他の者はどうであろう? タクルはよくおっしゃっていた。
『神を悟ることは非常に困難だ。少しでも毛羽立っていれば、糸は針の穴を通らない。それほど困難なゆえに、ギーターにはこう記されているのだよ。
「ほんのわずかな者だけが私を真に知ることができる。無数の者の中で、神を悟ろうと試みる者は非常に少ない。彼らの中で神を知る者は稀だ。」
とね。』
それほど困難なのだ! さらに、ウパニシャッドにも、かみそりの刃の如く、その道は急で歩を運ぶのは難しいと記されている。
この石炭は捨てねばならない。触れることさえ罪だよ。
(一人のブラフマチャーリに)ジャティン・バーブのところへ行って、聞いてみておくれ。われわれはここにもう一ヶ月滞在することになりそうだからな。荷車一台分の石炭を配達(供給)してくれるかどうかをね。あの金は手放そう。盗人を幇助したことになってしまった。われわれがすべきことは、彼にそうさせないことだった。それどころか、彼を認可して、それを助長してしまった。これは良くない。切符なしでトラムに乗り、6パイス金をごまかし、今日の乗継切符を明日使う――これで何が身に付くのか? 心を浄化すること、それが肝要なことだ! 心を浄化せずに、神を悟ることはできない。」
そして、Mは話を中断した。
ブラフマチャーリ「ところで先生、心の浄化とはどういう意味でしょうか? この浄化が得られたとき、どうなるのでしょう?」
M「心の浄化とは、単にこういうことだ――私は神のしもべ、神の子云々、あるいは神そのものである。
こうした見解の一つを瞑想すると、何度も繰り返した過去世のサンスカーラは、なきものとなる。男である、誰それの息子である、何処そこに住んでいる云々という心の不浄も滅する。心が浄化されると、これしかなくなる――私は神のしもべであり、神の子どもである、と。すると、そのような考えしか心に生起しない。
”わたし”、人間、ブラーフミンなどという、心の不浄な思いは、音を立てて崩れる。例えば、私は神のしもべである、神の子どもである、あるいはソーハム(私は彼である)というような、心の清らかな思いがあれば。この清らかな思いによって、不浄な思いは壊れる。そうした場合にのみ、人は、客体を得て、神を悟る。鏡の中の獅子のようなものだ。心の浄化と、真我を悟ることや神を悟ることは同一だ。心が最高に浄化された状態が神である。浄化された心と清らかな自己は一体なのだよ。ヴェーダーンタにおいて、この心の浄化は、トワム(物質としての”あなた”)の蒸留と呼ばれる。タット・トワム・アシ――汝はそれなり。タットは、ブラフマン、イーシュワラという意味であり、トワムはジーヴァ(具象化した魂)という意味だ。ジーヴァートマの破壊の過程は、トワム、すなわち物質としての”あなた”の蒸留と呼ばれてきた。人がトワムの探求において前進するにつれて、トワム、すなわち物質としての”あなた”が、タット――すなわち”それ”、あるいは”神”――に没入するのがわかる。ジーヴァという束縛から解放され、具象化した魂は、シヴァ――神、永遠なる善きものとなる。
もっと単純ないかなる言い方で、タクルはこのようにおっしゃった。
『わたしは”わたし”を探したが、見つけられなかった。わたしには、あらゆるものがあなた、母であることがわかったよ。』
さらにタクルは、内輪の帰依者たちにこう語られた。
『おまえたちは、何もする必要はない。私が誰で、おまえたちが誰か――これを知るだけで十分だよ。』
言い換えれば、(ここでいう)”わたし”とは神であり、ヴェーダ的には『タット』と呼ばれるものである。そして”あなた”は私の子ども、タットワということである。父も息子もひとつ、同類だ。これがアドワイタ、不二一元論だ。
これもアドヴァイタの智慧なのだよ。こうした心構えによって、バクタはアドヴァイタの智慧を得る。
また別の道、叡智の道がある。求道者はまずこのタットについて教えを受ける。神は存在する――この信仰がまずあるべきだ。その後、神の性質を考える。神は清浄な性質を持つ。神は清らかで、混じりけがなく、光り輝き、常に自由である。つまり、サット・チット・アーナンダ(絶対なる実在・叡智・至福)だ。神は実在・叡智・至福が結晶化したものだと言う者もいる。この概念がしっかり根付くと、『私は誰なのか? 私のものとは何か?』という疑問が自ずと生じる。そのとき初めて、人は真の『わたし』を探し出す。最後には、一体”あなた”が何なのかということ、そして自分も”あなた”と同じものだということがわかる。実体は一つしかなく、二つとない。タクルが、『アドワイタの智慧を自分の衣に結び付け、自分の好きなことをするとよい』とおっしゃったのは、そういうわけだ。
まず自分自身の神性を確立しなさい。そうすれば、あなたの望む心の態度で自身の神を享受できる。損失は全くない。しかし、最初に確固とした関係を築かずに進むと、混乱に終わってしまう。
ゆえに、心の清浄なしには何も達成されない。あらゆる崇拝、無私の行為、智慧の道、帰依の道、そして他のさまざまな道が存在するのは、この心の浄化のためなのだよ。
『滅びにいたる門は大きく、その道は広い。』(マタイによる福音書 7章13節)
そして、
『命にいたる門は狭く、その道は細い。 』(マタイによる福音書 7章14節)
命とは、永遠の命のことであり、ヴェーダではアムリト・タットヴァと呼ばれる。
外側の清浄になんの利益があろうか? 人は何度も目を閉じ、身体に灰を塗り付け、断食を行ない、水に浸かるかもしれないが、心が浄化されるまでは、何も役に立たない。内側が清らかでなければならないのだ。一般に人が達成しうる最高のものは、世俗の賞賛、名声、名誉だ。このようなものは、もう終わりだ。それほどのものでしかないし、それまでのものでしかない。」
そういうわけでタクルは、『心と言葉をひとつにしなさい。神を望むならばね』とおっしゃった。
濁った水には何も映らない。同様に、心が不純なら神を悟ることはできない。タクルは純粋そのものだった。彼がスワミジの手からでさえ食べ物を受け取れなかったのは、心の底まで極めて純粋だったからだ。
ある一人のバクタがいた。彼の給料は、月に25ルピー。彼は時折、タクルのためにラビ(甘くしたクリーム)などを持ってくることがあった。タクルはわれわれにおっしゃった。
『なあ、彼が持ってくるこういうものは、私には糞尿のように思えるんだ。』
のちに、25ルピーの給料に加え、彼は不正な請求書を再び手渡して、30ルピーを余分に儲けているといわれていることが明らかになった。彼の持ってきたものが糞尿のように見えたのは、そういうわけだ。タクルは、彼の捧げ物を口にすることができなかった。
多少の人々がしなければならないこの事務仕事もまた、無私に為されれば、心を浄化する。さもなければ、それはとらわれとなる。」